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10 総務部主任 長瀬景子(SIDE:澪)

 自宅に入ってまず最初に行ったのは、バッグの内ポケットからUSB型ボイスレコーダーを取り出して録音を終了させた後に、イヤホンで念のため音声を再生して内容が聞き取れることを確認してからパソコンを立ち上げ、録音データを保存することだった。


 先程保存した音声データと同じフォルダ──フォルダ名は20180403keとした──に保存し、ボイスレコーダーの音声ファイルもスマホのデータと同じクラウドサービスにアップロードしてバックアップを取る。

 後日、小夜が録画したデータも受け取って同じようにバックアップを取る予定だ。これらを使わずに済めば良いのだが。


 小夜には「澪はいったい何と戦おうとしているの?」的なことをしばしば言われるが、良く知らない信頼できない相手とたとえ人目のある場所でも何の対策もなく二人きりで会うなどということは、とてもできない。


 私は自分も他人も信じていない。私が心から信じられるのは小夜と家族だけ。悪意や害意の有無などは正直どうでも良い。

 こちらが行きたくないという意志を示しても連れ出そうとする輩の思惑など知りたいとは思わない。


 求める結果が得られさえすれば、そこに至る過程や理由・原因なんてものは些細なことだ。

 私が心理学やコミュニケーション・人間関係についての書籍を購読するのは、それが生きるために必要だからだ。

 平穏に生きられるのであれば、生きるために必要な楽しみ・喜びを得られるのであれば、それ以外の全てのものは本当はどうだって良い。


 万が一にも不覚の事態が起きないように十全に対処したつもりなのだが、これで相手が諦めないという可能性はあるだろうか。帰り際の様子からすれば、次はもうないだろうと思いたい。

 誰に言っても否定されるが、私は基本的には平和主義者で荒事は苦手なのだ。何事もなく無事に過ごせるのであれば、それに越した事は無い。


 ただちょっと人より臆病で小心者で慎重なだけ。不確定な未来に自身の運命を委ねるのは恐いので、できるだけ手短に確実な結果(みらい)を得るために行動しただけである。

 ただの保身だ。お前の保身や護身のやり方は物騒だなどと言われるが、神に祈るよりは確実だと思う。


 おおっぴらに人には言えないが。



   ◇◇◇◇◇


  

 だいたい月に一度、女に生まれてきたことを苦痛に思う期間があるのは何故だろう。昨夜、寝る間際に軽い腹痛を覚えてトイレに駆け込んだ時から、嫌な予感はしていたのだ。


 下痢をした翌朝なんてものは、だいたい爽やかな目覚めをすることはまずないのだが、下腹部を絞られるような鈍痛と、嘔吐感と眩暈と倦怠感で目覚めるのは最悪だ。手足の先がひどく冷たく感じる。血圧もかなり下がっているだろう。


 目覚まし代わりのスマホのアラーム──月並みではあるが「ペール・ギュント組曲第1番 朝」のピアノ演奏を設定している──はまだ鳴っていない。


 予定より五日も早い。念のため昨夜トイレに行った際に対処していたので、下着やシーツを汚さずに済んだが、気分が最悪・最低なことに変わりは無い。

 怠い身体を引きずるようにモソモソと起き上がり、昨夜の内に用意しておいた着替えを身に着け、食欲がないので買い置きのゼリー飲料を押し入れから取り出しなんとか飲み干すと、コップに水を注ぎ鎮痛剤を服用する。


 カーディガンを羽織り、膝掛けと昨日借りた本をトートバッグに押し込み家を出ると、コンビニに寄って野菜ジュースを数本購入して一本を飲み、ゴミを捨ててからバス停へ向かった。


 うっかり腕時計を忘れた。それ以外の忘れ物はないからわざわざ家に戻る必要までは感じないが、あまり良くない兆候だ。

 ああ、憂鬱だ。昨日よりも早いから大丈夫だと思いたいが、バスの中が混んでいたらどうしよう。座れる席があれば良いのだが。


 従兄弟に『そんなに酷いなら何か病気なんじゃないの』と言われて、気は進まないものの婦人科にかかったことはあるが、『ちょっと過敏に反応しているだけでしょう』と鎮痛剤を処方されただけだった。


