異世界養子、なってみます②
入って、と瑞晴に言われ、その言葉通りに瞑鬼は店内へ足を踏み入れる。
中と外とでは思った以上に感じが違う。ひんやりとした店内は果物の匂いで包まれており、まるで楽園にでもきたような気分になる。
繁々と店内を眺めていると、いつの間にか瑞晴が隣に立っていた。近くで見て見ると思った以上に身長が低い。そのまま瞑鬼が手を横に振っていれば、見事顔に裏拳が入っていただろう。
「で、どういう事だ瑞晴。俺は何も聞いてないぞ」
仕事の表情に戻った親父さんが、咎めるような口調で瑞晴に訊ねる。その間も、仕事の手を休めないあたりがプロの所業と言えるだろう。手に取られたリンゴの皮が、みるみる剥かれてゆく。
筋骨隆々な親父さんに睨まれた瑞晴は、一人店の外を仰ぎ見ると、何事もなかったかのように会話を再開する。
「えっとね、バイト希望の人。できれば泊まり込みで」
高校生の娘が、自分の家に泊まり込みで働く男を探してきたのが意外だったのだろう。親父さんは、はぁっ?と盛大に凄むと、ふたたび瞑鬼を睨みつける。
自分からも説明をしろと言いたげな親父さんの目に当てられたのだろう。瞑鬼も真剣な表情を浮かべ、
「初めまして。神前瞑鬼です」
と丁寧に名を名乗る。することはただそれだけだ。これ以上何か話しても、親父さんの怒りを買うだけだろう。ただでさえ文無しだというのに、これ以上借金なんてしたら異世界生活どころの話ではなくなってしまう。
親父さんが包丁を握る手を止める。半分ほど刃の通ったリンゴが、自重によりゆっくりと避けてゆく。
「お前、なんでウチに来た。言っとくが、泊まり込みだからって瑞晴とイチャイチャできると思ったら大間違いだからな?」
どうやら親父さんは瞑鬼の事を、娘の彼氏か何かと勘違いしているらしい。より一層鋭くした眼光を、瞑鬼の胸の奥深くまで貫通させる。
あらぬ誤解を突きつけられた瞑鬼は、あわててそれを否定する。
「いえ、べ、別にそんなつもりは……」
「ほう……。つまり瑞晴に興味はない、と?」
瞑鬼の言葉が盛大な地雷地帯を踏み抜く。その影響からか、親父さんの手に握られていた包丁が眩い光を照らし出す。
あと一言かければ、即座に右手が握っているものが飛んでくるだろう。筋肉質の腕から繰り出されるそれを避ける術が、今の瞑鬼にはない。
しかし、ここで引いたら今までどおり。いつも通り諦めて、またいつかと自分に言い訳をする。そんな後悔だらけの人生が待っているのは明白だ。
せっかく異世界に来たのだ。例え少しくらい馬鹿らしくても、滑稽だったとしても、文句を言うものは誰もいない。
だったら、少しくらい挑戦的になっても良いのではないか。
瞑鬼の中で、何かが固まる音がした。今での瞑鬼だったら、恐らくできなかった決断。他人に頼り、人を信用して生きると言う人生。
どれもこれも初めての体験だ。正解じゃないかもしれない。けれど、今の瞑鬼にはそんな事はどうでもいい些細な事だった。
「とにかく、どこの誰かもわからん奴を、覚悟もなしに雇うわけにはいかん。親御さんも心配してるだろ。単なる家出なら、とっとと帰っときな」
呆れたような口調で親父さんが息を吐く。これ以上知り合いでもない瞑鬼に割く時間はないのだろう。包丁を握り直し、新しい果物に手を伸ばす。
「でも、お父さん……」
それでも、なんとか瑞晴が食らいつく。
瑞晴にとっては、ほんの数分前に出会った人物であるはずなのに。素性もしれない、怪しい青年であると言うのに。
それにも関わらず、瑞晴は瞑鬼の為に親父さんの説得をやめないのだ。普段の様子を鑑みるに、そんな事はないのだろう。親父さんもいい加減うざったそうな顔をする。
「……ここは、やる時だよな」
誰にも聞こえない声で、瞑鬼がそっと呟く。
その声は空気に溶け、瑞晴や親父さんに届く前に完全に無かったものとなる。しかし、それで良かったのだ。瞑鬼の目的は、今の言葉を誰かに届けるわけでも、ましてや神に祈るためでもない。
ただ、己を奮い立たせる。そんな簡単な事である。
「お願いします!迷惑だってのももっともです!でも、お願いします!俺には……、俺にはこれしかないんです!」
膝を地面につけ、頭を土に擦り付ける。
絶対服従を表す、日本最高の表敬の姿勢。土下座を、見事なまでの体制で瞑鬼は完成させる。
