失恋男子の全力投球日記 5/6
「……なあ、なっちゃん」
「今話し掛けないでください……リプレイ外し苦手なんで……」
座った席の台に肘をつき、正面に菜々を据えて彼女の遥か後方の様子を窺っていた茂松は、真剣にリールとにらめっこをしている彼女に視線を戻した。
右と中のリールを止めた状態で、菜々は眉間にしわを寄せながら無機質に回る左のリールを睨んでいる。ボーナスを終えて小役が成立しやすいモードに移行し、そのモードが終了してしまうリプレイが揃わないように目押しに挑んでいるようだ。
その手順を覚えていた菜々にまた一つ感心しながらも、茂松はそんなことより今見たことを彼女へ報告しておくべきだろうと判断して、口を挟む。
「なんか裕太がガキ脅しに行ったみてーだけど、止めた方よくね?」
「は!?」
耳を疑う報告に目を見開いて茂松に向き直った拍子に、添えていた菜々の指はボタンを押してしまい、ピロン、とリプレイが成立した音が鳴る。あ、と二人同時に落胆の声を上げたが、それどころではないと菜々は茂松が指し示した方向へ目をやった。
音楽ゲームの筐体が並んだ一角で、どこにいてもわかる背丈を誇る豊島は、この辺りにある高校の制服を着た男子生徒と何やら話し込んでいるようだった。
話し込むと言っても、こちらに背を向けた少年はすっかり怯えきった様子で、向かい合った豊島は憮然とした面持ちで彼を睨み下ろしており、とても穏やかな雰囲気とは呼べないことは明らかだった。
「知り合いって感じじゃなさそうだし、あの様子じゃ因縁つけに行ってるようにしか見えねーな」
「……あれ、あの子確か…」
制服を見てどこの高校のものかなど一目で把握していた菜々は、さらに見覚えのある後ろ姿に記憶を引っ張り出しながら、豊富にメダルが排出された台のことなど構わずに席を立った。
「お前、さっき雑貨屋のとこにもいただろ。あの子に何か用でもあるのか」
「あの、いえっ、特に何も…」
「なら、なんでこんな離れたところからあの子のこと見てたんだよ」
「その、ただ、たまたま見かけて、なんとなく気になっただけで…」
「俺が声掛けるまでじっと見てただろうが。ごまかせると思ってんのか」
駄目だ。冷や汗が止まらない。逃げ出したいけど、足がすくんで逃げられない。
確実に腰を抜かすだろうなんて、こうして本当に睨み下ろされる羽目になって、そんな生易しいもので済まされないことが切実にわかった。この人は声を荒げて怒るタイプじゃないみたいだけど、身動きが取れなくなるほどの鋭い視線で睨み付けながら、淡々とした口調で追い詰める人なのか。怖すぎる。
お願いだから、誰か助けに来て。まだ約束の時間にはだいぶ早いから期待できないけど、待ち合わせしてる友人が奇跡的に現れてくれるとか、無理を承知で神様でも誰でも構わないから――
「――ちょっと豊島さんっ!いい歳した大人が高校生からカツアゲなんて、やめてくださいよみっともない!」
不意に割り込んできた声に驚いて振り返ると、神様の到来を待ち望んでいた僕の目の前に、呆れたように怒ってみせるナナさんが現れた。
ああ、まさかの女神様が直々に救いの手を差し伸べてくれるなんて。こんな状況でさえそんな呆れたことを考える自分に嫌気が差したけど、こんな状況だからこそ僕はそれどころじゃなかった。
「いや、カツアゲなんかしてねーよ。ただちょっと、さっきからなんか怪しいと思ってたから、声掛けてみただけで…」
「もー、男子だろうと女子だろうと高校生に声掛けるなんて、豊島さんだったら問答無用で通報対象……あれっ?」
