異世界自宅、脱出です。
さて、見つかってしまったのか?
「……こっちかしら……」
そう言って明美が椅子を引く音が瞑鬼の鼓膜を刺激する。まさか魔女の鼻がここまで高性能だとは、完全に瞑鬼の予想外である。
フローリングの床を踏み、一歩一歩と近づいてくる明美の気配を肌が感じ取る。ねっとりとして肌にまとわりつくような緊張感は、瞑鬼だけが知る魔女の纏う空気だ。
音は抑えた。呼吸だって、心臓の音だって最小限だったはずだ。それなのに、明美は瞑鬼の存在に気づいた。
しかし、隠れようにも瞑鬼の目の前には壁が一枚あるだけ。その向こう側は普通のトイレがある。
階段横の通路から出口に向かうには時間が足りなさすぎる。音を出してもダメ、かと言ってゆっくり行くのもダメとなれば、瞑鬼に残された手段は限りなく乏しくなる。
唯一助かる方法としては、明美が玄関へ行くことくらいだろう。神前家のドアは全面雲ガラスが貼ってあるので、外からではいまいち向こう側に何があるかはわからない。
更に、リビングから玄関に行くとなると、階段側の扉ではなくその二つ隣にある扉を開かなければならないのだ。トイレによって階段と玄関が分離されていたのが、瞑鬼最大の幸運と言えるだろう。
ここに来て、瞑鬼が弄した作戦がやっと目を吹き始めた。
魔法回路を開き、手をマイクを握る形に。そしてそのまま口元へと持ってゆき、極小の声を絞り出す。
「…………関羽」
瞑鬼第二の、人に声を届ける魔法である。
これで打てる策は全て打った。もし仮にダメだったとしたら、そこは大人しく自分がガキだったという事を認めざるを得ないだろう。完全敗北してまで文句を垂れていては、おそらくこの先生き残れない。
明美が残り二歩ほどのところまで近づいている。もう手を伸ばされたらゲームオーバーだ。せっかく明るい色になりつつあったかもしれない瞑鬼の人生も、また真っ暗で歪んだ世界に逆戻りである。
しかし、ここまで来たらもう瞑鬼には祈ることしかできなかった。
大して信じてもいない神様、どうせ呼んでも来ないだろう仏様、頼むから来てくれ関羽様。
明美の手が伸び、瞑鬼が死の覚悟をした瞬間だった。
家中に軽快な音楽が鳴り響き、明美が動きを止める。
その瞬間、瞑鬼の顔からは思わず笑みが溢れていた。初めて勝った。この異世界での勝負に。
明美が音がした方を見る。当然だ。その音は、この家の住人ならば鳴った瞬間だけ動きが止まるはずの音なのだから。
二度目のインターホンが鳴る。続いて三度目。完全に早押し連打をしている音である。
普段ならばこんな事をされたら半ギレの状態で対応する瞑鬼だが、この時ばかりがこのうざったい軽快な音楽が天からの啓示に聞こえてしまった。
「……あら、あっちだったのね」
わざわざ隠れ潜む瞑鬼にも聞こえるようなボリュームでそう言い残し、明美の気配が去って行く。どうやら玄関で関羽とご対面に行くらしい。
もたもたしていると明美が戻ってくる。そうなったら全ての意味がなくなってしまう。ほっと胸をなでおろし、瞑鬼は急いで家の外へと脱出する。
靴を外に投げ捨て、取り敢えず扉から離れる瞑鬼。音もなく閉めれたかは怪しいが、明美が見ていなければ問題はないだろう。
辺りを見渡し、誰の姿もない事を確認。しっかりと靴紐をしめ、目の前の塀をよじ登る。もうやっていることは完全に犯罪者だが、まさか玄関から出るわけにも行くまい。
「……さんきゅー関羽。助かった」
塀を飛び降り、誰もいない道路に身を置いた。そして玄関で明美の注意を引きつけてくれているであろう関羽に、感謝の言葉を送っておく。魔法を使ってきちんと耳元まで声を届けたのは、最大限の瞑鬼の感謝の意を表すためである。
もう一度自分の家を仰ぎ見て、完全に未練を断ち切る瞑鬼。もうこの家に来ることはないだろう。次に来る時は、義鬼と決着をつける時だ。
事前に打ち合わせしていた合流地点に行き、関羽の帰りを待つ。これから警察署へ行くというのに、すでにシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。過剰な緊張と興奮によって、汗腺がバカになってしまっている。
瞑鬼の頭の中では色々な言葉が飛び交っていた。初めて聞いた言葉の数々が、難解なパズルゲームのように謎を呼び合っているのである。
明美が魔女であることはこれで証明された。義鬼にしても、何らかの組織に属しているのは明らかだ。まさか大の大人が一人であんな遊びをしているなんてことは無いだろう。
水分を奪う日差しを浴びながら、足りない頭を振り絞る。公園のベンチに座っているだけなのに、いやに体力を奪われる。
「…………遅いな」
瞑鬼の脱出が成功してからすでに15分。家からここまでは、普通の高校生の歩くスピードなら五分そこらで着ける距離だ。しかし、未だどこにも人の影はない。
猫に戻って来るとも考えた瞑鬼だったが、段ボールを抱えている以上その可能性は限りなく低いだろう。
まさか明美にバレたのか。そんな不安が瞑鬼の頭をよぎる。
相手はあの理不尽魔女ババアだ。別の生き物が人間に変身していることがバレたら、興味津々に研究対象として捕まえられるかもしれない。その上関羽には瞑鬼のような死んでも生き返る能力はないだろう。そうなってしまったら最悪だ。
居ても立っても居られなくなった瞑鬼。焦る鼓動を気合いで押さえ込み、その重い腰を上げる。
しかしその直後、何者かに背後から手を回される。よく待ち合わせの恋人がやるような、目隠しの状態になった。
「……関羽か?」
「にゃあ」
人の姿でにゃあなどと鳴いてしまう関羽。まさか明美の前では喋ってはいないだろうが、そのことが瞑鬼の頭をより一層心配させる。
成人男性に背後から抱きつかれても、残念ながら瞑鬼は嬉しさというものを感じられない。そもそもこのクソ暑い炎天下の下、背中から手を回して来ること自体が関羽の犯した間違いだったのだ。
しかし、命令したのは自分という体裁上邪険にするわけにもいかない。大人しくそっと手を握り、丁重に顔から離していただく。
「…………無事で何よりだ」
無事脱出した瞑鬼くん。手に入れた情報をどうするのか見ものですね。