人に頭を下げたのはいつぶりだろうか。思えば、高校に入って入学式で校長先生の寂しい荒野を見た時以来かもしれない。
いつも無理やり垂れさせられる頭は、苦痛以外の何者でも無かった。なぜ自分が何も思っていない相手に頭を下げなければならないのか。教師なんて、敬意を払う意味がない。
斜に構えていた自覚も、人に興味がなかったわけでもない。ただ、人と関わるのを避けただけなのに。
信じれば信じるほど、頼れば頼るほど、終わってしまった時が辛いだけだから。実の両親に裏切られたのだ。それよりも遥かに信頼度が低い、友人大人に、どうして信頼を預けられると思うだろうか。
元の世界だったならば、何もないまま瑞晴のことを見ていただろう。家が青果店を営んでいるのも、仕事が忙しいのも知らないまま卒業し、二度と会う事はなかった。
けれど、瞑鬼の道は変わった。初めはなんて事のない異世界だと思っていた。自分は勇者でも魔王でもなく、特殊な力も能力もなし。あるのは腐れ汚れた心と、淀んだ人生観のみ。
ゼロどころかマイナスからのスタートだった。
けれど、関羽と過ごし、瑞晴と出会い、変わることができた。時間にしてみればごく短い。この世界が過ごして来た時間からしたら、数えるにも値しない瞬間の一つなのだろう。
けれども、瞑鬼にとっては人生最大の時間だった。
だから、もう迷う必要はない。頼れるものも、信じられるものもできた。
これからは、進むだけだ。
以前の自分の考えも、淀んだ頭も、廃れきった思考も、全てを上書きして。
「俺を……、ここで働かせてください」
言葉に祈りを込め、正面に立つ親父さんに乗せ届ける。
親父さんはゆっくりと瑞晴の顔を見ると、やがて一つため息を吐く。
「ったく、最近のガキはよぉ」
「……」
「陽一郎だ」
「…………え?」
上擦った声が喉から漏れる。完全に油断していただけに、実に間抜けな声が出てしまった事だろう。
陽一郎の放った言葉が、瞑鬼の脳の中を反響し駆け回る。言葉は確かに耳に届いた。その上で理解もできた。
しかし、頭では理解していても体が追いつかない。いきなり名前を名乗られたのだ。その理由が瞑鬼にはわからない。
「顔を上げろ瞑鬼。店の前でそんな事されたら、客が入って来ねえだろうが」
頭上から陽一郎の声が降ってくる。その声には先ほどまでの威圧感は感じられない。片付けができない息子を叱るような、柔らかな口調。そんな話し方をされたのは、生まれてから何度目だっただろうか。
瞑鬼は顔を上げ、その場で立ち上がる。どうにも状況を理解できていない様子を見て呆れたのか、暫く放心する瞑鬼に、陽一郎が近寄る。
「ほら、食うか?腹減ってんだろ?」
そう言って陽一郎は、リンゴの入ったプレートを差し出した。綺麗にうさぎ状に切られたリンゴたち。こんなので喜ぶのは、恐らく幼稚園児までだろう。
だが、瞑鬼はそれを見た瞬間に、自分の頬を伝る一筋の涙に気づいた。無意識のうちに、堤防が決壊したのだ。
とめどなく溢れ出す涙を止める手段を、瞑鬼はまだ知らない。これが何なのかすら、よく分かっていない。
今までに、嬉しくて涙腺が切れることなどなかった。どんな感動的なことがあっても、全てが周りに汚されてきたのだから。
けれど、今は陽一郎の心が、気遣いが全てダイレクトに瞑鬼の全身を包んでいる。互いに不器用で、優しい言葉なんてかけられない。甘えることもできない。
けれども、確かに伝わったのだ。
「ありがとう……ございます」
自然と言葉が漏れる。考えなくても、自分の言いたいことが口から勝手に出て行くのだ。
見ると、瑞晴ももらい泣きでもしたのか、目に必死に涙を隠した跡がある。少し赤く腫れ上がった顔を、必死に瞑鬼の視界に入れまいと勤しんでいる。
異世界に来て、初めて人に触れた。最悪なのはどこでも一緒だと思っていた瞑鬼だったが、どうやら世界はそれほど捻くれているわけではないらしい。
差し出されたリンゴを一齧り。ほんのりとした酸味と、まろやかな甘みが瞑鬼の口を駆け回る。しかし、そんな中でも、とりわけ塩分が強かったらしい。塩っぽい味を楽しみ、瞑鬼はリンゴ一個を完食する。
「ま、なんだ、これからもよろしくな、瞑鬼」
「……はい。お願いします」
時刻は午後6時半。すでに夕日は月へと勤務交代の時間だ。商店街には街灯が灯されつつある。
移り行く時間の中、瞑鬼たちは時間の許す限り話し続けた。これまでの事を。これからの事を。