聖夜の奇跡のお裾分け 2/4
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「はー……さっぶ」
コートのポケットに両手をしまって身を縮こまらせながら、野田は小さく独りごちる。屋外に長時間いるより幾分マシとはいえ、外気と大して変わらない駐輪場内に長く留まっていた体は、すっかり冷え切っていた。
少し歩いて駅のロータリーに出ると、深夜に差し掛かった駅前はすっかり閑散としていた。まばらな通行人の足音よりも、小振りの雪がしんしんと舞い降りる音の方が辺りに響き渡るような、静かな冬の光景だった。
顔や首筋に落ちてきた雪の冷たさに身震いを一つして、駅裏の駐車場の方向に目をやっていた野田の耳に、遠くから男女の仲睦まじげな会話が届く。
「このサイズのホットコーヒーってさ、なんでこんな無駄に熱いんだろうな」
「飲み物全体をちゃんとあっためるには、熱めの温度に設定しないとあったまらないんですよ。大抵は一番上に並べられてる小さめの缶コーヒーは、必然的にめちゃくちゃ熱くなっちゃうんです」
「そういうことか」
物憂げな心境でその和やかなやりとりを聞いていた野田は、駅に隣接したコンビニから出てきたばかりであろうその男女の会話につられて、駐車場へ向かおうとした足を気まぐれにそちらへ向けた。
コーヒーでも買って、少し暖まろう。すでに駐車場で自分を待っているかもしれない彼女の分も買うことにして、雪で滑りやすくなっている足元に気を払いながら、野田はゆっくりとコンビニを目指して歩く。
「これだけ熱くなってる缶を素手でずっと持ってられる人、意外と多くて不思議なんですよ」
「俺も平気だよ。コーヒーだけ買う時は、袋いらないって言うし」
「えー。あたしが手の皮薄すぎるとかかなあ。手に持ってスキャンがなかなかいかなくて、熱すぎて『あっつ!』って言いながら落としちゃった時なんか、お客さんに笑われちゃいましたもん」
「余裕で想像つくわ、その光景」
穏やかに笑い合うそのやりとりに、野田も思わず頬を緩ませる。どうやら行く先はこちらの方向らしく、二人の声は次第に近付いてきていた。
足元ばかりを気にしながら進んでいて、野田はその二人の姿を捉えていなかった。だが漏れ聞いた会話から察するに、まるであの二人のやりとりを聞いているようだと感じて、ふいと顔を上げる。
「……あ」
思わず野田は、足を止めた。そのまますれ違うはずだった男女も、進行方向で不意に立ち止まった人影に目を見張らせ、想定外の邂逅に戸惑いを見せながら立ち止まる。
「……野田」
コンビニの袋を携えた男は――豊島は、平坦な声で呼びかけてきた。対する野田も何か返そうとして口を開きかけ、どんな言葉を掛けるべきか迷い、そのまま力無く閉口する。
二人とも無事でよかった。茂松と共に二人を待つつもりだったが、やむを得ない事情で離れることになった。
心の底から二人を案じて、今まで一心に二人の帰りを待っていた。
そんな思いを伝えたかったのに、咄嗟に言葉に表せないもどかしさに口を引き結び、野田は豊島の隣に佇む菜々へふと目を向ける。
「っ…」
視線を向けられた菜々は、反射的に半歩後ずさった。目はしっかりと野田を力強く見据えながらも、予期せぬ出来事に戸惑いを隠せないでいる様子は、誰が見ても明らかだった。
野田が次に発してくる言葉に、次に見せる何らかの反応に、あからさまに怯えている。そんな菜々の心境を悟った野田は、ただただ視線に悲嘆の色を込めて、身をこわばらせる菜々を見つめるしかなかった。
「……わっ、と、豊島さっ…」
三人の沈黙を破って動いたのは、豊島だった。視線を交えた菜々と野田の間に割って入るようにして、その大柄な体で菜々の姿を野田の視界から隠した。
「いっ、いきなり、何を…」
「いいから。こいつと話付けるのは、俺だけでいい」
背後の頭二つ下の位置にいる菜々を言葉少なに制して、豊島は数メートル先に立ち尽くす野田を睨み据える。
強い意思を込めた視線に見据えられた野田は、刃向かう気にも皮肉を返す気にもなれず、長身の豊島を力無い目で見上げた。
「菜々ちゃんと俺は、お前に話しておきたいことは何もない。もしお前が菜々ちゃんに話しておきたいことがあるなら、ここで聞く」
沈黙を守る野田を促し、豊島は淡々とした口調で告げる。
駅の真正面から少し逸れた一角で、思い詰めた表情を湛えたままの野田と、菜々を庇った豊島の間に、長い沈黙が流れた。辛抱強く野田の反応を待っていた豊島は、不意に訪れた背中の感触に少しだけ意識を向ける。
豊島に視界を守られた菜々は、縋るようにしながらも遠慮がちに、豊島のコートの裾上辺りを軽く握り込んできた。その行動の意図を推し量った豊島は、野田を見据える目に並々ならぬ決意をさらに込める。
野田が告げる思いを、逃げずに受け止める。そう覚悟を決めたことを示す菜々の反応に、正直なところ虚勢を張っていた豊島の心は確実に勇気づけられた。
頼りない力で縋り付いてきたその手を、どうか離さないでいてほしい。一人で逃げ出したりせずに、どうか自分を頼ってほしい。内心でそう菜々に懇願した豊島の視線の先で、ようやく野田が重い口を開いた。
「…………んな立派な彼氏ぶり見せつけられたら、何も言えませんよ。邪魔者はとっとと退散するっす」
