9 アカギツネ(SIDE:澪)
「俺はこれまで男女間の友情ってやつを信じてなかったんだけど、君との間でなら築けそうな気がするよ」
何故そんな発想が出てきたのか。
「寝言と妄言は、夢や妄想の中だけにしておいた方が良いと思います。でなければ、一度心療内科でカウンセリングを受けてみてはどうでしょうか」
この人の独善ぶりと身勝手さ、他者に配慮しない傍若無人さは、サイコパスとまではいかないものの人格障害か何かを抱えているのではなかろうか。
「えぇ? わりと良い考えだと思ったんだけど。ほら、俺と音無さんって利害関係で衝突しそうにないでしょう。いずれ友人になることを目的に試用期間を設けてチャレンジしてみるのはどうかな?
結構面白そうだと思わない? 俺は知らないことを学べて勉強になるし、君は俺みたいなろくでもない男の生態や扱い方を学べるよ?」
「私に利点が全くありません」
この人は何故こんなに楽しそうかつ嬉しそうなのか。私には全く理解できない。口から次々にスルスルと流れるように自身に都合の良い戯言を語れるのは、才能だと思う。
だが、決して真似をすべきではない悪例だ。彼の語彙力、何もない場所からも屁理屈をひねり出す発想力は全く参考にならない。
きっと彼は、目の前にいる人間に嫌われ憎まれるかもしれないという考えがない。世界の全てが己のもので、彼が望んだことは全て叶うと思っている。
多少の障害があっても、口八丁手八丁で世の中を自由に、思うがままに渡って行けると考えている。自分にできないことなどないと信じている。
挫折したり諦めたりした経験があまりなさそう。どのような関係であれ、付き合いたくない部類の人だ。
振り回されるだけ振り回され、良いように扱われても許容できる忍耐強いタイプの人、あるいは汚泥の中にも何らかの美徳を見出せる奇特な人ならば付き合えるのかもしれないが。
「いったい何が目的ですか」
何が楽しくてこんなことをするのか、全く理解できない。
「だから入社式以来、君に付きまとって迷惑掛けたお詫びだよ?」
「それは今後二度と係わらないということで決着がついたのではないでしょうか」
「そんなことを約束した覚えはないなぁ」
この人、本気でたちが悪い。
「確かに君は今後二度と話しかけるなとは言ったけど、俺は別に了承はしてないし? 気分悪くさせてごめんねって謝っただけで、それ以上具体的に何かをすると約束した覚えはないよね」
悪気なんて欠片もありませんとばかりにニッコリ笑うその顔に、エルボーかハイキックを入れたらスッキリできそう。
ああ、でも失敗した。今日はフレアスカートだ。スパッツもはいていない。エルボーを使うにはジャケットの脇部分や袖周りが若干不安だ。
買ったばかりの服を破ったりほつれさせたりするのは、不本意だ。女のおしゃれ装備は暴力行為に向いていない。あとテーブルの大きさ的に、立ち上がって回り込まなければ攻撃できそうにない。
実に残念だ。
「音無さん、何か不穏なこと考えてない?」
なるほど他人の殺意や害意に鋭い嗅覚を持っているらしい。最低限の危機察知能力はあるのか。女にも男にも背後から刺されそうな性格してそうだし、それくらいないとやっていけないのかもしれない。
「ねぇ何か反応してよ、音無さん。わざと怒らせて反応みようかと思ったのに黙り込まれると、つまらないじゃないか」
「私は光や音に反応する玩具ではないので、やめていただけませんか」
「だって何を言っても相手が涼しげな能面だと、崩してみたくなるのが人情でしょ?」
人情ってそういう用法で使われる言葉だったろうか。たぶん私とチャラ男先輩とでは、日本語の意味や使い方が違うんだと思う。
私が以前国語辞典で引いた時は『人間に生まれつき備わっている心の動き』などと記載されていたはずだ。もしかして彼は違う意味が書かれた辞典を持っているに違いない。
社会人となったのだから高校・学生時代から愛用している電子辞書や辞書アプリ以外にも、広○苑や現代用語辞典などの購入を検討すべきかもしれない。
「そもそも友情は互いに信頼関係や努力や協力、ある程度の好感がなければ成立しません。そのいずれもないのですから、先輩と私が友人になる可能性は皆無です」
「そう? 全く可能性はない?」
「有り得ません。私は先輩と嫌でも付き合わなければならない同僚の方々に、心から同情し尊敬の意を表します。私には無理ですから」
私がそう言うと、さすがのチャラ男先輩も真顔になった。
「ごめん、そこまで嫌われるようなことした記憶がないんだけど、どうして俺はそこまで嫌われているのかな」
「特にこれという理由はありませんが、あなたの存在自体が迷惑なので私がいないところでは何をしようとかまいませんが、私や私の周辺にちょっかい掛けられると不快に感じます。
たぶんゴキブリや蛇を嫌いな人に何故そんなに嫌うのかと質問するようなものだと思います」
「それはさすがにひどくない? しかもそんなに嫌いな男と顔を合わせて食事ができるって、音無さんの神経が理解できないんだけど」
