異世界生活、始めたいです①
柔らかい何かが顔に当たっている。少しむず痒い感じがするのは、おそらくそれが動物の体毛だからだろう。
ふっと毛玉が顔から離れる。その次に襲ってきたのは、湿って動く何かだ。少し生臭い。普段は魚が主食なのだろう。頬の辺りが温もりを帯びてきている。
しきりに顔を舐めるそれをいい加減鬱陶しく思った神前瞑鬼は、腕を動かし湿った何かを払いのける。
「…………ん?」
そのままゆっくりと目を開ける。どうやらもう夜は開けたようだ。照り輝く太陽が、迷惑にも関わらず嬉々として光を振りまいている。
「……は?」
そのまま瞑鬼はゆっくりと体を起こす。そして、思わず間抜けな声が漏れてしまう。当然だろう。昨日の晩に、確かに自分は死を確信したのだから。
それなのに、また今日も朝がやってきた。わけがわからない。
恐る恐る胸の辺りを撫でると、そこにはいつも通りの厚くも薄くもない胸板があった。傷はおろか、火傷のあとさえついていない。
「……なんで……?」
確かに昨日の晩に、実の父親から炎の球をぶつけられたはず。それは間違いない。思い出すと、今でもあの熱さが脳裏をよぎるのだ。それなのに、全く痕跡がない。
しかし、痕跡がないのはあくまで怪我をした痕跡がないというだけで、昨日の晩の出来事が本当だという証拠はある。
瞑鬼が来ている服の胸の辺りにポッカリ空いた焦げたような跡。前と後ろの一部がなくなっている事が、何よりの証拠である。つまり、1日も経たずに瞑鬼の怪我が治った事になる。現実的に考えてあるわけがない。
現実的でないならば、一体何なのか。考えるまでもなく瞑鬼は一つの答えを頭に思い浮かべていた。
「もしかして……」
ゆっくりとベンチから腰を上げ、公園の外に出て町を確認する。
その瞬間に瞑鬼の目に飛び込んできたのは、いつも夢で思い描いていた一つの景色だった。
「……異世界だ」
目を見開く瞑鬼の視界に飛び込んできた世界は、おおよそ昨日までの世界とは似ても似つかないものだ。
ある人は鞄を持って空を飛び、またある人は火を吐いてゴミを燃やす。
そんな絵空事のような世界が、一瞬にして洪水のように瞑鬼の頭に流れ込む。
「すげぇ……」
恐らく、昨日から既に異世界にはいたのだろう。夜も遅く、誰も外出してなかったので、気づかなかったのだ。
それに、ここは異世界というよりからパラレルワールドのような所らしい。昨日の父親の件や、町の作りがそっくりな点から見て、間違いないだろう。
「川で溺れた時からか?」
感動のあまりに、瞑鬼は自然と猫に話しかけていた。返答してくれるのでは、という淡い幻想を抱いたからだろう。
しかし、帰ってきたのは喉を鳴らした甘い声。そうそう世界は甘くないらしい。
「しかし、俺は一体この世界でどういう立ち位置なんだ……?」
思えば、異世界に来た時に何かを誰かから言われた覚えも、女神様から転生を促された記憶も、瞑鬼にはない。ただ溺れただけで、何の説明もなしに送られたのだ。
考えても仕方ないと察したのか、瞑鬼は一度公園の水飲み場で顔を洗い、焦げて使い物にならなくなった服で顔を拭く。流石にこの服で今から町を歩くのは躊躇われるのだろう。
幸いなことに、鞄には昨日の体育の授業で使った体操服がはいっていた。そんなに汗をかかない体質なので、二、三日なら問題ないだろう。
全く世界のことがわからないので、情報を収集すべく瞑鬼は公園を後にする。
上半身が体操服で、下半身が制服といった随分とおかしな格好だが、どうやら朝はみんなそれどころではないらしい。魔法があってもなくても、サラリーマンは電車へ急いでいる。
まず町を一回り。なるべく不自然さが出ないように歩いて回る。
やはり先程の瞑鬼の見立て通り、ここは元いた世界のパラレルワールドらしい。店やビルの若干の立地の違いはあれども、街並み自体はそれほど変わりない。
見た所、科学の発展に関しても特に変化は見られない。車も電車も走っているし、電気も電波も通っている。携帯電話も使えるようだ。