間に僕を挟んで二人で言葉を交わしているうちに、ナナさんは僕を見てきょとんと目を丸くした。間近で目が合う衝撃に、緊張で疲れ切っていた僕の心臓が思いっきり跳ね上がる。
かっ、可愛い……いや、そうじゃなくて、これはまずい。ナナさんは確実に、僕の顔を覚えている。
「あー、やっぱり。君、よくウチの店に来てくれる子だよね。後ろ姿見てて、もしかしてってちょっと思ってたんだあ」
「あ、えとっ……ど、どうも…」
……終わった。きっとこの後、僕に疑いを掛けたこの長身の人――豊島さん、って言ってたな。彼が僕のストーカー行為をナナさんに仄めかして、そして彼女に軽蔑されるんだ。
思わぬ場所で顔見知りの僕と遭遇したことに、純粋な笑顔を見せてくれるナナさんとは、今日でとうとうお別れなんだ。軽率に彼女について探ろうとしてしまったことを激しく後悔しながら、僕は豊島さんが口を開いた気配を察して黙った。
「なんだ、知ってるヤツなのか」
「ええ、常連さんなんですよ。まったく、よりによってウチのお店贔屓にしてくれる人に迷惑かけるなんて、駄目ですよ豊島さん」
「いや、迷惑というか…」
「おーい、メダル放置したまんまで、ガキと世間話に夢中になってんじゃねーよ、お前ら」
ああ、この際あまり状況は変わらないけど、眼鏡の人まで来てしまった。三方向から僕に向けられた視線に、冗談抜きで泣きたくなってくる。
いっそのこと、何もかも自白してしまおう。横入りしてきた眼鏡の人へ顔を向けたナナさんに、ちゃんと僕の口からすべてを打ち明けて、自分の言葉で謝って、後悔のないように終わらせるんだ。
「メダルどころじゃないんですよカナちゃんさん。豊島さんったら、よりによって自分の後輩君いじめてたんですよ?だからお説教してたんです」
「いえ、あの、いじめられてたとかじゃ…………え?」
「は?」
僕の方へ意識を向けさせる頃合いを図って、意を決して口を開いたところで、想定外の情報に僕の口から変な声が出た。
続けざまに驚きの声を漏らした、僕の後ろに立つ豊島さんが……なんだって?
「えっ、だってこの子の制服、豊島さんの出身校のじゃないですか」
「いや、違うって。俺んとこの高校、学ランだったし」
「何十年前の話だよ、おっさん裕太。俺ら世代が卒業してから、お前の高校の制服がブレザーになったことくらい、出身の違う俺ですら知ってたっつの」
「そう……なのか」
気の抜けた声を返す豊島さんを、僕は無意識に振り返っておもむろに見上げた。目を合わせてきた彼から、不思議と親近感のようなものを感じてしまって、さっきまでの威圧感はほとんど感じられなくなった。
それでも警戒を解いたわけではない彼に向かって、ナナさんはあのいつもの明るい声で、僕にとっての究極の助け船を出してくれた。
「それにこの子、野球部なんですからね。部活の方もOBじゃないですか、豊島さん」
ナナさんの言葉を聞いた途端、切れ長の目をわずかに開いて、その話にしっかりと興味を引いた豊島さんの変化を、僕は見逃さなかった。
「マジかよ。ポジションは?」
「あ、一応、ピッチャーです」
「おっ。もしかして、去年の秋の地区大会決勝で投げた?」
「えっ、あっ……はい」
「なあんだよ、あと一歩で地区優勝まで引っ張れたスーパーエースじゃねーか。そうならそうと早く言ってくれよ、なあ?」
さっきまでとは打って変わって満面の笑顔を浮かべながら、豊島さんは心底嬉しそうに僕の肩をぽんぽんと叩く。これまで遠くからナナさんの姿を追いかけている時に見ていた彼の、初めて見せる表情に戸惑いながらも、僕はなんとか彼に笑顔を返した。
