苦しかった少年の話。
昔々、大昔。数百年も昔の話。空に浮かんだ不思議な船に住んでおり恐ろしい力を持つと噂される魔女が、地上へ降り立ってこう言った。
「人間達を殺します」
彼女が指をひょいと動かすと人間達はたちまち居なくなりました。一人、また一人減っていく村人達。
そんな時でした。彼女と一番の仲良しだった少年が彼女の胸を一突き。魔女は死に、彼は村人達の英雄となりました――――。
毎年、桜並木が美しいと言われる大通りも、5月になる頃には例外無く木々の葉が碧く染まる。春という始まりの季節も落ち着いてきていて、通りは穏やかな空気を取り戻していた。夜になると、家々には月明りで仄かに艶めく碧の姿が見えて、特にゴールデンウィーク中は、それを肴に晩酌する大人も少なくない。菖蒲の家の両親も、例外ではなかった。
「あやちゃん、もう寝なさい。明日はお休みだからって、子どもはもう寝る時間よ?」
「ぱぱとままは起きてるのに!あやめはおきてちゃいけないの?」
「ふふ、だめよ、パパとママは大人だからいいのよ。あやちゃんは夜遅くまで起きていたら明日起きられなくなっちゃうでしょう?だからもうおやすみなさい」
菖蒲の母親はくすくすと笑いながら駄々をこねる菖蒲を抱き上げてベッドまで連れて行く。もごもごと嫌がる菖蒲の頭を柔らかく撫で、布団をきちんと肩までかけて、いい子は早く寝ましょうね?と部屋から出て行ってしまった。
「ぱぱたちったら、またおさけ、のむんだわ。ぶどうじゅーすの、おさけ」
父親と母親の楽しそうな声がほんの少し聞こえてくるのを、菖蒲はぶっすり膨れっ面で聞くことしか出来ない。確かに眠いし、きっと夜遅くまで起きていたら朝起きるのが遅くなってしまうだろう。しかしそんなこと、子どもの前では些細な事だった。誰かが楽しそうにしているのを見ると無条件に交じりたくなるのだ。そんなに楽しいのなら私も、と。けれどそんなことを言ってもまた駄目だと言われて終わるだろうと菖蒲は諦めてふかふかの布団に包まれるように寝返りを打った。春とはいえまだ夜は冷える日もある。今日は少し肌寒いくらいの気温らしく、菖蒲は布団の中でしばらくごそごそと寝返りを打っていたが、それも十分もすると落ち着いて、眠りについた。
その夜、菖蒲は夢を見た。魔女と少年の夢。二人はとても仲が良い様子で、目の前に空の青が広がる所で話をしているようだった。楽しそうな二人の間に流れる空気は、とても優しいものだった。
次の日の朝。菖蒲は、何故だか頭が痛いと呻いている両親を放っておいて、一人で散歩に出かけた。昨日の夢が妙に気になって、空が広く見える所に行きたいと思ったのだ。幼い頃から連れて行ってもらっている見晴らしの良い丘ならばよく見えるだろうと、菖蒲は走った。胸に渦巻くざわざわの正体がわからなくて、怖いと思っていたからかもしれなかった。
丘に着くと、見知らぬ少年が立っているのが見えた。菖蒲はその知らない筈の少年をどこかで見たことがある気がして、しばらく見つめていた。すると、視線に気が付いたのか少年は菖蒲の方を振り返った。
「あっ……!」
その顔は昨日見た夢の中に出てきた少年の顔にそっくりだった。いや、何も変わらないかもしれない。菖蒲は思わず出てしまった声にしまった!と思い、とっさに両手で自分の口を塞いだ。少年はそれを見て両の瞳が零れ落ちそうなくらい見開いて、笑った。綺麗なペールブルーの髪に美しいグレーの瞳は、空のようだった。
(そら、おちちゃう)
落ちてしまう。零れる空を受け止めなければと手を伸ばそうとした菖蒲に、少年は口を開く。
「その癖、まだ直っていないんだね……、アイリス」
「えっ、あぃ、り、す……?あやめは、あやめだよ?」
菖蒲は我に返りすぐさま手を引っ込めた。そして、少し戸惑いながらそう言うと少年はハッとし僅かに俯いてああ、そうか、などと小さく呟き、またすぐに顔を上げて微笑んだ。その笑みは、少し寂しそうにも見えた。
「えっと、アヤメ……?こんにちは、僕はフィー」