「メールは……、流石にできないか」
一応適当なクラスメイトにメールを出してみるも、送信されずにそのまま瞑鬼の携帯に戻ってくる。しかし、アドレスや番号のつけ方が違うという事はあれども、インターネットには普通につながったのだ。
次に行うのは、通貨の確認だ。まだこの世界に来てから一度も金を使っていないので、どんな貨幣が流通しているかを知るに越したことはないだろう。コンビニに入り、さり気無くお会計中のレジに目をやる。流通しているのは瞑鬼がもっている日本のお金だ。
「金は使えるか」
しかし、使えるといっても瞑鬼がもっているのは五百円程。価値が同じならいつ使っても一緒だと判断したのか、それともただ単に空腹が限界を迎えたのか、瞑鬼は適当なパンと牛乳を購入する。
コンビニの前で仲良く猫と朝食。ここだけを切り取ったら、家出少年と間違われても文句は言えないだろう。
なけなしの小銭が腹の中へ消えてしまったので、当分まともな食事には有り付けそうにない。
満たされない腹を抑えたまま、二人は図書館へと向かう。とにかく今は情報がいる。この世界に順応できないようでは、またいつ死ぬかわからない。
町を歩いていると、これから登校なのかやけに学生が駅の方へと歩くのが目についた。そんな彼らからしたら、駅とは真逆の方向へと向かう瞑鬼は、さぞ不思議な人に見えただろう。
暫く歩くと、目的地の図書館が姿を現した。その現代風な鉄筋とコンクリートの建物に、躊躇いもなく瞑鬼は足を踏み入れる。
まず向かったのは現代社会の棚。先ほどから見ている魔法についても、この世界のルールも、瞑鬼にらわからないからだ。
何冊かの本を読み、備え付けの新聞を読む。朝早くだったせいか、殆ど人がいなかったのは幸運だと言えるだろう。
読み進めるうちに、瞑鬼は段々と世界の現状を理解し始めていた。この世界は、昔から魔法と科学が発展していたということ。魔法は定例として一人一つの能力だということ。そして、魔法を悪用した結果、魔王と呼ばれるに至った存在さえいるらしいということ。
瞑鬼の世界でいう、アメリカあたりの地域は魔王の支配下だそうな。そして、戦争がやまないとか、国の歴史だとか、この国の宗教だとかを、午前を使って瞑鬼は調べ尽くした。時間ならある。
「全然変わんねぇじゃん」
結論はそれだった。確かに、瞑鬼のいた世界と何が違うのかと言われたら、魔法があるという事くらいだ。その他は歴史を振り返っても、魔法史というものが追加されたくらいで、特に代わりは見受けられない。せいぜい偉人が魔法を使用したという記録が書き足されている程度である。
お昼になったので、瞑鬼は一旦外へ出て猫と水分を取るために公園へと戻る。
「じゃあ……、俺は何のために?」
率直な疑問が口から漏れる。この世界は曲がりなりにも均衡を保っているのだ。魔王がいると言っても、常に世界征服を狙っているわけではないらしいし、何よりこの町にはそんなの影も形も見当たらない。
遠い世界で起こっている戦争を解決するために呼ばれたにしては、神前瞑鬼という人間はあまりにも不釣り合いだ。自他共にできないと認めるに違いない。それなのに、なぜか瞑鬼はこの世界に呼ばれた。
その点だけが、今の瞑鬼を悩ませていた。
「まぁ……、別にどっちでも変わんないか」
頭の中でこれまでの生活を思い返す。特にこれといって何かをした覚えも、何かに向かって努力した経験もない。普通の高校生活を送るなら、魔法が有ろうが無かろうが、そんなに違いはないのだろう。
瞑鬼の足元で猫が喉を鳴らす。甘えたようなその声は、もう瞑鬼を完全に家族と認めた証なのだろう。
首元を掴んで胸に抱き寄せる。生えそろった毛が肌を刺激して思わずむず痒くなってしまう。しかし、その奥からはほのかな温かみを感じる。瞑鬼が久しく忘れていた、生き物の暖かさである。
「一応確認しとくか」
