薄幸ヒロインとラッキースケベ 2/5
* * *
「――んおー。想像以上だわ、この辛さ」
開封したパンに口を付けることも忘れてガラス越しに店内をぼんやりと眺めていた豊島は、パンを頬張りながら味の感想を独りごちる傍らの茂松に視線を落とした。
屋外に設置された灰皿のすぐ横にしゃがんでパンを貪る彼の姿は、相変わらず柄が悪い。茂松にとっては煙草を吸う時のお決まりの姿勢なのだが、傍から見るとただのヤンキーだ。彼のそんな姿などとうに見慣れていた豊島は、そんな彼よりも手にしているパンに興味を引いてみせる。
「辛いったって、パンの辛さなんかたかが知れてるだろ」
「いや、これはパンのレベル超えてる。確実に激辛のカップ麺レベル」
「大袈裟な」
「マジマジ。食ってみ」
「どら」
おもむろに食べかけのパンを差し出され、迷うことなく豊島はそれにかじりつく。誰かの食べかけなど全く気にしないタイプである二人が、こうして互いが口を付けた部分も確かめずに食べ物を共有するのは日常的だった。
そんな光景を初めて目の当たりにして間接キスだ何だとはやし立てられたことをふと思い出し、咀嚼しながら豊島は再び店内に視線を戻して、かつてそんな風に興奮してみせた菜々の姿を軽く探し始める。
今思うと、それが菜々の掛け算妄想の発端だったのではないか、と彼は改めて思った。気の置ける間柄。独り身の寂しい者同士。あらゆる適正条件を満たしているとその瞬間に彼女に認められ、それから妄想の餌食となって二人まとめてからかわれるようになった気がする。
何の気なしにそんな思いを馳せていたが、途中からそれどころではなくなった。
「…うわ辛っ!」
「後からくるだろ」
口にした瞬間は大したことないと油断しきっていた豊島は、じわじわと口に広がっていた辛さが急激に脳天を突く刺激に変わった感覚に大きく顔を歪め、咄嗟に口元を抑えながらどうにか無理矢理飲み下す。
大いに取り乱す豊島のリアクションをからからと笑いながら、茂松はというとその激辛のカレーパンを平然と口にしている。
「よくこんなの平気で食えるなお前」
「辛いモン好きだから俺。なっちゃんにも『辛いの平気なカナちゃんさんも満足の辛さですよ』って言われてたけど、期待以上だったわ」
「ペースト状に凝縮されてて、カップ麺なんかと比べモンにならねー辛さだぞコレ。うわー舌いてえ…」
一口だけで汗ばんでくる感覚さえ覚えるほどの辛さに耐えかね、豊島は手にしていたクリームパンを口直しに頬張る。完全に舌が麻痺していて甘さを感じないそのパンの断面を、彼は何とも言えない表情でじっと睨んだ。
「…味しねーんだけど」
「味覚音痴乙」
「その言葉そのままお前に返すわ」
「俺はしっかりおいしくいただきました」
「は?もう全部食ったのお前」
「口直し必要かと思ったけど、案外平気だわ。そのパンは一口でいいや、後でくれな」
あのとんでもない辛さのパンを平らげた茂松は、普段とまったく変わらない涼しい顔ですでに煙草を吸い始めていた。唖然とした顔でその様子を見下ろしながら、豊島は味のしないクリームパンを黙々と食べる。
「いやーしかし、なっちゃんさまさまだな。コンビニの新商品やらオススメやら、色々教えてもらえるし」
「でも大変そうだよな。コンビニの商品って入れ替わり激しいし」
「そーそー。こないだ出たばっかなのにもう販売終了かよ、とかよくあるよな」
「なくならないうちに贔屓にしとけ、そのパン。菜々ちゃんの店の売り上げ貢献のためにも」
「ここ最近だいぶ貢献してる気がすっけど、この店ってたぶんここら辺のコンビニで一番賑わってるよな」
「この時間帯とか、いつも菜々ちゃんとあの友達の子くらいしかいないのにな。たまに店長っぽい人見かけるけど。大変なんだろうな忙しくて」
無意識にまた店内へ目を向けていた豊島の耳に、くつくつと忍び笑う声が届く。訝しげにその方向を見下ろすと、その男は煙草を指に挟んだまま肩を揺らして笑っていた。
「なんだよ」
「…さっきからお前、しつけーくらいなっちゃんの心配してるって、まるわかりの発言ばっかしてっからさ」
「…心配にもなるわ、いつか倒れるまで無理すんじゃねーかって」
「心配性で過保護の親代わり彼氏乙」
自身の発言が妙にしっくり来てしまい、茂松は口を開けてさらに笑った。
すっかり笑いものにされた豊島は、ふてくされながら黙ってパンを口にする。そしてとっておきの仕返しを思いついた彼は、咀嚼しながらおもむろに茂松に呼びかけた。
「ほれ」
「あ?」
油断しきった顔のまま豊島の方を向いた茂松の口に、一口と呼ぶには少々無理のあるサイズのパンを無理矢理ねじ込む。
目線の高さよりはるか下で食べ物を与えるというのは、犬か何かに餌付けをしているようだと豊島は思った。その犬が眉間にしわを寄せながら口いっぱいのパンを咀嚼する様子を彼は優越感たっぷりに見下ろす。