「ふぃー?ふぃーは、おともだちいるの?」
「ええ?突然だね。どうしてそんなことを聞くの?」
「きのうね、あやめ、ゆめをみたのよ!そこにね、ふぃーと、おんなのこがでてきたの。ふぃーのおともだち?」
フィーと名乗った少年は表情を少し曇らせて、けれど、さあ、どうだろうねとだけ答えて黙ってしまった。聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうかと菖蒲が不安を感じていると、フィーは菖蒲に、ねえ、と声をかけた。
「なあに?」
「アヤメ、僕を憶えていて。また来年のこの日に会おう」
「どうして、らいねんなの?」
「それは……この日以外は、いつも、その、忙しんだ、僕。ね、だから、僕のこと忘れないで、アヤメ」
「いそがしい……そっか、ふぃーもおしごとなのね!わかった、あやめわすれないよ、またらいねん、ね!」
普段は仕事で忙しい両親も、五月のゴールデンウィークには休みを取って一緒にいてくれる。菖蒲はフィーもまた両親と同じように忙しいのだと考えて、二パッと笑った。明るい、子どもらしく可愛らしい笑顔だった。約束だねと二人で笑いあって、もうお昼の時間だからと菖蒲はフィーに別れを告げた。
それが二人の出逢いだった。
季節は何度廻っただろうか。菖蒲とフィーは最初に出逢った春から毎年会い続けていた。菖蒲が見る夢も、毎年内容が違っていた。
仲が良かった夢の中の二人は、いつしか少女が少年のことを想い、少年は少女に夢を語るようになった。青の髪と灰の目を持つその少年は村の皆と仲良くしたいのだと、少女に悲しそうに笑う。少女はどうにか少年の夢を叶えてあげようと一生懸命に考えた。少女は魔法が使えるようで、その中には人を移動させることの出来るものもあるらしく、少女はそれを使って人々を怖がらせることにした。そうすると、きっと少年は魔女を殺せと頼まれ、断り切れないだろうと考えたからだった。少女は計画を実行に移し、そして見事、少女の思った通りになったのだ!そこで終わりらしく、少女が殺されるとまた二人の出会いから夢が始まるようになっていた。
何年もフィーに会うことで夢の中に出てくる少年はフィーで間違いないだろうと、菖蒲は思っていた。彼女が何度彼に会っても、少しも成長していないのだ。菖蒲が可愛らしい少女から美しい女性になるまでの間も、身長も顔も声も、何一つ変わっていない。それどころか夢の中の少年がはっきりとした存在に感じられる程、フィーの雰囲気は夢の中の少年と同じだったのだ。
「フィー、久しぶり。元気にしてた?」
「アヤメ!勿論、元気だったよ」
いつも菖蒲の近況報告から始まる二人での会話。けれど今日の菖蒲にそのつもりは無かった。
「ねえ、フィー」
「どうしたの?」
いつもより真剣な表情で自分を見つめる菖蒲をフィーは不思議がっているようだった。首を傾げる仕草は、幼い子どもそのものだ。
「フィーは……、フィーはいつも私の夢の中に出てくる、男の子なの?」
「……アヤメは、どんな夢を見るの?」
フィーの問いに菖蒲は、これまで繰り返し見て覚えきってしまった夢の内容を、フィーに話して聞かせた。話し終わると、フィーはふぅ、と息を吐いて、
「そうだね、確かに僕だ。何一つ違わない、僕で間違い無いよ」
と、吐き捨てるように言った。
「フィー?」
初めて見るフィーの暗い表情に、菖蒲戸惑った。フィーは、菖蒲のことを見つめている。どこか、恐れているようにも見えた。
「その夢の中に出てくる女の子はね、アイリスって言うんだよ、アヤメ」
「アイリス……」
「そう、アイリス……。彼女は僕の、一番の親友だった、魔法使い。皆には気味悪がられててね、村から離れて暮らしてた。……優しい、とても優しい女の子だった」
フィーの瞳には菖蒲が映っているはずなのに、彼は菖蒲を通してどこか遠くを見ているようで、いつも美しい優しいグレーの瞳が今は、寂しそうな、遣る瀬無いような色をしていた。