「私は爬虫類がゴキブリを捕食する動画を見ながら食事ができますから」
それはむしろご褒美で生きる糧の一つなのだけど。
「特に興味や思い入れがなければ、ヒグマがキタキツネを捕食しようがキツネがマガモを襲おうが、それが自然の摂理であると理解していれば、それらによって変調をきたすようなことはありません。
万が一その爪や牙が己に降り掛かる状況に陥ったなら直ちに撃ち殺さねば、自身の生命が危ぶまれるのですから、一瞬たりとも油断はできません。
それくらいで揺らぐようなメンタルでは、明日一日を無事に過ごすことも難しいのではないでしょうか」
私が至極真面目に答えたのに、何故豆鉄砲を食らったような顔をしているのだろうか。
時折思うことなのだが、更年期を迎えるまでは毎月血を流さない女はいないはずなのに、多少の流血や血痕に顔色を変える女性が一定数以上存在するのは、何故だろうか。
そういったものは幾度か見れば耐性がついて平気になるものではないかと思うのだが、私の意見や感想はマイナーであるらしい。
そう感じたり考えたりするのは、おそらくASD──自閉症スペクトラム、旧アスペルガー症候群──であるらしい私が共感性に乏しいからであるようだ。
比較的軽度で、人の話を聞いて覚束ないながらも具体例を学習すれば、ある程度の理解や想像ができるため、努力や配慮することで社会や集団に溶け込むことも不可能ではないだろうが、それでも私が異物であること自体に変わりはないので、親しい人以外には本音を口にすべきではないだろうと忠告された。
一般常識、あるいは共通認識とは、いったいどこからどこまでをいうのだろうか。私は言葉の意味を正確に理解するためにまず、国語辞典の内容を丸暗記した。
次に父の書斎にあった百科事典や広○苑の内容を記憶し、それから多くの人が読んだことがあるだろう本を、まずは童話や神話など広く知られているものから順に読んで記憶した。
そうしてある程度知識を頭に詰め込んでから気付いたのは、同年代の子供も周囲にいる大人達も、人に教える立場である教師ですらも、皆が正しい情報や知識の下に言動・思考をしているわけではないということだ。
では皆が必ずしも共通の知識や認識を持ち合わせているわけではないのに、何故見知らぬ人や親しくない人達と正確で詳細な説明や打ち合わせを行わずに、相互理解とやらを得られるのか。
最初のすり合わせができなければ、どれだけ会話・対話しようと、そこには誤解やすれ違いの余地が生まれて、正確な意味での情報共有はできないのではないだろうか。
物事の定義や互いの認識のすり合わせをせずに、不正確で曖昧な話ができる人達は、何故それでわかると言えるのか。
わかっている、わかっているはずだという思い込みで、実は互いに全く違うことを考えているという可能性はないのだろうか。
そういう可能性については、例えば「ロミオとジュリエット」などのような有名な物語を例に挙げるまでもなく、多くの人が暗黙の了解というやつで知っているのだろうが、ならば何故入念なすり合わせをせずにいられるのか、私には理解できない。
知らない人は恐ろしい。理解できない人はもっと恐ろしい。これだけ言葉を交わしても、目の前にいる人が何故こんな言動をしているのか、その意図や理由が皆目見当が付かない上に、行動予測ができない。
そんな人と信頼関係を築ける可能性はゼロだ、万に一つも有り得ない。
目の前に、次に何をしでかすか理解できない野生動物がいるのだ。この状況で油断することなど絶対にできない。
私は今、ライフルは所持してはいないが、幸い両手両足は自由で拘束されてはいないし、薬を使われてもいない。
いざという時は上着やスカートのことなど諦めるしかない。身の危険から自身を守るためならば、他に手段がなければ仕方がない。
今、目の前にいるのは、キタキツネでなければアカギツネだ。ヒグマとは違いライフルやそれに替わる長柄の鈍器や刺突武器がなくとも不意討ちでなければ、やりようによっては素手の私でも対処ができる。
相手の能力が不確定なので、たとえ無傷とまではいかなくとも死の恐怖と戦う必要まではない。
少なくとも保身や体面を考える理性や最低限の道徳性は持ち合わせているようなので、スマホの録音アプリで保険を掛けつつ、相手が形振り構わず逆上するような真似さえしなければ、切り抜けられるはずだ。
そして入店直後にトイレに行って、更なる保険をかけておいた。小夜には「あなたは時折本気で、バカなのか賢いのかわからない」などと言われたが、後日掛かった費用を支払うことで了承を得た。
彼女は密かに店内のどこかから、スマホで現在の状況を撮影してくれているはずだ。
「そもそも私が何の準備もせずに、全く信頼関係のないあなたと初めて入った店で呑気に食事などできるはずがありません」
店名がイタリア語だろうとフランス語だろうとスペイン語だろうと、スマホで現在の位置情報も送れるのだから、連絡の齟齬や間違いもない。実に便利な世の中だ。