猫に一言断りを入れると、瞑鬼は通っていた学校の方へと足を向ける。本当に自分の籍が無いのかを確かめるためである。
確率は限りなく低いだろう。実の父親にだって存在していない認定をくらったのだ。寧ろ学校に籍が残っていた方が不気味である。だが、確認しないと気が収まらなかったのも事実。
陽の当たる通学路を、額に汗を浮かべながら足早に歩く。徒歩で行ける距離の学校にしておいて良かったと、瞑鬼は初めて自分の通っている高校を選んだことを肯定的に捉える。
二人が学校に着いた頃には、すっかり午後の授業は始まってしまっていた。窓の外からでもわかる。窓際の生徒が虚ろな目で黒板を眺めている。
グラウンドでは、瞑鬼のいたクラスが体育を行っていた。当然その中に瞑鬼の姿は無い。ひょっとしたら、ドッペルゲンガーの様にもう一人自分がいるかもと考えていた瞑鬼だったが、どうやら杞憂に終わった様だ。
見つからない様に、物陰でそっと上下を体操服で揃える。
外で授業をしているクラスがあるという事は、玄関の鍵は開いているだろう。
二人はまるで自分の家の庭でも歩く様に、堂々と玄関へ向かう。一応服装はこの学校指定の体操服なのだ。万が一先生に見つかったとしても、保健室へ行くという言い訳ができる。
下足箱を確認。瞑鬼が使っていた番号は、ひとつ後ろの番号のやつが使っている様だ。
靴を脱ぎ、誰も使っていない番号の中に隠す。それから来客用のスリッパを拝借し、なるべく音を立て無い様に校舎を歩く。残念な事に、猫を持って入る勇気はなかったらしい。
巡回している職員に気を払いつつ、目的の瞑鬼のいたクラスの前までなんとか誰にもばれずに辿り着く。やはり、見た目に大した変化はない。机の数が変わっているとか、名簿に空欄があるとかの、神前瞑鬼という人間が消えた痕跡すらない。
これで完全に可能性は否定された。ひょっとしたら自分が二人いるのではないかという考えは、平行世界の狭間へと消えてしまう。
「まぁ……、そうだよな」
何かを納得した様に、瞑鬼は誰もいない教室で一人呟く。
ふと時計を見上げると、いつの間にか5時間目の残り時間が、あと10分というところまで迫っていた。外での体育なのだから、終わってすぐに生徒が帰ってくる事はないだろうが、万が一見られでもしたら厄介だろう。
名残惜しさを感じながらも、瞑鬼は学校を後にする。時間にして凡そ20分と言ったところか。平日に学校にいる時間では最短と言えるだろう。
猫と合流し、今度は少し街の中へ入ったところにあるショッピングモールに向かう。なにしろ、現在の所持金では、美味なる棒を数本買うのが精々なのだ。二つの命を預かる者として、アルバイトをするのは当然と言えるだろう。
「あっちい……」
無念にも無残にも地球に光を撒き散らす太陽を、これ以上ないくらい恨めしい目で睨みつける。しかし、そんな事をしたところで、はいそうですかと引っ込んでくれる太陽ではない。瞑鬼の怨念を受け取ったからなのか、より一層その身を照り輝かせる。
体から吹き出る汗を無視して足早に目的地へと向かっていると、いつも以上に早く着く事ができた。
暑いなどと文句を垂れている場合ではない。なにしろ、ここから瞑鬼は戸籍も資格もない所から職を探し出さなければならないのだ。
こういうのは異世界に来たら免除させるのではないか。普通は冒険者とか、勇者として異世界に転生し、強力な魔法とやらで魔王を倒すのではないか。
長年培ってきた本という名の友達が瞑鬼に吹き込んだ情報の大半は、どうやら事実とは反してていたらしい。
いつも通りの店内で、従業員募集のチラシを見て回るも、残念な事に倫理観はしっかりしているらしい。面接の際には履歴書がいると書かれていた。
どこまでいっても元の世界と変わらない異世界に絶望の色を隠しきれない瞑鬼。それもそうだろう。何しろ、一番初めのキッカケすら掴めないのだ。
「どうすんだよ……」
悲壮な瞑鬼の呟きが、店内の雑踏に呑み込まれる。