自嘲の笑みを薄く浮かべながら、野田はそう告げて目を伏せる。
めでたく恋人になれたかどうかなど、確かめるまでもなかった。今まで菜々の心を散々苛んできた野田から、身を挺して彼女を庇う豊島の行動が、二人の間に結実した絆を鮮明に物語っていた。
もはや清々しいほどの心持ちで諦めがついた野田は、コンビニへ向かうのをやめて踵を返し、もと来た道を戻って駐車場へ向かうことにした。
そのまま二人の前から去ろうとしたが、思い留まって顔だけ彼らに振り向き、穏やかな声音で野田は二人に向けて告げる。
「……茂松さんはまだ、駐輪場で二人を待ってますよ。俺は急用が出来たんで、これで失礼します」
「そうか…」
気を張っていた反動からか、あっさりとこの場を引く野田にどこか拍子抜けしたような声を返した豊島は、視線を彷徨わせて返す言葉を探し始める。
この場をやり過ごしてしまえば、おそらく今後会うことはないであろう目の前の相手に、伝えておくべきことはないだろうか。時間を掛けて頭を悩ませ、導いた言葉を豊島はたどたどしく口にした。
「その……元気でな。寒いとこに待たせっぱなしだったし、風邪引くなよ」
それを聞いた野田は、思わず吹き出してしまいそうになるのを堪え、苦笑いするだけに留めた。
まるで職場の元後輩としか見ていない、単なる労いではないか。誰かにツッコミを入れるセンスに長けた豊島相手に、そうツッコんで笑い飛ばそうかとも思ったが、言葉にするのをやめた野田は黙って彼に背を向ける。
(いいのかよ。目の敵にしなきゃならねー野郎に、こんなこと言えるヘタレを彼氏なんかにして)
言葉を交わすことすら許されない菜々に向けて内心で語りかけ、そう聞かせる代わりに負け惜しみでも残してやろうかと、野田は軽く声を張って後ろの二人に告げる。
「いじられキャラの豊島さんが彼氏なら、心配する必要ないでしょうね。好き放題いじり倒せる相手に傍にいてもらえたら、菜々もずっと笑っていられるでしょうから」
そんな存在でありたかった。心から愛おしいと思えた大切な人に、ずっと笑顔でいて欲しいと切に願っていた。そうしてやれない自身の無力さに気付かされるたびに、自身の弱さや愚かさが彼女を傷つけた。
途端に膨大な後悔の念に胸を締め付けられた野田は、冷え切った外気を深く吸い込んで肺を満たし、一歩一歩、二人との距離を離していって、その場を去った。寒さを堪えてわずかに背を丸めた後ろ姿を黙って見送った豊島は、野田が裏の駐車場へ曲がっていったのを確かめてから、半身だけ振り返る。
「もう大丈夫だよ、菜々ちゃん」
豊島が優しく声を掛けてきたのを合図に、菜々は彼のコートから手を離した。複雑な思いを湛えた表情のまま、俯き加減の視線をわずかに上げて、野田が立っていた方向をじっと見据える。
絶え間なく降り続いていた雪で白く染まった舗道に、点々と残った真新しい足跡。何も言わずにそれを目で辿っていた菜々は、おもむろに豊島が持つコンビニの袋に手を伸ばした。
突拍子もなく動いた菜々に目を丸くする豊島に構わず、菜々は袋の中に手を挿し入れ、一本の缶コーヒーを取り出す。
「菜々ちゃん…」
菜々の真意に豊島が気付くより先に、菜々は脇目も振らず駆け出していた。コートの袖で掴んだ缶コーヒーを片手に足跡を辿り、それが曲がっていった角の所で足を止め、その方向にいる人物をしっかりと視界に捉える。
静けさにそぐわぬ急いた足音を聞いていた野田は、すでにこちらを振り返って立ち止まっていた。通ってきたばかりの角から姿を現した予想外の人物に驚き、大きく目を見開いて菜々を凝視する。
きっ、と瞬時に睨みを利かせた菜々は、袖で手を隠していないと長く持っていられない熱さのコーヒーを、右素手に持ち替える。
「今度こそその顔見せんじゃねーぞ!このクズが!」
声を張り上げながら右手を振りかぶり、少し離れた位置にいる野田に向かって菜々は全力でコーヒーを放り投げる。手元へ向けて投げつけたはずのそれは野田の顔面をめがけて飛び、咄嗟に構えていた野田は顔の前で菜々の投球を受け止めた。
思わぬ危険球を放ったことに、菜々は焦りを露わにした。怪我をさせかねなかったと詫びようとすらして口を開きかけたところへ、彼女の頭に大きな手がぽんと置かれる。
すぐさま菜々の後を追いかけ、彼女の全力投球もしっかりと見ていた豊島は、思い切った彼女の行動を讃えて親指を立てた。悪戯なその笑顔と仕草に、思わず菜々も破顔する。すぐさま豊島が菜々の背に手を添えて促し、駐輪場に向かって二人は逃げるように駆けていった。
「……人に向かって物投げると、なんでいつも顔面に飛ぶんだよ、お前は」
文句を付ける前に悪戯っ子達に逃げられてしまい、呆れたように笑いながら野田は独りごちた。
走り去る二人を目で追うのをやめ、止めていた歩を進めながら缶を軽く振る。冷え切った手の中の温かい缶コーヒーを開け、静かに雪を降らせる厚い冬の空を見上げながらそれを煽った。
「…………あっちーなあ……無駄に」
軽く顔を歪めつつ、焼け付く胸の奥から白い息を吐き出し、一息置いて再び口を付ける。
染み渡るコーヒーの温かさの中でふと感じた、頬を伝った何かの感触は、顔に付いて溶けた雪だろう、と野田は自身に言い聞かせた。