 確かに痛いのは苦手だ。人に触れられるのも苦手で、人の視線を感じることも苦手で、親しくない人と話すことも苦手だから、診察なんてものは大の苦手だ。


 全て壁越しで筆談で良いのなら、あるいはチャットや電話など相手が目の前にいないだけでもだいぶ気が楽になるのだけれど、それではいけないだろうか。

 AIやロボットが進化して、人の代わりにあるいは遠隔操作で診察を行うようになれば、きっと私は苦痛を感じずに済むのではないだろうか。


 そんなことを医師に伝えたりすれば、おそらく心療内科などへのカウンセリングを勧められるだけなので、口にすることはない。

 自分でもわかってはいるのだ、バカなことを考えていると。


 私は、私達は生きている限り、他人と係わらずに生活することはできない。人間は群れや集団・社会を形成し、それぞれ暗黙の了解もしくは自分自身の意志により選択した役割を担い、互いに協力し補い合いながら生きる生き物だ。


 故に、その枠からはみ出た者は、適応できない者は異物として扱われる。異物はあえてその集団に組み込もうとするよりも、排斥あるいは存在しないものとして扱った方がその集団の運営は容易になる。


 異物の方がその集団に対し非協力的で排他的で自ら孤立しようとするのならば、そもそも受け入れる必要がない。弾いて存在そのものをなかったものとした方が楽なのだ。

 他者に従うのは嫌だが、集団に弾かれるのも嫌だという論理は通じない。集団に交わることを良しとしないなら孤高を貫き、単独で生きられる道を探し、誰にも頼らず一人で生きていくしかないのだ。


 私はと言えば、集団に属することについて良いとも悪いとも感じていない。ただ、集団の中で生活することを望むのであれば、その集団内にある基本的な規則(ルール)礼儀(マナー)、そして同じ集団にいる他者に対する配慮が必要だということは知っている。

 それらを守り他者を尊重する気持ちがなければ、厭われ疎まれ排斥されても仕方がない。


 ロキソニンがようやく効き始めたようだ。自分では制御できない継続的な苦痛は、人の集中力や思考力や感情などに大きく影響する。

 注意力が散漫になってミスをしやすくなったり、気分が鬱々としたり情緒不安定になったり、マイナス思考になってしまったり、ろくなことにはならない。


 わずかながら食事を摂り身体を動かしたことで、体温なども上がってきたようだ。若干脈拍が早くなってはいるが、正常値の範囲内である。倦怠感は若干残ってはいるものの、この程度であれば無視できる。

 ならば問題はないだろう。ただ一つの懸念事項以外は、概ね健康で心身共に異常はない。入社したての私に出来ることは少ないが、頑張ろう。


 会社へ行くためのバスに乗り込んだ際、一瞬しまったと思った。奥の方にチャラ男先輩が座っているのが見えたからだ。しかも、空いている席は彼の隣だけである。

 同じバス停で乗り込む人は他にもいる。気付かなかった振りで前の方へ向かう。幸い声を掛けられるようなことはなく、安堵した。


 座ることはできなかったがバス内で立っている人はそれほどおらず、見知らぬ他人と密着するようなこともなさそうなので、本当に良かったと思う。


 約一名、懸念事項はあるが今度からこの時間のバスに乗ることにしようか、とも思う。これより早いバスに乗ろうとすると四十分前となり、きちんと化粧もするとなると一時間弱早起きする必要がある。

