リアル麻雀初心者 5/5
「…………田辺さん?ツモらないんですか?」
流局が目前まで差し掛かってきた頃、菜々が牌を捨てて自分の手番になっても、山に手を伸ばそうとせず煙草をふかす田辺に、菜々は尋ねた。
意味深に沈黙を挟む田辺に、豊島は嫌な予感を抱く。
悠然と煙を吐き出しきってから、田辺はにやりと笑って静かに口を開いた。
「…菜々ちゃんが今捨てた牌に、思うとこがある奴がいるんじゃねーかなーと、俺は睨んでるんだがな」
豊島は必死で、ポーカーフェイスを保った。
まさかとは思うが、自分以外の対局者の手牌が彼には読めているのだろうか。自分の打牌ですら精一杯な豊島にとって、その感覚は想像もつかないものだった。
何食わぬ顔でトイレから戻り、代打ちする菜々と一切代わろうとせず対局を無言で眺めていた安達は、田辺の言葉に喉奥をくつくつと鳴らして笑った。
「さすがっすね。田辺さんの読み、当たってますよ」
「ほらな」
無邪気な笑みを得意げに見せてくる田辺を見つめながら、菜々は次第に焦りを感じ始めた。
彼の読みは当たっていると答えた安達は、豊島と島田の間にいる。彼は、二人の手牌を確認してそう答えた。
そして田辺が口にした、菜々の捨て牌に思うところがある、という言葉が意味するもの。
時間を掛けて導き出した答えに、菜々の血の気が引く。
「……田辺さん。もしかして、あたしが捨てたのって…」
二人のどちらかの、待ち牌だったのでは。
それを確かめようとした菜々の言葉をおもむろに手で遮り、田辺は特定の誰かの方を見ずに声を上げる。
「…自分からドラ切ろうとするわ、リーチも掛けねーわ、挙げ句の果てには菜々ちゃんの捨て牌にダマしやがる。菜々ちゃんにちゅーしてもらうために本気出すと思ってたんだが、おかしなことする奴だと思わねーか、豊島?」
豊島のポーカーフェイスが、途端に歪んだ。
田辺の言葉で確信した茂松は、菜々の横から即座に対面の豊島の後ろに回り込む。
その手牌を確かめられてもなお無言を貫く豊島に、呆れるように茂松は苦笑いした。
「…おい裕太」
「黙れシゲ」
「なんでアガらねーんだよ」
「黙れってのに!」
後ろから手牌を倒そうとする茂松の腕を掴んだ豊島の制止も虚しく、その隙を突いて両脇から田辺と安達が彼の手牌を倒す。
あ、と声を上げた菜々と島田の前に晒された豊島の手牌は、菜々の捨て牌でアガれる形ができあがっていた。
「豊島さん…テンパイしてたんですか?」
「やっぱりダマテンか。何巡か前からそうなんじゃねーかなーって、とっくに気づいてたわ」
「てことはあたし、豊島さんに……振り込んだ?」
「そういうこと。早速二度目の罰ゲームだ、菜々ちゃん」
「そんなあー!」
落胆の声を上げる菜々と、額を押さえて落胆を体現する豊島。
両隣の二人の様子を面白がりながら、田辺は膝を叩いて宣言する。
「よっしゃ。これで菜々ちゃんの罰ゲームの相手は豊島に決定だな」
「えっ、あの、点数は…」
「…ごめん菜々ちゃん。ドラ乗ってなかったらギリで飛ばなかったんだけど、シゲと安達さんに邪魔されて…」
「つべこべ言うな。ほれ、さっさとちゅーしてこい菜々ちゃん」
「ちょっ、田辺さんっ!」
おもむろに田辺に腕を引っ張られ、彼の強い力に引きずられるがまま、菜々は豊島に向かって軽々と投げ寄こされた。
「うわわっ」
「あぶねっ」
「わぷっ!」
膝立ちで引きずられた菜々はつんのめり、咄嗟にそれを抱きとめた豊島の胸に顔を埋める。
慌てて顔を上げた彼女とのあまりの至近距離に、豊島は顔を赤らめて目を逸らす。
(……想像以上に恥ずかしすぎんだろ、この状況…)
