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涙の魔法・外伝 -unbalanced triangle-  作者: 燐紅
恋愛玄人達の交際事情
33/35

恋愛玄人達の交際事情 1/3

時系列・・・「涙の魔法」完結後。とある金曜日の夜。

菜々でも豊島でも茂松でもない、今回は彼らと縁のある先輩カップル達の、ちょっと大人なお話。

 濡れた髪をバスタオルで無造作に拭きながら寝室のドアを開けた男は、ベッドの傍らに脱ぎ捨ててあった自身のワイシャツを見つけ、気怠げな動作でそれを拾い上げる。シャワーを浴びたばかりだというのに、また脱衣所に戻ってシャツを洗濯かごへ放ることすら億劫に感じた彼の視界の隅で、ベッドに横たえていた身を軽く起こした彼女の姿を捉え、そちらを見やった。


 眠りから覚めたばかりの物憂げな目でこちらを見上げてくる女は、儚げなその表情も、シーツから覗かせる透き通るような肌をしたその肩も、誰の目から見ても妖艶な色気を窺わせる。それでもそんな彼女を見下ろす男にとっては、親子ほど歳の離れたその彼女のことを、いつまで経っても大人の女として見ることが出来なかった。


 彼女と出会った頃よりも、深くなった皺と濃くなったヒゲを湛えた口元に薄く笑みを浮かべ、男は彼女めがけてシャツを放る。小さく声を上げて頭に被せられた女は、すぐさまシャツを取り払って男に抗議の視線を投げようとしたが、彼は何事もなかったかのようにバスタオルを腰に巻いて、傍らのテーブルに置いていた煙草を手に取りベッドの縁に腰掛けた。


 その背中を恨めしそうに軽く睨んだが、どうしようもなく押し寄せてくる物寂しさに負けた女は、投げ寄こされたシャツに華奢な腕を通しながら口を開く。



「ねえ……田辺さん」



 呼び掛けに振り向くことも、相槌すら返すことなく、閉口する田辺は背を向けたまま煙草に火を点ける。


 呼び掛けられた理由を察し、それに応える気はないと示しているようなもの。田辺の反応をそう解釈した円香は、シャツの襟元を手繰る手に軽く力を込めた。



「……いつになったら、同棲してくれるんですか」



 躊躇いがちな問いかけは予測していた通りで、田辺は溜め息に聞こえないようにと、吸い込んだ煙を静かに吐き出しながら、低い声で返す。



「……当分先だ」



 嫌というほど繰り返してきた問答をその短い言葉で済ませ、手元に置いた灰皿に軽く灰を落としながら、田辺は次に返ってくる責め句でも抗議の言葉でも、背中で聞く用意をして円香の反応を待った。



「そう言って何年になると思ってるんですか。もうすぐ私、30になっちゃうんですよ?」


「そうかい……今いくつだっけ」


「とぼけないでください。田辺さんの娘さんの、1つ上です」


「28、か」


「約束しましたよね。私が30になっても彼氏出来なかったら、私と籍入れるって」



 真剣な声音で確かめる円香の言葉に、田辺の口から苦笑の息が漏れた。



「……なんで覚えてるかねえ。んな酒の席でぼろっと言っちまったことなんかよ」



 それを聞いて思わず、円香は身を乗り出して田辺との距離をわずかに詰める。



「じゃあ、ナシにしちゃうんですか?酒の席の冗談で済ませて、私とはずっと遊びの関係でいるつもりなんですか?」


「その方がまどちゃんのためだ。今の関係を終わらせるかどうかは、好きにしな」



 素っ気ない田辺の返答に、息苦しさを覚えるような沈黙が続く。光量を抑えた天井の照明の下、目に映る何もかもがおぼろげにしか見えない寝室の中心で、二人は互いの息遣いを聞いて静寂をやり過ごす。


 幾度となく経験してきたが、田辺はこの重苦しい沈黙が何よりも苦手だった。そうしてきた相手は円香だけではない。一度きりの夜を共にした女ともそんなことがあったし、かつて将来を誓った女とも嫌になるほど経験させられた。


