恋愛玄人達の交際事情 2/3
吸い減らした煙草を揉み消した田辺は、俯いた円香の頭に手を添え、慰めるように軽く髪を撫でつけて、穏やかな声音で言い聞かせる。
「俺んとこの新規案件、工程が早まっちまって、テストが来週頭になったんだよ。その打ち合わせだ」
「……新規案件って、無駄に豊島さんまでサポートメンバーにしてこき使ってる、あの?」
「無駄だのこき使うだの、人聞きのわりー言い方すんな。あいつクラスの人材がいねーとろくに動かせねー、厄介な仕様要求されてんだよ」
「だったら、私もサポートに…」
「まどちゃんは豊島のプロジェクトメンバーだろ。そっちの案件が終わりさえすりゃ、いずれ補充要員で俺のチームに入れる予定なんだ。中途半端に先乗りされちゃ、後でややこしくなるから駄目だ」
「でも、正規メンバーじゃないカナちゃんも豊島さんの手伝いしてたじゃないですか」
「茂松は今回結んだ契約先の担当なんだから、別だ。向こうとの橋渡し役だけは頼んでるが、開発はまだやらせてねーよ。あいつもまどちゃんと同じで、豊島の案件が終わってからメンバーに入れるつもりだ」
淡々と聞かせる田辺の手を頭に添えたまま、円香はゆっくりと彼を見上げる。
明らかに納得のいかない、不満と不安に満ちた目。軽く尖らせた口が余計に拗ねた子供のようで、思わず田辺は口元に苦笑を浮かべて応える。
「そんなに信用できねーか。俺の言うことが」
「できないです。休日出勤が本当でも嘘でも、田辺さんがよその女の所に行ったりしないって保証なんてないんですから」
「行かねーよ、明日は」
「明日は、ですもんね」
ごまかし損ねた口ぶりをわざとらしく繰り返して、円香はさらに口を尖らせる。言葉の選択を誤ったことに苦々しく顔を歪めながら、ふてくされた彼女を見下ろして田辺は慎重に思案する。
事実、土曜である明日は仕事を片付けてくることしか予定していない。真摯に説得しようがどう言いくるめようが、円香を素直に納得させるだけの器用さもないことくらい、田辺は自覚していた。
この気まずい状況を確実に切り抜ける彼なりの打開策は、代替案を提示して意識を逸らすこと。案を一つ思いついた田辺は、円香の頭をぽんとひと撫でして口を開く。
「よっし。じゃあ、1コだけ約束してやらあ」
「えっ……何を?」
「同棲の条件」
えっ、とトーンの高い声を上げて、円香は田辺の顔を食い入るように見つめた。いくら話題を振ってものらりくらりとかわされ、幾度となく彼女の期待を断ってきた同棲の話を、田辺自らが振ってくるなんて。
否応なしに昂ぶる期待で顔を輝かせる円香の反応に、田辺はにやりと笑う。
「豊島か茂松、どっちかに彼女が出来たら、俺らも同棲する。これでどうだ」
とっておきの妙案を提示された円香は、それを聞いて途端に呆れ顔を見せた。
「……それ、何て言うか知ってます?カナちゃんに『それなんて無理ゲー』って言われるヤツですよ」
大袈裟な溜め息を一つついて、円香は田辺の手から離れてつんとそっぽを向く。
期待させるようなことをちらつかせておいて、どうして自分達と関係のない同じ職場の人間を引き合いに出したりして、それを同棲の条件にしたがるのか。それを口にして目一杯文句を言ってやりたかったが、すっかり機嫌を損ねた円香はそうする気にもなれなかった。
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、自身の発言を名案と信じて疑わない様子で、大真面目と言わんばかりに田辺は続ける。
「だってよ、いい加減アイツらだって落ち着いてくんねーとって、まどちゃんも思うだろ?それを差し置いて、俺らばっかり進展しちまうわけにいかねーじゃんか」
「無理ですよそんなの。彼女いない歴が年齢のあの二人に、そんな都合良く出会いなんてあるわけないじゃないですか」
「都合良く実現したら、今度こそ同棲考えてやる」
「期待させるようなことばっかり言って…」
甘い言葉にはもう騙されまいと、話の流れを断つようにしておもむろに立ち上がった円香は、傍らのテーブルから自分の煙草を手に取って、ベッドに座り直す。
機嫌を取ることまでは叶わなかったものの、浮気だなんだという話から意識を逸らすことは出来たと、軽く安堵した田辺は彼女にライターと灰皿を渡しながら続ける。
「わかんねーだろ?だってアイツら最近、仕事の日以外は結構遊び歩くようになった、とか言ってやがったし」
「どうせ二人でアニメショップ巡ったり、アニメ関係のイベント行ったりしてるだけですよ」
「どっちかに彼女がいて一緒に遊んでるとか、まさかのWデートしてやがる、なんてことも」
