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プロローグ

 下ろし立てのスーツに身を通す。選んだ色は桜色。腰で絞られた細身のテーラードのジャケットに、タイトスカート。今日は風が強めだから、丈の短めのオフホワイトのトレンチコートを軽く羽織る。


 ところどころに銀糸が覗くミルキーなツイードと迷ったけど、やっぱりこっちの方が良い。そもそも春用のコートは、オフホワイトとベージュと紺しか持っていない。


 鏡の前でつま先立ちになって、かかとを三cmほど上げてみる。


「やっぱりヒールのある靴の方が足がキレイに見える、かな」


 首をかすかに傾げると肩の上で、くるくると巻いたセミロングの内巻きが揺れる。ツヤツヤさらさらで、ふわふわしている。渾身の出来だ。


 気合いを入れて、四時半起きでシャワーを浴びて、頑張った甲斐がある。


 学生時代はヒールのないローファーとかスニーカーとかスリッポンばかり履いていたから、ハイヒールは慣れなくてちょっぴり緊張する。


 服もジーンズやスキニーとかパンツスタイルばかりで、たまにスカートを穿く時はマキシスカートか丈の長いワンピースだった。


 従姉妹からプレゼントされたガーターベルトをはいてみたものの、どうも心許ない。


「パンティストッキングの方が良いかな」


 従姉妹が言うにはパンティストッキングは蒸れるからいけないらしいが、高校時代は常に下着の上にスパッツを着用して更にタイツを穿いていたのだから、何がいけないのかさっぱりわからない。


 二十歳の誕生日プレゼントにと父がプレゼントしてくれた涙形の銀のペンダントを着けた後、首元にピンクと黄色のバラ模様の縦長スカーフをふわっと蝶々結びにする。


 黒い肩掛けバッグを手に取るとダイニングテーブルに置きっ放しだったスマホを放り込み、玄関で黒い革製パンプスを履く。


 残念ながらパンプスはフォーマル用に購入したこれしか持っていない。一応他にヒールのある靴はベージュのハイヒール、かかとの細い銀色のサンダル、冬用のキャメルの膝丈ブーツしかない。


 これから少しずつ必要なものを給料と収納スペースの許す限りの範囲で揃えていく予定。


 大学を卒業して普通のOLとして就職した私は、長袖長ズボンにつばのある帽子にサングラスとマスクにタオルを巻いて軍手を付け剣鉈で道なき山林を切り拓き、あるかどうかわからない標本を探して泥だらけ汗みずくで探索することはない。


 男所帯でからかい混じりのセクハラを上手く捌いて素知らぬ顔をする必要も、アルコールを勧めてくる輩に「アルコールを分解する酵素がないので飲めば確実に死にますが、それでもよろしいでしょうか」と返す必要もきっとない。


 ホワイトカラーのふわふわ女子は、最初の挨拶と対処さえ間違えず無駄に敵さえ作らなければわざわざ波風立てることもない、筈だ。


 私は女の子が好き。可愛くて柔らかくていい匂いがして、そこにいるだけで空気が違う。甘く小さな可愛いらしい砂糖菓子みたい。だけど小さなトゲを持ってる。


 現在の私みたいなのを社会人デビュー、もしくはイメチェンというらしい。受けた面接を全て落として絶望しかけた私を生まれ変わらせてくれた友人曰く。


『したたかに生きなさい。真実なんてものは毒にも薬にもならないの。人に望まれる姿を演じて見せれば、大抵の人はそれ以上のことは気にしないわ』


 私はあまり多く話す必要がないらしい。微笑みながら相手の話に耳を傾け時折頷きながら最小限必要とされる言葉を返せば、それで相手が勝手に脳内補完してくれるから、困った時は首を傾げて不思議そうに見つめてやりなさい、と。


