異世界訓練、汗だくです。
僕も始めようかな……。
うっすらと赤く輝く朝日を浴びて、神前瞑鬼は走っていた。隣を見れば大きめの川、さらに隣にはまばらに住宅が立ち並んでいる。いわゆる土手というところである。もうかれこれ二週間ばかり続けている、お気に入りのランニングコースだ。
太陽が出ているとは言え、今はもう夏のはじめ。それなのにまだ日が昇りきっていないと言うことは、相当に早い時間ということになる。そんなおじいちゃんばりの生活を、瞑鬼は二週間前から続けている。
理由は明白。健全なる肉体を作るためである。明美との戦いでわかった、自分の圧倒的な体力のなさ。それに、白兵戦の技術レベルにも大きな差があった。いくら相手が三十路過ぎの半ババアだからと言って、鍛えてもいない男子高校生が勝てるほど世界は甘くない。それが瞑鬼の導き出した回答だった。
実践的な訓練はほぼ不可能として、今やれることと言ったら、精々が足腰と体力の強化だけだろう。それでも、何もしないよりかはマシなはずだ。
息を上げて走る瞑鬼の横を、平然とした顔の関羽が通り過ぎてゆく。猫は毎日の散歩は必要ないと思っていた瞑鬼だったが、どうやらそれは間違いだったらしい。やはり外で走った方が気持ちがいいのか、毎朝睡眠時間を削ってまで瞑鬼には付き添っている。
仕事が始まるのは午前七時から。仕込みの時間を考えても、最低でも6時には戻らなければならない。それに、瞑鬼は住み込みバイトの未成年だ。仕事が終わってから外で運動も、あまり体裁が良くないことくらいはわかる。
従って、瞑鬼がトレーニングをできるのは5時前から6時前までの約一時間。その地味な自由時間を使って、瞑鬼は一人密かに訓練をしているのだ。
走っているうちに、土手の終わりが視界に入る。だいたい一周の距離は10キロ弱。普通の高校生ならば一時間以上はかかるだろうが、瞑鬼はそれを45分でやってのけていた。もちろん、初めのうちは一時間以上かかったが、毎日続ければ体力もつく。一応に成長しているらしい。
乱れる呼吸、焦る心臓。体からは大量の汗が溢れ出ている。
数呼吸おくと、瞑鬼は再び足を動かし始めた。これから家に帰るのである。いくら家が柑橘系の匂いで満たされていると言っても、あくまでそれは消臭剤に毛が生えたような効果しかない。若さ滲み出る高校生の汗の匂いを隠すのには、まだまだ香量が足りないのだ。
家に帰り、水のシャワーを浴びるというのが日課だ。瑞晴が起きてくる前に着替えなければ、また陽一郎から頭蓋骨ホールドなんて悪技を決められてしまうかもしれない。
うざったるく眩い陽に目を細め、瞑鬼は帰路を急ぐ。今ではもう見慣れた景色だが、少しばかり目を細めると夏がどんどんと近づいているのがわかる。桜並木だった通りはすっかり緑一色に染まり、ついこの間まで入学フェスタなんてやっていた商店街は、七夕色で浮ついている。
まだほとんどシャッターが開いてない商店街通りを駆け抜け、瞑鬼の帰る場所へ。桜青果店へ帰ってくる。当たり前だがこちらもシャッターは開いていない。従って瞑鬼は裏口へ。普通ならば入れないところから入る喜びも、今ではもう新鮮さなんて無くなっていた。
玄関先で関羽と戯れる瞑鬼。もう靴も随分と痛んでいた。
まだ家の中に人が起きている気配はない。五時を少し回った時間だと、学生はまだまだ寝ている時間なのだろう。事実瞑鬼もそうだった。
陽一郎がダイエット目的で買ったというジャージを洗濯かごへ。瑞晴曰く、使ったのを見たのは一度限りだそう。新品同様のそれは自分には勿体無い、なんて瞑鬼は考える。人からの好意を受け取るのには、まだ慣れてないらしい。
「……風呂でも入るか」
適当に関羽を見つめて言った。それに同調するように、関羽が軽く喉を鳴らす。甘ったるいその鳴き声は、喧嘩した時とは大違いである。
風呂のスイッチをオフの状態でシャワーを浴びる。冷たい水が熱された体には心地いい。サウナ風呂から水風呂へ飛び込んだ時のようなこの感覚が、密かに瞑鬼のお気に入りだった。
初めの五日間とは違い、この二週間はそれなりに濃度が薄い生活を瞑鬼は送っていた。毎朝朋花がなぜ起こさなかったと瞑鬼に憤り、それを見た陽一郎が笑う。瞑鬼が瑞晴の心からの笑顔を見たのも、ひょっとしたら最近が初めてかもしれない。
警察の捜査は難解を極め、残念ながら未だに犯人の痕跡すら分かっていない。情報提供がないと知るや否や、瞑鬼を捨てたのが完全な痛手だ。
何度か家に行って見たが、成果はゼロ。いつ行っても必ず誰かがいた。と言うよりは、どこかの部屋から人の気配がした。早朝だろうと深夜だろうと必ずどの部屋も電気がついている。もう潜入は不可能と見て間違いない。相手はあの義鬼である。二度も同じミスをする可能性は限りなく低いだろう。
朋花の保護権については、完全に陽一郎に保護者件が移ったらしい。親戚と呼べる親戚もいなく近くに該当者がいないのならば、残党な結果と言える。
シャワーが終わり居間で少し休憩していると、裏の方から車の音が聞こえてくる。エンジン音から察するに、大型トラックのご到着らしい。要件は言わずもがな、果物の仕入れである。
いつもは陽一郎が起きている時に来るのだが、今日は少しばかり急いで来てしまったようだ。
冷たい麦茶で喉を潤し、いざ裏口へ。そこにはいつも通り運転手兼、果樹園の社長である桜正宗が立っていた。顔に刻まれたいくつものシワたちが、毎日の苦労を忍ばせる。
陽一郎から聞いた話だと、元々は家族で果樹園を営んでいたのを、陽一郎が無理言って青果店も出したらしい。何でも、奥さんとの約束だったとか。
重たい段ボールを二人して店に運んでいると、陽一郎が家から出て来る。えらくご機嫌な夢を見ていたらしく、今朝は機嫌がいい。瞑鬼では一つ持つのがやっとの果物入り段ボールを、一気に三つばかり運んでいる。
朝からの重労働を終えると、せっかく流した汗がまたもや瞑鬼にこべりつく。しかしいちいち汗がついたから、と休んでいるようでは仕事になるはずもない。できるのは心を無にして暑さをシャットアウトすることだけだ。
仕込みを終えて開店の準備が完了すると、今度は朝食タイムとなる。眠たそうな目をこすりながらパンをかじる朋花を横目に、瞑鬼ももさもさとパンをちぎっては口へ放り投げてゆく。和室の中で洋食を食べるのも、今ではすっかり慣れた光景だ。
「なぁ、瞑鬼」
正面で麦茶を飲む陽一郎が、思い出したように瞑鬼に訊ねてくる。
「……はい?」
「お前……、学校行く気ないか?」
毎日走るって、結構すげぇな。