急接近した二人を冷やかす周囲の声からも顔を背け、豊島は必死に羞恥に耐えた。
「ご、ごめんなさい、豊島さん…」
「いや、あの、俺は平気だけど…顔面からいったろ菜々ちゃん、大丈夫か?」
「大丈夫です、けど…その…」
「…どこか、違うとこぶつけた?」
「そうじゃなくて、あの…」
言い淀んで徐々に顔を上気させていく菜々に戸惑うばかりで、豊島は何も気づいていなかったようだ。
それを確信した傍観者の四人は、彼を見てにやにやと笑う。
「こういう奴のこと、何て言ったっけ、茂松」
「ラッキースケベっすよ、田辺さん」
「それだそれだ」
「いいなー。俺も菜々ちゃんからアガってたら、豊島みたいにおいしい思いできたのになー」
「最初の配牌が悪かったな、島田のは。まあ俺ほどじゃなかったから、引き次第で勝てたかもな」
「どちらにせよ、豊島のラッキーにはかなわなかったってことだ、俺の打牌は」
「…さっきからなんなんすか、みんなして」
菜々が意味深に戸惑う理由もわからず、周囲から一方的にからかわれ続けることに業を煮やし、豊島は軽く声を荒げる。
にやついていた顔をさらにいやらしく歪め、田辺がそれに答える。
「とりあえず謝っとけ豊島。さっきので、胸触っちゃってごめんなって」
それに気づいていたのはやはり、一部始終を見届けていた四人と、触られた菜々本人だけのようだった。
「うわっ、ごっ、ごめん菜々ちゃん!マジでごめん!」
「い、一瞬っ!一瞬だけでしたから!」
反発し合う磁石のようにばっとお互いから身を離す二人の慌てぶりに、四人は腹を抱えて笑い転げる。
余計に罰ゲームをさせづらい状況になってしまったと、豊島は己の愚かさを心から恥じた。
「いつまでもラブコメ漫画みてーなことやってねーで、とっととちゅーしろ菜々ちゃん」
「……無理だろ、この状況で」
なおも菜々をけしかける田辺に聞こえない声で、豊島が苦々しく独りごちる。
二度目の、その前の茂松の分も含めて実質三度目の罰ゲームとはいえ、今はあまりにも状況が厳しすぎる。一旦離れた二人の距離を、彼女の方から詰めてこられるわけがないと、豊島はそっと彼女の様子を盗み見ようとした。
だが菜々は、おもむろに豊島ににじり寄ってきた。おおっ、と期待を寄せる四人の声に、豊島の全身がこわばる。
緊張で固まる豊島の正面から顔を近づけ、菜々は見開いた彼の視界からほんの少し左に逸れる。
赤面する豊島の左頬に、菜々はそっと口づけた。
そして瞬時に彼の正面に直り、菜々は声を張って罰ゲームの終了を宣言する。
「豊島さんの馬鹿っ!大好きですっ!」
突拍子のない一言を付け足されて面食らう豊島の胸に縋り付き、菜々は再び彼の体に顔を押し当てた。
やけくそで罰ゲームを完遂した菜々に向けて、四人は拍手喝采を送る。
「ツンデレサービスあざーっす!」
悪戯に菜々を茶化す茂松に顔を引きつらせながら、豊島はその一言でようやく腑に落ちた。
馬鹿、というのは、菜々を飛ばしてしまったことと、不慮の出来事とはいえ菜々の胸を触ってしまったことか、と。
緊張していた全身を一気に脱力させながら、赤面した顔を隠すために豊島の胸を借りる菜々の頭にそっと手を置き、労いの言葉を呟く。
「…………よくできました」
罰ゲームをやり遂げたことと、指導を熱心に受けてくれたことに対して、彼は奮闘ぶりを見せた教え子を力なく褒めた。
(死にてえ…)
しばらくしてようやく落ち着いたとはいえ、罰ゲームの件で気力を使い果たした豊島は、屋外に設けた喫煙スペースで一人煙草を吸いながら溜め息をついた。
『もうあたし、参加も代打ちもしませんからね!』
