薄幸ヒロインとラッキースケベ 4/5
素っ頓狂な声で名を呼ばれた豊島は、咄嗟に人差し指を口に当てた。その仕草で自分に置かれた状況を思い出した菜々は、慌てて右手で口元を押さえる。
「…その様子だと、だいぶ回復したみたいだな、菜々ちゃん」
安心しきった声色で、豊島は傍らの簡素な丸椅子に腰掛けた。未だに彼がここにいることが信じられないといった様子で、呆然と菜々は彼の柔らかな表情を見つめる。
「なんで豊島さんが、こんなところに…」
「なんでって、ここに菜々ちゃん連れてきたの、俺だから」
「豊島さんが、あたしを?」
「たまたま見つけたのが俺で、病院がすぐ近くだったからよかったものの、そうでもなきゃ今頃大変なことになってたよ」
「見つけた、って…え?だってあたし、確か…えっと…」
憔悴しきったように視線を中空に泳がせながら、右手で額を押さえて口ごもる菜々。
人目のつかない場所を選んで鳴りを潜めていた理由。それをどうして豊島が偶然見つけたのかという疑問。目の前の相手に話しておくべきことと確かめたいこととで、菜々の覚醒しきっていない思考はうまく言葉を導き出せなかったのだ。
そんな彼女の心情になんとなく察しがついた豊島は、組んだ両手を膝の上に置き、軽く前屈みになって彼女にほんの少し顔を近づける。
「気が付いたらこんなとこにいて、パニックなってるだろ」
「…はい。もう何が何だか」
「少し落ち着こうか。なんで俺が菜々ちゃんをここに連れてこられたか、まずはその話からだ」
事のあらましを語り始めた豊島をまっすぐに見据え、菜々はその言葉に静かに耳を傾けた。
* * *
(…いちいち面倒見きれるかっつの)
普段の外回りの癖で助手席に意識を向けながらそんな悪態をつき、豊島は車を走らせていた。だが今はその席に、文句を付けてやりたい茂松の姿も誰の姿もないし、そもそも今走らせているのは会社の車ではなく豊島自身の車だ。本日の業務を予定通り無事に終わらせた彼がほぼ定時で上がれたのは、かなり久しぶりだった。
それなのに、と会社を出る直前の出来事を思い出して、豊島は軽く表情を不機嫌に歪める。
彼と同じく定時で上がれる予定だった茂松の電話が鳴ったのは、互いに退勤処理を済ませた後のことだった。飯でも食いに行くかと話しているところを遮ったのは、今日の仕事で回ってきたばかりのとある契約先の担当者からの電話だった。
傍でその電話に応じる茂松の受け答えを聞いていた豊島は、何やら穏やかな内容ではないことを感じとって残業を危惧していたが、どうやら自身に関わることではないと判断した時点で帰り支度を整えそそくさとその場を離れた。
なんのことはない、茂松の些細なミスによるものだ。ほんの少しサービス残業をして修正データをメール送付し、こちらの不手際を詫びる一報を入れればそれで終わり。もちろん修正作業は二人で取りかかればそれだけ早く済ませられるが、電話を終えて無言で縋る目をこちらに向けてきた茂松に対し、すでに廊下に出て開発室のドアから顔だけを覗かせていた豊島は爽やかな顔で告げた。
『おつかれっしたー』
即座に閉めたドアの向こうから「薄情者!」という悲痛な叫び声と、別の仕事を抱えた残業組の笑い声がそれに続いたのを聞きながら、豊島は悠然と会社を後にしたのだった。
(凡ミスメーカーのシゲはさておいて、だ)
何かをやらかすたびに甲斐甲斐しくフォローを入れるのは、よっぽどのことでない限り協力しない。普段から茂松に対してそれを再三言い聞かせていた豊島は、そんな彼を気にかけることを早々にやめて思考を切り替えた。
ほんの気まぐれだったが、帰宅ルートから逸れた道を通っている。立ち寄ったばかりの菜々のコンビニの前を通って遠巻きに様子を窺ってから、遠回りをして帰ろうとなんとなく思ったのだ。心配性で過保護だと言われたことを思い出して素直に納得してしまったが、その言葉をかけた茂松のことまで思い出したくはなかった豊島は大袈裟な溜め息でその意識をごまかした。
車通勤であれば駐車場を一目見て無事に仕事を終えたかどうかがわかったが、菜々は徒歩通勤だ。車で店の前を通りがてら今の状況を確かめられればそれで十分だった。やがて店の様子が見え始めたところまで差し掛かった辺りで、店の前にあるゴミ箱のゴミを集める店員の姿を見つけた。菜々でも奈津美でもないようだ。おそらくは菜々と入れ替わりで出勤した別の店員だろう。ほんの一瞬だが、店内には菜々より退勤の時間が遅いらしい奈津美の姿も見かけた。
倒れるまで無理をするのではないか。茂松に漏らしていたことをそこまで本気で懸念していたわけではなかったが、平穏な様子を確かめた豊島はひとまず胸をなで下ろした。ささやかな気がかりも解消したことだし、帰っていつものネトゲでもやろう。そう思いながら帰宅ルートへ戻る道を進んでいた時だった。
「……あ」
はるか前方で信号が赤に変わり、減速させている途中でふと歩道に目が行き、見覚えのある後ろ姿を見つける。菜々だ。
あのいつも明るい笑顔を振りまいている菜々にしては、背中に明らかに元気がない。それどころか若干ふらつき気味に歩いているようにも見える。やはり今日の忙しさで相当疲れたのだろう。