傍らで僕らのやり取りを聞いていたナナさんと眼鏡の人に、豊島さんは地方ニュースで結果を見ていたらしい決勝の詳細を、いかにも野球経験者らしい言葉も交えて説明してくれた。時折、肩に添えたままの大きな手で軽く僕を揺すって、試合での僕のことを大袈裟に褒めてきたりしながら。
予想だにしなかった展開にどうしたらいいのやら、気恥ずかしいやら、照れくさいやら。それでも僕は、自分の部のOBの想いを直接聞いたことがなかったものだから、こうして純粋に自分達の頑張りを讃えてくれる、素直に喜んでくれる、豊島さんのまっすぐな言葉を聞いていて、心の底から嬉しくなった。
「へえー。よく野球部のバッグ下げてるし、たまにユニフォームのまま来てたから、野球部の子なんだなーってしか思ってなかったけど、そんなに強い選手だったんだね。すごいなあー」
うわっ……あ、あのナナさんに、目一杯の笑顔で褒めてもらえるなんて。しかも、こんな、すぐ目の前で。幸せすぎる。何でも頑張れそうな気がしてくる。
……でも、彼女からこんな極上の笑顔を引き出した豊島さんが、本当に彼女の恋人なんだ。改めてその事実を思い返して、僕は胸の内で昂ぶり続ける想いをぐっと抑えつけ、謙遜気味な謝辞だけをナナさんに返した。
たまたま、彼氏の母校の生徒であり、彼がかつていた同じ野球部員だってだけ。僕はナナさんにとって、そんな偶然が運良く重なっただけの、それ以外は他の誰かと比べる所なんてない、常連客のうちの一人のままでいられるんだ。
幸せなことじゃないか。これからも変わらず、この人の笑顔に会いに行くことが出来るんだから。
「もう少ししたら、春の選抜だろ?次こそ地区優勝して、県代表目指してくれよ。応援してっからさ」
「は、はいっ!精一杯頑張ります!」
「期待してるぞ。俺らん時は地区優勝も奇跡的なレベルだったけど、今の世代なら甲子園目指せる強豪に育ってくれたって思ってるし」
思わず謙遜の言葉が口を突こうとして、はたと僕はそれを思い留まった。
うちの高校の野球部が地区優勝を果たしたのは、設立以来たった一度しかなかったはずだ。しかもそれは僕がまだ生まれてすらいない、20年も前の話で――
「そういえばお前、県大会までは行けたんだっけ」
「まぐれ勝ちみたいなもんだったけどな。今のこいつら世代ほど投手層が充実してなくてさ、リードすんのに苦労したわ」
「キャッチャーやってたんでしたよね、豊島さんは」
「そうそう。二回戦で当たった強豪校にバカスカ打たれまくって、コールド負け。しかもその対戦校が県代表勝ち取った上に、よりによってその高校はシゲの母校だったってオチまで付いた」
「えっ!それは初耳です!」
「専門学校上がってから裕太にその話聞かされてさ、俺別に野球部じゃなかったってのに、俺相手に散々恨み節ぶつけてきやがってよ」
中心に立つ僕の存在なんてすっかり忘れたかのように、三人はいつも通り楽しげに語らう。遠くから眺めてばかりいたその輪の中にいる不思議な感覚と、うまく言葉に表せない高揚感が混ざり合って、僕はなんだか落ち着かなかった。
声を発した人を目で追いかけているうちに、豊島さんは再び僕の肩に手を添えた。羨ましいほどの高身長を何の緊張もなく見上げられるようになった僕の視線を、その人は爽やかな笑顔を湛えて受け止める。
「ま、おっさんの過去の栄光はさておいてだ。次の大会も全力投球で、頑張れよ」
「……はいっ!」
この時の僕は、浮ついてばかりの憧れと綺麗に決別し、それとはまた違う憧れと心の支えを手にすることが出来たと、しっかりと決意を新たにしたのだった。