「有り得ませんね」
まるで抑揚のない声音で言い放ち、無表情のまま煙を吐く円香を見て、思わず田辺は息を漏らす。
キャリアに差はあれど、肩書きを持たない平社員という同じ立場である彼らは、中でも『システム開発部の漫才コンビ』と称される豊島と茂松という同僚に対して、似通った認識を日頃から抱いていた。
アニメやゲームといった趣味にばかり傾倒しており、浮いた話とはまるで疎遠である、残念なアラフォーコンビ。異性としてまるで魅力がないわけではないはずなのにと、二人の将来を案じる話題は部署内の雑談テーマの一つとして定着している。
出会いさえあれば。ほんのわずかでも恋愛事に興味を示せば。どんな名案を掲げられようと、当人達はてんで聞く耳を持つ気などないらしく、どちらの事情も良い方向に進展したことなどまったくなかった。
要するに、ほぼ確実に実現しない事象を条件に示されたのだ。それだけ田辺に同棲する意志がないと悟った円香が、あからさまにふてくされるのは無理もないと言えた。
「とはいえよ、マジであの二人から浮いた話が聞けるもんなら一大事だぞ。特に、豊島だ。あの堅物がちゃっかり女こさえてやがったら、俺も真面目に同棲考えねーとって焦るだろーよ」
「絶対、有り得ない。だって、彼女がいること周りに隠せる器用さなんてないですもん、あの豊島さんには。こっそり彼女いるのがカナちゃんの方だったら、まだわかりますけど」
「茂松かあ。確かにアイツなら、てんで現実の女に興味ねーフリしといて、しれっと彼女いたとしても違和感ねーかもな、豊島よりは」
「いないんでしょうけどね」
「いねーだろうな」
虚しい憶測を確かめ合った二人は、呆れ返った溜め息を同時につく。
万年お一人様の肩書きが定着した二人に、都合良く彼女が出来たりすることなんて、そうそう有り得ない。
だが円香は、その『都合良く』というキーワードにピンときて、中空に吐き出した自分の煙をぼんやりと眺めながら、おもむろに口を開いた。
「……私、彼氏にするならカナちゃんで、結婚するなら豊島さんだろうなって、時々考えるんですよ」
「…………あ?」
突拍子のない呟きに、田辺の口から間の抜けた声が漏れる。発言の意図を少しも理解できないでこちらを凝視する彼の反応を見て、円香は意味深に微笑み返した。
「だって、子供っぽくて純粋で、好きなことを全力で楽しむカナちゃんは、付き合ったら楽しそうだし。豊島さんは仕事も出来てしっかりしてて、頼りになりそうだし」
「いや、それはまあ、わからなくもねーけどよ」
「だから、いいかもなーって思って私、決めました」
「……何を」
「私が二人の彼女になってあげるんです」
一点の曇りもない満面の笑顔を湛える円香を、田辺は呆気にとられて見つめ返すしかなかった。
田辺だけが好きだと、本気で好きだと、ついさっきまで切実に明かしていたはずなのに、急に何を言い出すのか。ほんのわずかな時間を置いただけで、もう想いが離れてしまったとでも言うのか。
そんな疑問が田辺の思考をせわしなく駆け巡った間に、淡々と煙草を消し終えた円香は灰皿を脇に寄せて、再び田辺の傍にずいとにじり寄る。
「そしたら、田辺さんが出した条件、クリアしますよね?」
「は?条件、って…」
「豊島さんかカナちゃんに彼女が出来たら、の条件。実現したら、同棲してくれるんでしょ?」
「……」
「二股三股は禁止、なんて、一言も言ってませんよね?」
小悪魔めいた悪戯な笑みで確かめてくる円香に、堪らず吹き出した田辺は、思わぬ動揺を与えてきた彼女の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「こんにゃろー、いっちょまえにナマな口聞きやがって。んな屁理屈、誰に仕込まれたんだっつの」
「えへへー、田辺さんでーっす」
「調子に乗るんじゃねえ。他のヤローとくっついて俺と同棲なんて企みなんざ、サマとも呼べやしねーわ」
豪快に笑い飛ばしながら容赦なく頭をこねくり回す田辺の仕打ちに、けたけたと愉快そうに笑う円香は、それでも心のどこかで少し違う喜びを感じていた。
二人の彼女になるという大胆な発言をした瞬間の、呆れて面食らった表情をしてみせた田辺が、明らかに戸惑いを窺わせた様子を円香は鋭く見抜いたのだ。これまで好意は自分一筋に向けられていると信じて疑わなかった彼の自信を、まんまと揺さぶることに成功した。
屁理屈めいた発想で田辺の虚を突いてみせた円香は、同時に仕掛けていた精神的駆け引きにも満足のいく反応を見出して、もうすっかりこの上なく上機嫌になってみせたのだった。