小夜は昔のスパイ映画みたいだとずいぶん受けていたが。そして件のイケメンの姿が拝めると面白がっていた。
多少のことならば耐性がある私にとって、実際に相手が何かやらかす分にはさほど問題はない。確定的な証拠が取れれば、かえっておいしい。内容によって人事課に持って行くか、警察へ行くか変わるが。
「もう一度確認しますが、私は今朝『迷惑なので、今後二度と話し掛けないで下さい』とあなたに告げ、高坂先輩は『悪かった。迷惑掛けて、気分悪くさせてすまなかった。この通り、謝る』と仰いましたよね。
その場には鴻先輩や他の社員の方達もいました。事実に間違いありませんよね?」
ここに来て、ようやく彼は何かに気付いたようだ。先程までペラペラ捲し立てていたのが、急に黙り込んでいる。
「事実を否定しても無駄ですよ。少なくとも鴻先輩は証言して下さるでしょうし、他に目撃した人の中にも、お願いすれば証言して下さいそうな方もいらっしゃいます。
心証が悪くなるのは本意ではないでしょうし、要らぬ誤解を受けたくはないですよね。私も事を荒立てたいとは考えておりませんので、何事も問題が起こらなければ穏便に済ませたいのですが、いかがでしょうか」
「……音無さんって、おとなしそうな顔して結構えげつないよね」
「そうですね、時折そう言われます。ところで高坂先輩、先程の内容は事実だと認めますか、それとも認めずそんな事実はないと仰いますか?」
「はいはい、事実です。音無さんの言う通りです。全部俺の悪ふざけで、真面目な優等生風の新入社員をちょっとからかってみたくなっただけです、ごめんなさい。
本当に申し訳ない、許して下さい、もうこんなことはいたしません。……はい、これで満足?」
棒読みだったし全く反省もしていなさそうだが、まぁ本人も一応事実だと証言してくれたので、これで良しとしよう。
食事中も羽織ったままでいたジャケットの右ポケットからスマホを取り出し、録音を止めて音声データをクラウドに保存した後、LINEの通知を確認して立ち上がる。
「それでは、これで失礼します。帰りのタクシーが外にもう来ているようなので」
そう告げて会釈するとふて腐れたような顔で、チャラ男先輩がぼやく。
「あのね、俺は心優しいから忠告するけど、男を一方的に追い詰めると後悔することになるよ」
「大丈夫です、ご心配には及びません。見せたカード以外にもいくつか保険をかけてありますから。いざという時は警察署へご相談に参ることになりますが、高坂先輩はそこまで良識のない方ではありませんから問題ありません。
何か問題が起これば、次のカードを切るだけです」
「君、可愛くないって言われたことあるよね?」
「はい、良く言われます」
「じゃあ、もう言うことはないよ。事故には遭わないよう気を付けて帰ってね。無関係なのに身に覚えのないことで警察の事情聴取は受けたくはないから」
「ご忠告有り難うございます」
「そこまで無駄に頭が回るのに、嫌味が通じないとか最強だね。二度と声掛けたりしないから安心してデータ消して良いよ」
「退職する時まで大切に保存しておきます」
ゲンナリした顔で溜息をつくチャラ男先輩を尻目に店の外へ出た。六回目のコールで小夜が出た。
「有り難う、小夜。いくら払えば良いかな?」
『さっきの電話の時にたまたま一緒にいた同僚の分も含めて五万でお釣りが出るわよ』
「二人分でそんなに安いの?」
『澪の金銭感覚は良くわからないけど、そのくらいの値段じゃなければ店内に若い女があんなにいっぱい来られるはずがないでしょ。
めちゃくちゃ安くもないけど、そこそこの値段でおしゃれで可愛い盛り付けの食べられる料理が出るから人気があるのよ。もう少しグレードが高くなると客層も変わると思うわ』
「食べられない料理なんて出す店があるの?」
『まずいという以外にもいろいろあるわよ。客層に合った料理が出るかどうかも大事だし。良い店教えてくれてありがとう、澪。個人的にもまた来たいわ、この店。
ところであなたの同行者、そろそろ店を出るとこみたいだけど、大丈夫?』
「うん、問題ないよ。もう自宅近くのコンビニ前だし」
『澪、あなたもしかしてこれから夕食買って帰るつもりなの?』
「そうだよ。デザートは食べなかったからまだ小腹が空いてるし、少し喉が渇いたから飲み物買いたくて」
『そう。大丈夫だとは思うけど、気を付けて帰りなさい。何かあったら電話でも何でもしてちょうだい』
「うん、有り難う、小夜。本当に助かったよ」
『そう思うなら、今週末はうちに来て』
「了解、じゃあ十時半くらいはどうかな?」
『問題ないわ。待っているわね、澪』
「うん、じゃあまたね、小夜」
コンビニ店に入ると、ノンカフェインのお茶と目に付いたジュース、軽食を取ってレジへ向かう。支払いはスマホに登録した電子マネーで済ませて、帰宅する。
「無事に済んで本当に良かった」
これでもう気に病むことはないだろう。次に何かあれば、その内容によって対処するだけだ。




