異世界生活、本番です②
体感時間にして数分。実際には数秒程度経った後だろうか、中々瑞晴の足元から離れようとしない関羽を睨む瞑鬼。正当な飼い主よりも女子高校生に惹かれる浮気者を揶揄するような目だ。
しかし、そんな瞑鬼の視線とは裏腹に、関羽はすべすべであろう瑞晴の踝にほおを擦り付けている。可愛らしい高校生と猫がじゃれあっている姿は、側から見ても様になっている。
柔らかな毛並みと滑らかな脚。それだけでも見る価値があるというのに、加えて瑞晴のくすぐったいような笑顔。思わず瞑鬼は見惚れてしまう。
「あ、あの、なんかすいません。うちの猫が」
これ以上この光景を側から眺めているのは気まずいと思ったのか、愛想笑いを浮かべて瞑鬼が頭をかく。
「いえ、どちらかと言うと、これは私のせいでして……」
「え……?」
思わず間抜けな声が漏れる。
「私、動物に好かれるんですよ。魔法でそういうフェモロンがでてるらしくて……」
自分の体から魅了のフェモロンが出ていることを告げるのが恥ずかしかったのか、瑞晴のほおは赤く染まっている。とはいえ、初対面の瞑鬼に対し、そこまで踏み入った話をすると言うことは、既に警戒心が消えている証拠だろう。
「それより……、もしかして同じ学校の人ですか?」
そこまで言われて、瞑鬼はようやく今の自分の格好を思い出す。高校指定の体操服で全身をコーデネートした人間と出会ったのは初めてだったのだろう。瑞晴の顔は怪しい人を見る目付きになっている。
上半身を体操服、下半身を制服にすると言う常軌を逸した着こなしは避けられたが、こればっかりは瞑鬼にはどうすることもできない。財布に残っているのは極々わずか。リサイクルショップへ行っても布の切れ端程度しか買えないほどの金額だ。
痛いところを突かれた瞑鬼は瑞晴から目をそらし、
「あぁ……、いや、リサイクルショップに売ってたんで、買ってみたと言うか……」
「それで……、平日の昼間から着ていると」
無邪気な刃が瞑鬼の心臓に深々と突き刺さる。重症だ。この分なら次に復活するのは大分先の話になるだろう。
正直に生徒だと答えれば、名前を聞かれて後々面倒なことになる可能性がある。違うと答えればなぜ服を持っているかと言う話になり、最終的には学校に忍び込み女生徒の体操服を盗んだとしてご近所で有名になる。そんな悲観的な想像が瞑鬼の脳内を駆け回っていた。
異世界とは言え根本的な部分は同じ。となると、おばちゃんの噂話好きということもしっかりと反映されているに違いないと考えたのだ。
「これしか服がないんですよ……。その、僕遠くから一人で来たもんで。その上お金は途中で盗られて……」
考えに考えた末、瞑鬼は自分を遠くから来た人と称することにする。その方が何かと都合が良いのだろう。
まだ瑞晴の目は完全に瞑鬼を信用しているわけではないが、それでも、その目に残るのは警戒心寄りも面白い人間を見つけた時のそれに近い。
「……大変ですね」
「えぇ……」
「…………」
「……では」
腹が減ったと抗議する関羽を抱き抱え、瞑鬼は瑞晴から顔を逸らす。
自分と関わるとろくな事にならない。世界に嫌われるのは自分一人で十分だ。まるでそう言うように。
くるりと踵を返し、その場から去ろうとする瞑鬼。これ以上昔の友人を見ていると、自分が異世界に来たことを実感できないから。そう言い聞かせ、あたかも自分はこの世界の方を楽しんでいるように。
能力はない。財力も、権力も何もない。あるのはただ一つ。己の命だけ。そんな理不尽な異世界生活を営もうとする瞑鬼に、瑞晴は眩しすぎた。
この世界を心から綺麗な瞳で見つめ、希望が宿る瞳で瞑鬼を見つめ。魔王という存在がいるというにも関わらず、その光を翳らせることすらない。
そんな瑞晴の世界に対する認識は、瞑鬼のそれとは大いに違っていた。
「……あの」
しかしそんな瞑鬼の考えとは裏腹に、瑞晴は瑞晴の世界を見ている。