再びツンデレらしく声を荒げて宣言した彼女は、それ以来卓の外から少しの間おとなしく麻雀を見学していた。
二度も三度もあれだけ恥ずかしい思いをしたのだから、無理もない。たった一度だけ彼女に付き合った豊島でさえ、本当に死にたくなるほどの羞恥に晒された。
あの罰ゲームの恥ずかしさが鮮明に甦りだして、豊島はそれを振り払おうと煙を深く吐き出す。
(…田辺さんが変なこと言い出すから、余計気にしちゃうじゃねーか…)
あのあと、大盛り上がりで終えた罰ゲームを遂行した二人をからかうために、茂松が彼らのもとへ近寄ってきた。
仲のいい三人が揃い、互いにからかったり、照れ隠しをして小競り合いをしたりする様子に、それを傍で見ていた田辺がふと口にした。
『おめーらほんと、いい感じだよな。野田じゃなくて、二人のどっちかと付き合えばよかったんじゃねーか?菜々ちゃん』
その一言に三人が一斉に素っ頓狂な声を上げたことは、言うまでもない。
(ならねーっすよ、そんなことには…)
あまりの動揺と諸々の理由で彼に返せなかった言葉を独りごちて、豊島は物憂げに煙草をふかす。
俺は菜々ちゃんの、ただの相談相手なんで。そう付け足しながら。
考えても仕方のないことをさっさと頭の隅に追いやり、もみ消した煙草を灰皿に落とした豊島は海を眺めた。
(菜々ちゃん…ちゃんと旅館に戻ったかな)
なおも菜々を気にする自分に呆れながらも、豊島は彼女を心配した。
度重なる罰ゲームで明らかに疲弊しきって、その後の見学中も時たま疲れた顔を見せ、やがて疲れたから帰ると言い出して一人旅館に戻った菜々。
だが豊島の気がかりは、それより以前の彼女の様子だった。
(…花火から抜けてきた時、何となく落ち込んでたように見えたのは、俺の気のせいだといいんだけど…)
茂松が声を掛ける前に菜々に気づいていた豊島は、咄嗟に笑顔を返す直前の菜々の浮かない表情をずっと気にしていた。
何かあったのか聞き出す機会などなかったし、今後もそんな機会はありはしない。
散々な目に遭わされたとはいえ、初めてのリアル麻雀を体験したことで、少しは彼女の憂いも晴れたことだろう。
心に引っかかっていたことをそれで無理矢理飲み下し、左頬に受けた感触をほんの少しだけ気にしながら、豊島は軽く散歩でもしながら旅館に戻ろうと砂浜に一歩足を踏み出した。
「…ん?」
真夜中の静まりかえった海を眺めながら歩く豊島の目に、いないはずの人影が映り込む。
波打ち際に立ち尽くし、静かに海を眺めている、見覚えのある後ろ姿。
「菜々、ちゃん…?」
遠く離れた彼女を訝しげに見つめていた豊島は、次の瞬間に目を見開く。
――菜々は、サンダルを脱いだ。
「嘘だろ…菜々ちゃん…!」
散歩ペースの歩みを早め、不安を抱えながら豊島は彼女に近づこうと急ぐ。
やはり作り笑顔の直前に見せた彼女の憂いは、気のせいなどではなかった。
それを確信した豊島は、砂に足を取られながら駆け足に切り替えて、海の中に進み入りだした彼女を目指す。
冷たい海に冷やされた潮風を顔に受け、豊島の左頬に受けた温もりは、あっという間に思い出せなくなっていった。
【外伝:リアル麻雀初心者】 -FIN-
【蛇足的要点解説】
・田辺の読みについて
この人はもう雀鬼か何かですかね。そこまでめちゃくちゃ強いわけではないとはいえ、実際に捨て牌やら打ち筋やらを見てて豊島の手牌が見えてくるものなのか、麻雀レベルの低い筆者には見当もつきませんが。まあ点数を下げようとドラを切ろうとした時にピンと来た、くらいでよかったのかもしれませんが。
