異世界校長、絶好調。
転校ってしてみたくない?
夏に向けて緑の葉を生い茂らせる木々。それに目一杯の栄養を注ぐかの如く、太陽も光を出しまくっている。ただでさえ暑いこさこの昼下がり、そんな事をされれば当然気温も上がる。
川を越えた。もうあと数分で着くことだろう。学校が近づくにつれ、瞑鬼の緊張も増してゆく。初めての編入生という体験に、頭の整理が追いついていないのだ。こういう時だけ、瞑鬼は転勤族な誰かのことを羨ましく思う。
本当に川を渡ったらすぐのようで、心の準備を完了する間も無く車は学校についた。ほんの何週間かしか経っていないのに、瞑鬼は校舎に懐かしさを覚える。いつも校門から通っていた日々。しかし青春のかけらも無かった日々。どれを思い出しても人には見せられそうにない。
来客用の駐車場から学校までの僅かな距離を、なるべく時間をかけて歩く。まだ授業中なので誰かに見られる事はないが、それでも万が一なんて考えが脳をよぎってしまう。
来客用のスリッパをだし、靴を無名の下足箱に。ぱたぱたと音を立て、二人して廊下を歩いてゆく。この鉄筋とコンクリートで出来たような校舎の匂いも、体育館から湧き上がる悲鳴のような歓声も、ここが学校であるという事を嫌という程主張している。
何週間か前までは、ここが人間養殖場の様に見えていたと言うのに、今の瞑鬼にはここがしっかりと学校として映っていた。己の心情の変化に、瞑鬼は思わず自分を疑ってしまう。
職員玄関のすぐそばにある、来客用の事務室。本来ならばここを通して学校へ入る筈なのに、陽一郎はそれを無視してみせる。面識でもあるのか、事務の先生に一度だけ挨拶をし、何の書類も書かないまま校長室へ。瞑鬼ですら入ったことがない、完全なる魔境である。
何度かノックをすると、中から渋い声で反応が返ってくる。校長はおじいさんらしい。全校集会で顔を見ていた筈なのに、何故かシルエットが思い浮かばない。そんなどうでもいい悩みが、瞑鬼を一瞬躊躇わせる。
「どうも校長。陽一郎です」
やはり陽一郎は校長と面識があるらしく、まるで上司の部屋へ入る会社員の様な口調で部屋の扉を開ける。瞬間、重たいコーヒーの匂いが瞑鬼の鼻を刺激する。
「おお、陽一郎。やっと来よったか」
「……えぇ。お久しぶりです。相変わらず歳の割には元気ですね」
「……くそ坊主が……。入って来て第一声がそれか?」
戸惑う瞑鬼をよそに、二人は二人の世界に浸ってしまっている。口々に互いをけなし合い、受けた側が一瞬で反撃を口にする。バチバチとした空気が見て取れた。
やがて校長が瞑鬼の存在に気づく。どうやら、最初は本気で瞑鬼など眼中になかったらしい。龍を忘れての行動は、いかにも大人らしいと言える。
大人しくなった校長に、応接用の椅子に腰掛ける事を勧められる。当然、陽一郎の様に反発はしない。言われるがままに瞑鬼は椅子に腰掛ける。教室で使っている安物の木の椅子とは違い、体が沈み込む様にフィットした。
初めて入った校長室は、異常なまでに重たい空気を孕んでいた。厳格と言うか、尊大というか。とにかく息が苦しいのだ。瞑鬼の中にある校長室のイメージとして、考え得るのは余程悪いことをした時に呼び出されるということ。それも、高校となれば生徒指導室を超えて校長室なんて、どうやったら入れるのか見当もつかない。
失礼のないよう、目だけを動かし部屋を見渡す瞑鬼。ここ最近は色々な他人の領域を見ていたせいか、やけに客観視することができた。
壁に添うように建てられたガラスケースの中には、溢れんばかりのトロフィーなどが収められている。そのどれもが余程年代物なのだろう、所々に錆が回っている。
その隣には、天道高校が甲子園に出場した時の写真が貼られていた。そう言えば、以前野球部顧問の体育教師が自慢げに話していた事がある。その時は野球に心を動かされなかった瞑鬼だが、やはり写真だけでも凄さは伝わってくるらしい。少しばかり目を開いて、その時の情景を頭に浮かべている。
「……君が、神前瞑鬼くんだね?」
何枚かの書類に目を落とした校長が、その皺だらけの口を動かした。
「……はい」
「陽一郎からの推薦って事で、まぁ普通はこの時期に編入は厳しいんだけど、特例として認めよう。私権限だから、教員に文句も言われないだろう。
「……ありがとうございます」
仕事を通じて、随分と瞑鬼は丸くなった。元のままの瞑鬼なら、こんな所で絶対に頭は下げなかった。全ての人間は自分を知らず、誰も自分を理解できないと思っていたからだ。
社会人としての成長も、人間としての成長も瞑鬼は望んじゃいなかった。ただ一心に、両親への怨みだけを込め、毎日を生きる。そんな思春期真っ盛りと言った感情も、本気度が増せばあながち高校生だからの一言で片付けられなくなる。規範を理解した上で、その守るべきものを考慮しない人間には、何を言っても無駄なのである。
きっと、出会ったばかりの陽一郎はそれを見抜いていたのだろう。危うさを持ち、放っておけば確実に問題を起こすであろう瞑鬼を、敢えて陽一郎は拾ったのである。変えるために、正すために。
「ただ……、こちらしても君の人となりを知っておきたいんだけど、いいかね?」
「瞑鬼はあれっすよ。ロリコンですよ、ロリコン。うちの小さい子を何時もふざけた目で見てます」
「お前にゃ聞いとらん。こっからはワシと瞑鬼の話だからな。おっさんはもういらん」
「……クソジジイ、元担任だからって、いつまでも人を子供扱いしやがって……」
どうやらこの二人は生徒と教師という関係だったらしい。卒業して何十年と経っているだろうに、それでも付き合いがあるということは、それなりに仲は良かったと考えられる。
いくつかの皮肉を部屋に撒き散らし、陽一郎は部屋を後にした。しかしそのどれもが校長にはダメージの一つも与えられず、虚しく瞑鬼の耳からも抜け落ちてゆく。こんな悲しい陽一郎の去り際を見るのは、金輪際いらないなと思う瞑鬼。
二人きりになった空間。流れるは果てのない緊張感。しかしそれは瞑鬼だけにだ。きっと、校長はこんなことなんとも思っちゃいない。その豊富な人生経験とやらで、瞑鬼と似たような生徒にも上手く対処してきたことだろう。
「……コーヒーでも飲むかね?」
校長がわざと威厳を醸し出すような口調で言った。本人も自身に威厳感が無いことを気にしているらしい。瞑鬼の目から見れば十分にオーラはでているのだが。
柏木夜一