困っている人を放って置けない。みんなが助け合うのが世界なのだ。そんな人生観の元で育てられた瑞晴が、今まさに真っ黒に染まった人物を見たのだ。その後に取る行動は目に見えている。
「何か……、困ったことがあったら言ってください。なるべく、その、力になりたいと思います」
その声は、その表情は、瞑鬼がこれまで会ってきた人間のどれとも違っていた。
歩む足を止め、振り向かずに瑞晴の気配を背中で感じる。
「……関羽が懐いたみたいですから、またご縁があったら」
わかっている。甘えてはいけないと。
恐らく今の瞑鬼の事情を話せば、瑞晴は仕事の一つでも提供してくれるだろう。何せ、毎日毎日授業が終わると同時に家に帰って手伝いをしているのだ。人手が足りているとは思えない。
けれど、ここで頼ってしまえば、その後はずるずると瑞晴に頼りきってしまうだろう。何に対しても、この世界に関することは瑞晴の力がないと解決できなくなってしまう。
「まぁ、当分はここら辺にいるつもりですから、たまたま会うこともありますよ」
遺恨を残してはいけない。自分はこの世界で誰かに関わってはいけない。そんな考えで今まで瞑鬼なりに異世界を堪能しようとしていた。けれど、ここまできてしまっては、今更一人でなんでもなんて、欲張りなのかもしれない。
「……ムリ、してますよね?」
鋭く尖った言葉の刃が、瞑鬼の背中から胸までを貫ぬく。自分が息を呑んだ事が直感的にわかる。無意識のうちの行動だとしても、だ。
初めから、瑞晴にはお見通しだったのだ。それは本人の観察眼の鋭さによるものかもしれない。瞑鬼が顔に出していただけなのかもしれない。
「…………大丈夫ですよ。では」
迷いを断ち切って、瞑鬼が終わりへの一歩を踏み出そうとする。
その瞬間。
「ミャァァア!」
腕に抱えていた関羽が、目一杯の力を込めて瞑鬼の眉間に猫パンチをお見舞いする。肉球があるといえ、元野生動物の筋力だ。痛くないはずがない。
そして、オマケと言わんばかりに包んでいた瞑鬼の人差し指を、小さな口で噛む。甘噛みではなく、辛噛みといった方が正しいだろう。
「いった!」
咄嗟に瞑鬼は両腕を弾き、痛みが残る額を抑える。宙に放り出された関羽は、空中で体制を立て直し華麗に着地する。
そして、その足で瑞晴の足元に駆けつけ、お気に入りの踝に頬を擦り付ける。
睨む瞑鬼をよそに、関羽は素知らぬ顔で滑らかな瑞晴の足を堪能している。メスだとはいえ、人間だったら即逮捕の案件だ。
「か、関羽ちゃん?」
あまりに唐突な出来事に、瑞晴は戸惑いを隠せないでいた。当然だろう。目の前で自分の飼い猫にフラれた人間を見たのだ。しかも柔らかそうな猫パンチとセット。
瑞晴が自分に懐いた猫を邪険に扱うこともできずに、くすぐったい毛並みを堪能していると、いつの間にか瞑鬼が目の前まで迫っていた。
手を伸ばせば届きそうなほど。声の一つも聞き漏らさないほど。
「……あの」
瞑鬼だって、猫が自分のためにここまでやってくれたことを無駄にするつもりはない。鈍感だとか、自分に自信があるとか、そんな安い感情で事態が収束しないのなんてわかりきっていた。
恐らく、関羽自身瑞晴の家の方が良いと判断したのもあるだろう。しかし、それだけではない。それだけで飼い主を捨てて新しい主人のものに行くなど、大抵の生き物にはできない所業である。
「な、なんでしょう……」
瑞晴が聞き返す。消え入るような声も、今の二人の距離なら十分に聞き取れる。
「その、バイトとか、募集してるとこ知らないですか?僕、金なし宿無しなんで」
精一杯の勇気を振り絞り、何とかその言葉を紡ぎ出す。人に頼ることも、誰かに助けれくれと願う事も、瞑鬼にとっては初めての経験である。
そんな瞑鬼の精一杯の勇気を汲み取ったのか、瑞晴は柔らかな笑みを浮かべると、
「ありますよ」
と優しく微笑んだ。