 何かを言う必要はない。下手に男の面子を潰すと逆上されたり報復されたりするから、相手が結論を出すまで待ってやりなさい。


 それが自分にとって不適切で不穏当なものであるなら、できれば年上で周りの信頼を得ている女に相談しなさい。


 間違っても男に相談してはダメ。それはかえって逆効果。あなたは対人能力に長けてはいないから、可能な限り周囲の人達、特に女を味方に付けなさい。


 一人選んだら、うつむき加減に瞼を伏せて男の人はちょっと苦手なんですって言っておきなさい。間違っても男を選んじゃダメよ。


 男と女は利害関係が上手く噛み合わないから、都合良くマッチングする可能性はとても低い。


 味方に付けるのは、同年代の女はダメ。ライバル意識を持たれる可能性があるから。


 だから絶対に敵になり得ない、ひとまわり上の敬愛されてはいるけれど淋しい女を狙いなさい。


 なつく時は子猫のように、時には犬のように。相手の淋しい心に付け入れば、利害関係が対立しない限りはきっと上手くいくから。


 でも、絶対に本音は誰にも言っちゃダメ。


 あなたは可愛くない子供だから。


 彼女は電話やLINEで相談には乗ってくれるそうだ。でも、面倒だしウザイから職場の愚痴をほざいたら潰す、と言われた。


 何をどう潰すのだろうか。ちょっぴり気になるけどやったら縁切りだと宣言されたので、それを確かめるのはやめておこうと思う。


 彼女は有言実行なのだ。敵に回すと恐ろしい。幼稚園の頃からの幼なじみ。悪辣な手段で、自分は汚れずに上手く立ち回る才能は随一。


 でも、淋しくなったらいつでも好きな時に電話してくれても良いわよ。ただし、私の睡眠時間を削ったら殺す、とか。


 小夜さよったら、本当に照れ屋で物騒なんだから。


 私の名前は音無おとなしみお。先週まで内定先の研修を受け、今日の入社式で正式な社員になる予定。


 就職できて本当に良かった。要領が良いとは言えない方で、嘘をつくのは苦手だけど、表に感情が表れないので、傍からはポーカーフェイスに見えるらしいことが特技。


 そのくせ困ったなぁと考えていると、何故か知らないおじさんおばさん達にお菓子やジュースを貰ってしまう、そういう子供だった。


 別に不特定多数の誰かに助けて欲しいだなんて思わないので、できれば放っておいて欲しいなぁと思いながら、近所のおばあちゃんにお茶とかりんとうをごちそうになったり。


 別に喧嘩っ早いわけじゃないけど、売られた喧嘩は買わないとダメかな、とか思ってた。


 小夜には絶対やっちゃダメと釘を刺された。まぁ、内定決まっていても配属先の辞令を受けるまでは就職は確定していないし、就職した後もやらかせば退職勧告受けるかもしれないし。


 最悪フリーターでも良いけど、私を雇ってくれる職場が他にあるかはわからない。


 擬態することで親友の予言混じりの助言のおかげでようやく内定を得たので、しばらくここで頑張ってみるつもり。


 ダメならダメでまた何か方策を考えて貰おうかな。自分で考えても上手くやれる自信はないし。


 対人能力低いから接客業は客を怒らせる自信がある。見えない地雷を踏み抜くのは大得意なので。


 マニュアル通りの回答以外はしなくて良いなら、電話窓口は無理だけどサポートセンターでメール対応とかなら、なんとかなるかもしれない。


 応用は少々苦手だけどテキストを丸暗記するのは得意なので。多少時間を貰えれば、先にあるいくつかのテンプレートを基に新規のテンプレートを作成することはできる。


 作成者の意図とルールを覚え、対処法を調べて確認する時間さえ貰えれば。


 世の中には、非合理的なことが多すぎる。だけど生きていくために必要ならば、擬態することもやぶさかではない。


 私が世界で一番愛するトカゲ達は擬態が得意。生存競争を生き抜くために、彼らを見習おう。

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