「…待へ」
待てと言ったか、この犬は。犬のしつけの基本で抗議してくる理由を知っていた豊島は、素直に待った。
何やら文句を言いたげな目で睨み上げられ、企み顔の豊島の口元が自然と緩む。言葉を発するのに邪魔なパンを無理矢理に半分飲み下し、茂松は声を荒げた。
「クリーム全然ねーじゃねーか!」
「そこだけ食い尽くした」
「てめえ馬鹿裕太!」
しゃがんだままでは腕のリーチが足りず、豊島の片足に食らわそうとした渾身の犬パンチはひょいとかわされてしまった。
* * *
「――あー、笑った笑った。菜々の彼氏らの漫才、堪能させてもらっちゃった」
「見てたよ。結構打ち解けてたね、奈津美」
「どっちか片方を本気で狙われちゃうんじゃないかって、ジェラシー感じた?」
「おあいにく様、どちらも譲る気なんてございませんので」
「欲張り菜々ちゃん、相変わらずの小悪魔っぷりですな」
彼らに負けじと漫才のようなやりとりを交わし、人気のなくなった店内を軽く見渡しながら菜々と奈津美は静かに笑い合った。ピークが収まったのを確かめた二人は、割り箸やおしぼりといった消耗品をカウンター内に補充しながら雑談に興じる。
「それにしても、なんだったんだろうね今日は。金曜とはいえ、お客さんすごかったね」
「近くで何かイベントあったっけ。そうでもないとあんなにたくさん来なかったろうけど、何も情報なかった気がするし」
「まさかの豊島さん茂松さん効果だったりして」
「そんなわけないでしょ」
「明日デートなんだって?」
「まあね。いつも通りのカラオケと飲み」
「今日の疲れ、しっかりと発散してきなね。だいぶ疲れ溜まってる顔してるから」
「あー、顔に出ちゃってる?さっき合間見て栄養剤飲んできたけど、なかなか効かないみたいでさ」
「錠剤タイプじゃなくてドリンクタイプにすればよかったのに。そっちのが即効性ありそうじゃん」
「どうせ今日はそろそろ上がる時間だし。家に着く頃にはバッチリ元気になるはずだから」
「で、ネット彼氏とのチャットに精を出すわけだ」
「そーゆーこと」
「二人とのデートも控えてるってのに、リア充だねえ」
厭味たらしい口ぶりの奈津美に笑ってみせながら、菜々は店の奥の壁掛けの時計を見やる。
「おっ、あと5分だ。時間まで今日買ってく物、選んじゃおーっと」
雑務を終えた菜々は颯爽と誰もいない売り場に出て、パンやらアイスやら楽しげに品定めを始めた。
「ずるー。あたしに何か奢ってよ、小腹空いちゃったから夜までもたなそうだし」
「いいよー。これなんかどう?」
そう言って選び取ったパンを掲げる菜々を見やった奈津美は、あからさまに顔をしかめてみせた。
「…それ、もういらない。激辛過ぎてあたしには無理だった」
「やっぱり?」
「茂松さん買ってたよ、そのパン」
「知ってる。選んでるとこ見てたし、あたしが勧めてたの。かなりの辛党さんなんだよ、あの人」
「ふーん」
「明日感想聞くの、楽しみだなー」
うきうきとパンの棚を眺めながら独りごちる菜々の笑顔に、奈津美は思わず頬を緩ませる。
そんな彼女が好むパンを熟知していた菜々は、今度は迷うことなくその好みに当てはまるパンを手に取り、はっと思い出して顔を奈津美に向ける。
「そういえば、豊島さんは何買ってた?パン」
「あー、確か…」
記憶を辿って豊島の買ったパンを思い出した奈津美は、菜々にその商品名を告げる。菓子パンが並ぶ棚からそれを探す菜々は、ほどなくしてぽつりと呟いた。
「…無いや」
「売り切れちゃったか。残念」
「ツイてないなあ、同じの買おうと思ったのに」
「茂松さんのと同じのにすればいいじゃん」
「それは遠慮しとく。あたしもこの激辛にやられちゃったし」
「だよね」
レジ内とパン売り場でそれぞれ笑い合っているうちに、時間はすでに菜々の退勤時刻を迎えようとしていた。
(…ほんとツイてなかったな、今日は)
自宅への帰り道をとぼとぼと歩きながら、菜々は俯きがちに溜め息をついた。
(変に忙しくてかなり疲れちゃったし。せっかく豊島さんとカナちゃんさんに会えたのに、相手できなかったし。しかも奈津美と、楽しそうに喋って…)
胸中の独り言を不意に遮って、菜々は口元に薄く苦笑いを浮かべる。
(…ジェラシー、か。案外そうなのかも)
からかわれた時は平然とかわしてみせたが、奈津美から言われたその言葉を振り返った菜々は、横で見ていた三人の姿を思い返しながら素直にそれを受け入れた。
どちらを取られることを危惧したジェラシーなのかはわからないが。そう付け足しながら、菜々はさらに苦笑いする。
「……あれ」
思わず声が出たのは、不意に視界がぐらりと歪んだせいだった。