 会社へ到着する時刻もその分早くなってしまうわけで、そうする必要や用事がなければ時間を持て余してしまうだろう。


 危険が起こる可能性を全て排除したとまでは言えないものの、お互い必要のない限り係わらずにいられればそれで良い。

 別に私は彼を特別嫌っているというわけでもないので、私と係わりさえしなければ彼が何をしていてもかまわない。


 私に話し掛けず、直接的にも間接的にも係わらずにいてさえくれれば、彼がこの世に存在しようがしまいがどうだって良いのだ。


 憎悪も嫌悪も、何らかの感情が生まれるほどの付き合いもないので。


 ぼんやりとバスに揺られて目的のバス停で降車すると、寄り道も脇見もすることなく真っ直ぐ会社へと向かった。

 変に近付いてくる気配やこちらを伺うような気配も一切なかったことに心底安堵して、エントランスから更衣室へと歩き、ロッカーにバッグを置く際になってふと思った。


 私物の持ち込みは必要な時以外はなるべく控えるようにということだったが、いわゆる生理用品の持ち込みに関してはどう扱うのだろうか。

 男性には少し聞きづらい。だが、これはないと困るものだ。四階と一階、業務時間内にシステム開発課とロッカーを何度も往復するわけには行かないはずだ。


 では、これは持ち込む必要がある私物だという許可を得なくてはいけないのか、それとも自己判断で持ち込んでも良いのだろうか。

 しまった。こういう場合どうすれば良いのか、全く想定していなかった。悶々と考え込んでいると、背後から声を掛けられた。


「大丈夫、気分でも悪いの? 具合はどんな感じかしら」


 振り返ると、そこには四十代半ばと思しき女性が立っていた。身長は同じくらいか、相手が心持ち低めだろうか。しかし、おそらく体重は少なく見積もって私の1.4~5倍ほどはある。

 私の両親よりも年上、ふっくらした頬が全体の印象を和らげ、善良で優しそうだ。割烹着などを着て買い物袋でも下げていれば、スーパーや商店街などで良く見掛けるおばちゃんに見える。


「……おはようございます、いえ、大丈夫です。健康に問題はありません」


 私が会釈しつつそう答えると、彼女は私の手元にある巾着袋──母が趣味で作る手芸品で、端切れにメジロと白梅の刺繍を施してある──を見て、心得たといった表情で頷いた。


「ごめんなさい、挨拶がまだだったわね、おはようございます。今年入ったばかりの子よね。私は総務部の長瀬(ながせ)景子(けいこ)、主任なの。

 ところで鎮痛剤とかは必要ないかしら。もし必要なら総務に常備している薬箱があるからいつでも取りにいらっしゃい。アレルギー対策のために複数種類の在庫があるから、選り取り見取りよ」


「いえ、こちらこそ紹介が遅れて申し訳ありません。私は音無澪と申します。自宅で既に服用して手持ちもあるので、不要です。お気遣い有り難うございます」


 そう言って頭を下げると、総務部の長瀬主任と名乗る女性は軽く首を傾げた。


「じゃあ、何か悩み事でもあるのかしら。あなた、確かシステム開発課に配属された子よね。あそこは男性社員しかいないから、何かあっても相談もしにくいわよね。

 もし良かったら、おばさんに話してみない? 話をするだけでも違うと思うわ」


 たぶんきっと、いい人、なのだろう。そう言えば小清水課長が相談するようにと言った人の片割れが、長瀬さんだった。なるほど、この人か。


「……その、鴻先輩はロッカーや金庫に預けて、私物はなるべく持ち込まないようにって言っていたんですが、例えば生理の時とか体調があまり良くない時なども持ち込みしてはいけないのでしょうか」


 私がそう切り出すと、長瀬さんは両眉を上げた。


「まあ、鴻くんったらダメねぇ。あの子、真面目で仕事熱心なのは良いけど、配慮とデリカシーに欠けてて融通が利かないんだから。

 あのね、音無さん、社則にも『社内にみだりに私物を持ち込むのは控えるよう』とか『業務時間中は不必要な私物の使用は控えること』とか書いてあるけど、あれをそのまま守っている人は、ほとんどいないの」


 え?


「言ってみれば建前みたいなものね。ほら、学校で校則に色々禁止事項が書いてあるけど、あれをそのまま守っている人って、ほとんどいないでしょ?