 どれだけ歳を重ねたら、この沈黙に慣れるだろうか。漠然とそんな思いを巡らせていた田辺の意識は、背後でわずかに沈んだベッドの感触に向けられる。


 後ろから両腕を伸ばして、円香は縋るようにそっと田辺を抱きすくめた。



「…………本気なんだよ、私」



 シャツ一枚の無防備な姿で寄り添い、少しも躊躇わずに素肌を押し当てる彼女が絞り出した言葉に、偽りは微塵もない。


 咥えたままの煙草の先端から灰が落ちないかだけを気にして、田辺は返答も身じろぎもせず、背中全体で円香の想いを受け止めながら、ただその続きを待った。



「田辺さんに飽きられたら、そこで諦める。二度と口も聞きたくないなら、傍に寄らないようにするし、会社も辞める」


「……そこまで嫌いになったとか、一つも言ってねーだろうがよ」


「だからって、ちゃんと愛してくれる気もないんでしょ」


「……」


「嫌われたっていい。どう思われたって、私は田辺さんだけが好き。それだけは絶対に変わらない」


「……おだてて素直に喜ぶと思うか。若さも性根も枯れきった俺なんかが」


「喜ばせたいわけじゃなくて、本当のことを言っただけ。私なんかより前の奥さんがずっといいって思うなら、復縁も喜んで賛成する。自由に生きてる田辺さんが決めたことに、私は何も反対するつもりなんてない」



 決意の重さを込めた円香の言葉に、田辺は今度こそ呆れを露わにして溜め息をついた。全身でそれを受け止めながら、円香は苦笑混じりに続ける。



「私から田辺さんとの関係を終わらせるなんて、出来ませんよ。そんな簡単に終わらせることが出来たら、何年も前にそうしてます」



 そう口にしながら、円香はまた一つ小さく息を漏らす。自分から終わらせることはない。そんな結末を選ぶ覚悟も勇気も持てない。堂々と情けない宣言をしたものだと、おかしさがこみ上げてきたせいだった。


 再び長い沈黙を挟んで、やがて田辺も静かに息を漏らした。口端から煙草を外して灰皿で軽く揉み消し、自身におぶさった格好の円香をその手で探って、そっと頭に手を添える。



「…………そういうとこだよ。俺がまどちゃんに素っ気なく出来ねーのは」



 曖昧な言い回しに、円香は思わずきょとんとする。その言葉を胸中で繰り返し、あやすように撫でてくる田辺の手を堪能しているうちに、その意図をじわじわと理解し始めた彼女は、口元を思いきり緩ませながら彼の肩口に顔を埋めた。



「仕事の時はいっつも素っ気なくするくせに」



 甘え混じりの拗ねた声を上げながら、円香はさらにしっかりと田辺の体に抱きつく。緊張の緩んだ空気に安堵して、即座に田辺は普段の軽薄な調子で口を開いた。



「じゃあ、豊島やら茂松やらが真っ赤になるくれーに、堂々とイチャこいてやろーか」


「出来るもんなら、存分にどーぞ」


「…………出来るかよ」



 円香が悪ノリに便乗してくるのが予想外だったのか、長い間を置いて田辺は吐き捨てるように呟く。苦し紛れのその一言に、円香は思わず身悶えるように肩を震わせ、腕を解いて彼の右に移る。



「そういうとこですよ。なんだかんだ言って、歳不相応に純情な田辺さん、ほんと可愛い」


「うっせーよ」



 悪戯に笑いかけながら見上げてくる円香の眼差しから、田辺はあからさまに顔を背けて照れを隠した。そんな反応にもくすくすと笑いながら、心底満たされた表情で円香は田辺の腕に頭をつけて寄り添う。


 こうして互いにからかい合って、仕事をしている時は決して出来ない親密な距離を許される、二人だけの時間。会社では隣同士の席ではあるものの、心穏やかに寄り添っていられる今と比べたら、幸せの度合いは本当にささやかなものだ。


 ずっとこのまま、愛しい人の温もりを感じていたい。そう強く思った円香は、その目に寂寥(せきりょう)の色を湛えて軽く伏せる。



「……今日、泊まってっていいですか」



 当然、帰りたくなかった。左手をそっと伸ばして田辺の右手に絡めようとした円香は、彼自身と、二人きりの夜にもっと甘えていたかった。


 だが田辺は、絡めたがる指に応えずにその手を優しく包み込んで、瑞々しい肌を露出した彼女の太腿の上に置く。



「いや、今日は駄目だ。明日は休日出勤しねーとなんでな」



 望みを拒まれて顔を上げた円香の目が、優しさを消して真剣味を帯びた田辺の表情を捉える。途端に締め付けられる胸の圧迫感で眉間に悲嘆がこもり、ごまかしきれない不安が円香の口をつく。



「嘘。そんなこと言って、他の女の所に行くんでしょ」



 その問いかけに、田辺は何も返さない。いっそのことその場凌ぎな言葉を返したり、肯定を返して開き直ったり、図星を突かれたか見当違いの問いかけに呆れるか、反応を表に出してほしいと円香はいつも思っていた。


 決まって田辺は、その問いかけに反応を示してくれることはなかった。


 そんな彼のずるさがあまりにも辛すぎて、あまりにも愛おしすぎて、いつだって円香は痛む心に耐えて彼の視線から顔を隠すのだった。

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