「あの日、僕は彼女を刺した。……断れなかった。村の人に頼まれて、もう嫌われるのは怖くて、皆と仲良くしたくてっ……!一番大切な友達を、この手で殺したんだ……っ」
いつの間にか、フィーの瞳からはぽろぽろと涙が零れていた。それを乱暴に拭って、彼は続ける。忘れられず、死んで数百年経っても尚、自分はそのことが忘れられないでいる、毎年会えるこの日は自分がアイリスを刺した日なのだ、と。
「フィーは、なんでそれを私に話してくれるの?」
菖蒲が静かに問うと、フィーはゆっくりと言葉を紡いだ。
「アイリスの魂と、君の魂が同じだからだよ、アヤメ」
「どういう、こと?」
「魂はね、全部が全部違うわけじゃないんだ、アヤメ。前世とかって、聞いたことあるだろう?」
「輪廻転生とかって、話?」
「そうだよ。魂は巡り巡っている。そして、生きている本人が覚えていなくとも魂には記憶や感情が残っているんだ。死んでいる僕には、なんとなく、アイリスの魂と今生きているアヤメの魂が同じだ、ってわかるよ」
そう言うとフィーは力無く微笑んで、再び口を開いた。
「ねえ、アヤメ。彼女、アイリスは、何を思って死んでいったと思う?アヤメの考えで構わない、から、話してくれる……?」
また泣いてしまいそうに顔を歪めるフィーに、アヤメは優しい声音で語り始めた。
「フィー、私の名前、菖蒲ってね、花の名前から取って名付けられたんだよ」
「アヤメ……?」
「ほんとの花の名前は、しょうぶ。英語では、アイリスって言うの」
弾かれたように顔を上げて目を見開くフィーに、菖蒲は笑う。
「そう、アイリスと同じね。そして花言葉は、あなたを信じています」
フィーは、何も言えなかった。声を出したら泣いてしまいそうだったのだ。
静かな丘に菖蒲の声が響く。
「私ね、夢を見て、思っていたの。女の子は、アイリスは、きっとフィーが大好きなんだろうなって。だから、きっとね、アイリスはフィーが皆と仲良くなることを心から望んで、フィーなら一人でも大丈夫だって信じて、フィーを想って死のうと思ったんじゃないかなあって思うんだ。私と、彼女の魂が本当に同じなら、フィーを恨むとか、嫌いになるとか、有り得ないと思う。フィーを好きな私の気持ちと、アイリスの気持ちと、好きの形は違うけれど変わらないものだと思うから……」
「ぅ、ひっ、く、ぁ、ぃりっ、ぅっ……!」
優しい、優しい声だった。それは、まるでアイリスの声音そのもので、フィーはアイリスが生きているような心地がして堪らなかった。ぼろぼろと勢いを増す涙に、菖蒲もまた、何も言わなかった。
その日は、暫くして泣き止んだフィーとほんの少し話をして、二人は別れた。
「……また来年だね、アヤメ」
「うん、また来年」
いつもはしない約束をした。再開の約束を。
それからも毎年、二人は会い続けた。菖蒲が結婚して、子どもが出来て、孫が出来て、菖蒲が死ぬ直前まで、それは変わらなかった。
「ねぇ、フィー。私、きっとあなたに会えるのは、これが最後だと思うの……」
「そっか、仕方ないね……」
車椅子に座る膝の上に置かれた菖蒲のしわくちゃの手を、フィーがそっと取ると、ぞっとするほど冷たかった。
「フィー、きっと、また会えるわよね……?なんだか、そんな気がするの……」
「……そうだね、きっと、会えるさ」
フィーが微笑みかけると、菖蒲も微かに笑ったようだった。
「じゃあね、アヤメ、さようなら。今まで、ありがとう」
「こちらこそ……、楽しかったわ、フィー……。こんなに素敵なお友達に出逢えて、アイリスは、幸せだったでしょうね……」
「アヤメ……」
「さようなら、フィー……」
菖蒲はそう言うと、少しして丘を登ってきた彼女の子どもに車椅子を押されて行ってしまった。その後姿を見ながら、フィーはもう一度、ありがとう、アヤメ、と呟いた。
強い風が吹いて、木々や地面に生えている草花を揺らした。
丘には、もう誰もいなかった。綺麗な水色の空に、美しい灰色の雲が薄く散っていた。五月の少年は、きっとまたいつか、出逢えるだろう。愛しい少女の、魂に。