 それをきちんと守っていたり、守ろうとしている人は、周囲の人達に真面目な優等生って思われたりするわよね。

 つまり、社則の禁止事項を額面通り律儀に守ろうとしている人も、そう見られるの。だって、実際問題、それをそのまま守ろうとしたら色々問題が生じるもの。


 例えば、既婚で小さな子供がいる女性は、私物の携帯やスマホに、いつ預け先の幼稚園や保育園とかから連絡が入るかわからないから、業務時間中もすぐ手に取れるところに置いておきたいわよね。


 大っぴらに目立つ場所で業務時間中に同じ社内にいる恋人と、メールやLINEやチャットを送り合って堂々とサボったりしているところを、社員だけでなく取引先や外部からのお客様とか色々な人に目撃されて噂されるようなことは推奨できないけど、必要があって常識の範囲内であれば多少のことは許されるでしょう?


 デートの約束をしていた人が急な用事や残業が入って、予定変更したい場合は恋人に連絡を取りたいわよね。そういった時に相手に連絡するのは、暗黙の了解で黙認されているわ。

 そこまで切羽詰まってはいないけど、気持ちがいっぱいになって、特に理由はないけど恋人に連絡したくなった場合も、常識的な頻度や態度であれば、まぁそういうこともあるわねって見逃して貰えたりするの。

 だから、規則だからとガチガチに守っている人はそれほどいないの。


 システム開発課は色々な意味でセキュリティとかが重視されていて、例えば盗聴器とか隠しカメラとかボイスレコーダーとかを私的に悪用するために持ち込むのは絶対NGだし、機密情報が万一漏れた疑いがあったりした際に私物のスマホなんかを持ち込んでいたりすると、機密漏洩を疑われて監査の対象になってしまったり、お偉いさんに呼び出されて事情聴取を受ける羽目になったりする可能性はあるけど、常識の範囲内で行動する分には、よほどのことがなければ許容されるはずよ。


 ただ、システム開発課の課長は真面目な優等生タイプで、鴻くんほど融通が利かない朴念仁というわけでもないけど、他の部課長と比べてちょっと規律に厳しめの人だから、公私混同と受け取られることや、悪目立ちするようなことは避けた方が良いかもしれないわね。

 でも、愛妻家で可愛い一人娘がいて溺愛しているそうだから、常識の範囲内のことなら多少のことは許容してくれると思うわ」


 なるほど。聞いてみないとわからないこと、知らないことというのはあるものだ。これまでに貰った書類や冊子にも、そういった内容は記載がなかった。

 他にも、実際に職場で働いている人に聞いてみないとわからないことがあるかもしれない。今のところ全く想像もつかないが。


「そうだったんですね。ということは常識の範囲内であれば、私物の持ち込みもその使用も暗黙の了解で許される、つまり咎められないということなのですね。

 教えていただき、有り難うございます」


 そう言って深々と頭を下げた。


「いーえー、気にしないで。こういう慣れない新人さんの相談を聞いたりするのも仕事の一環だから、業務時間内でも何か困ったことや聞きたいことがあれば、気にせず会いに来てちょうだい。

 急ぎの仕事がない限りは聞いてあげられるし、社内のことであればいくらか助言もしてあげられると思うわ。一人で悩んだり考え込んでいるより、ずっと良いから」


 カラカラと笑いながら身体を揺らして大きく頷く長瀬さんに、なるほどと私も頷く。


 さすがベテランだ、余裕と貫禄がある。助言も的確でわかりやすい。

 昨夜のチャラ男先輩の話術などは、底が見える薄っぺらさというか、表面だけの偽物、あるいは適当な理屈を捏ねただけの屁理屈としか思えなかったが、こういう話し方をされれば大抵の人は、彼女を信頼できると感じるだろう。


 開けっぴろげでおおらかなオカン、といった印象だろうか。実際に彼女が良い人か否かはわからないが、常識の範囲内で社内に関することであれば、相談した方が良い場合も多々あるだろう。


 私にとって救世主といえるほど頼りになるのは、小夜だけではあるが。

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