にしても嫌な言い回しで豊島を追い詰めますね。田辺自身は本当に豊島が菜々のキスを狙っていたと予想していたので、実際にアガリが見えてきて急に怖じ気づいたな、とドラ切りの時に胸中でにやにやしながら思っています。この後彼が無理矢理菜々を豊島に放り投げて二人をくっつけさせたのも、奥手な豊島の人柄を知ってるからこその田辺のからかいなのです。
・豊島のラッキースケベについて
いらなかったなー。さすがに彼にサービスしすぎたなー。
まあ、運良く菜々のツンデレに繋げることもできたのでいいでしょう。ラッキースケベなだけに、運良く。
・豊島の褒め言葉について
よくこんな状況で罰ゲームに耐えることができましたねと、よく自分の拙い指導で麻雀を楽しむことができましたねの、二つの意味を併せ持った豊島の「よくできました」の台詞は割と好きです。
本編中もですが、豊島が菜々を見る目線っていうのはなんだかんだ言って彼女の親目線みたいですよね。いいお父さんです彼は。
・罰ゲーム後を振り返る豊島について
この時の彼は菜々が抜けてから、何回か麻雀を打ってから抜け出しています。菜々のすぐ後に抜けてしまっては周りにからかわれかねないので。
ようやく一人になって一服して落ち着いてから旅館に戻ろうと思ってはいたものの、田辺の一言を気にしてしまってなかなか落ち着けません。二人のどちらかと付き合えば、という彼の言葉が数年先に実現することになるとは、この時の誰もが予想していなかったでしょう。
そして罰ゲームで受けた恥ずかしさに死にたいと独りごちる彼の心情。裏テーマの一つです。
・本編へ続く豊島視点の描写について
意味深に彼の左頬に受けた感触の描写を繰り返したのは、個人的にかなり重要な意味を持たせたつもりです。
波打ち際にいる菜々を見つけるまでは、複雑な想いを感じながらも菜々を異性として意識している心情の表れ。菜々に駆け寄ろうとした時には、彼女の相談相手という立場を自分に言い聞かせて、彼女を思いとどまらせるために説得しなければという使命感で心を切り替えた、心情の変化の表れ。
キスされたことくらい覚えたままにしてもいいのではないか、と思うかもしれませんが、この時の豊島と菜々はお互いを異性としてまったく意識していません。この時点で菜々が野田と付き合っている以上、むしろ忘れた方がお互いのためでもあるのです。
解説なしでもそれが伝わる文面にできたか、かなり自信がないです。何となくでもそれを読み取っていただけた方がいてくだされば、幸いです。
*後書き*
作中に出した麻雀をどうしても細かく書きたくなって敢行した作品。本編ではただの見学という表現止まりだった菜々も、実は豊島に教えてもらって打ってたんですよーという小ネタ、いかがでしたでしょうか。罰ゲームを口実に本編中ではあまり取り入れなかった浮ついた展開を存分に書けたので、割と満足です。
裏テーマ、という言葉を前振りもなく使いましたが、これは三人それぞれが抱いた「死にたい」と思う気持ちです。かなり明るい話の裏に、かなり暗いテーマを隠していました。
どんな罰ゲームが待ち構えているか想像しただけで死にたい、と不安に駆られた茂松。罰ゲームのあまりの恥ずかしさに死にたい、と振り返る豊島。そして終始死にたい気持ちを隠し続け、彼らに知られないところで行動に移そうとしていた菜々。
自己満足のために書き進めた作品ですが、ほぼ確実に需要のないテーマを隠したことも自己満足です。ラストの豊島視点の描写を削らずに裏テーマを完成させてしまったことも、筆者としては満足しています。
とはいえ、裏ですので。三人が他の先輩たちと楽しく遊んでたこともあったんだな、くらいの気持ちで読み進んでいただけたら、それだけで十分です。