信号が変わって菜々の近くまで行ったら、車を寄せて彼女に声を掛けて家まで送り届けよう。また過保護だなんだと言われようが構わない、と思いながら信号待ちをしていると、不意に菜々が立ち止まった。
不審に思いながら軽く身を乗り出して様子を窺っていると、やがて菜々はおぼつかない足取りで細い路地へと入っていき、姿を消した。明らかに菜々の自宅の方向に繋がる道ではないことを知っていた豊島は、彼女の行動を訝しむ。
(どうしたんだ。寄り道にしたって、あっちの方向には菜々ちゃんが寄りたがりそうなところなんてなかったはずだし…)
解消したばかりの気がかりが再び顔を覗かせ、一目で疲れているのが見て取れる様子を目の当たりにしてさらに不安を覚える。
いつもよりかなり長く感じた信号がようやく青に変わり、列を成す車の流れに沿ってわずかに進んだところで、迷いながらも豊島は路肩に車を寄せて停車した。ハザードランプを点けて後方を振り返り、切れ目無く後続の車が追い越そうとしていくのを確かめて、仕方なく助手席側に移りながら車を降りる。
小走りで路地へ入っていき、薄暗く細い道に必死に目を凝らしながら菜々の姿を探す。完全に日が落ちてしまえば、街灯の少ないこの辺りで人を探すことは困難になる。ふつふつと湧く嫌な予感を抑えながら路地を進んでいると、一軒の寂れた個人商店が目についた。
シャッターが降りてしまっているこんな店に、用があるわけなんてない。そう思って店の前を通り過ぎようとして、何の気なしにもう一度視線を戻したところで、豊島は思わず足を止めた。
「…菜々ちゃん」
だいぶ年季の入った照明の暗い自販機の陰でうずくまっていたのは、紛れもなく菜々だった。これ以上暗い時間になっていたら完全に見落とすところだった。
探し当てた安堵はほんの一瞬だけで、声を掛けたのに何も反応を示さない彼女に再び不安を覚える。豊島は膝を抱えるようにして下を向いている菜々におもむろに近づき、彼女の前にしゃがみこんで片膝をついた。
「菜々ちゃん。何してんだ、こんなとこで」
寝ているのだろうか。それとも、塞ぎ込んでいるのだろうか。こんなに近くで呼びかけているというのに、菜々は反応しない。
豊島は彼女の肩に手を添え、軽く体を揺すった。
「おい、菜々ちゃんってば。こんなとこで寝てたら風邪引くぞ」
わずかに語気を強めて声を掛けても、少し強めに揺さぶっても、菜々は頭も上げなければ声も上げない。
何も、反応がない。
「菜々ちゃんっ!」
咄嗟に両肩を掴んで無理矢理顔を上げさせる。息はしているようだったが、軽く頬を叩いても何をしても、菜々の目蓋は一向に開く気配がない。
「どうしたんだよ本当に…返事しろってんだよ菜々ちゃん!菜々ちゃんっ!」
すぐに目覚めてくれることを願った豊島の懇願も虚しく、膝を抱えていた菜々の腕がだらりと地面に落ちた。完全に気を失っている。
救急車。真っ先に頭に浮かんだ最善の選択は、豊島の中で一旦打ち消された。呼ぼうにも入り組んだ路地の中途半端なところにあるこの場所まで、おそらく車両は入ってこられない上に場所の説明が難しい。そもそも連絡手段であるスマホは、車の中に置き去りだ。
「くっそ…!」
迷ってなどいられない。豊島は意識のない菜々を抱え上げ、建物に挟まれた狭い路地に彼女の体をぶつけないよう気を払いながら、もと来た道を戻って路肩に停めた自身の車へと急いだ。
幸い、すぐ近くには夜間外来を設けている総合病院がある。救急車を待つより、自分の車で向かった方が早い。大通りに抜けてから自分の車に辿り着くまで通行人に奇異の目を向けられたが、気にしている余裕などなかった。ああそりゃ誘拐同然で気絶した女の子を車へ運び入れる中年男なんて、誰だって怪しむわ。そう自虐的になりながらも菜々を助手席に乗せた豊島は、運良く車の流れがすぐに途切れたのを狙って運転席に滑り込み、車を発進させた。
「なんでこんなことになったんだよ、菜々ちゃん…!」
何でもいいから反応を示してくれないだろうかと強く祈りながら、豊島は病院へと急いだ。
* * *
「――で、なんとかここに着いてまた菜々ちゃん抱えて、夜間外来に行ったわけ。すぐに当直の先生が来てくれて…って、菜々ちゃん?顔赤くなってるけど、どうかした?」
その当直医に大事はないと聞かされていた豊島は、別の理由で具合でも悪くなってきたのだろうかと、赤面した菜々の顔を心配そうに覗き込む。
それを見て慌てて豊島から目を逸らした菜々が、ぽつりと呟いた。
「……不覚です」
「何が?あんなところで気絶してたこと?」
「それもですけど、まさか知らない間に豊島さんに……お姫様抱っこされてたなんて」
「……あ?」
「そんな貴重な体験してた時に気失ってたなんて、ほんと一生の不覚あいたっ」
不意のデコピンに思わず情けない声を上げ、菜々は額を押さえながら呆れ顔の豊島を見上げた。
「病人になんてことするんですか」
「自分の非常時を理解していない発言をする人を病人とは認めません」
「こんな意地悪する豊島さんがそんなイケメンな助け方してくれたなんて、信じられません」
「…人命救助目的なんだから、仕方ないだろ」
ほんの少し声量を落としながら、今度は豊島が菜々から目を逸らして照れ隠しする。頬を赤らめる彼を見て、菜々は思わずくすりと笑った。




