異世界事変、怨恨です
気づいたらこの時間。待っててくれた皆さんに申し訳ない。
「……そうねぇ。別にこの二人には用なかったしぃ。私のペットもお腹空いてたっぽいしぃ」
その言葉が空気を伝わり、瞑鬼の耳に届いた瞬間、瞑鬼の足はエネルギーを爆発させていた。
掛け声も、叫び声もあげずに、ただ一筋の殺意と化し明美を襲う。
右手の刃が心臓にさえ刺されば、瞑鬼の勝ちは確信的だ。何しろ相手は生身の人間。百獣の王を直前に相手取った瞑鬼にとって、最早相手になるはずがない。
あと一歩。たった一歩だけ踏み込めれば、全ての怒りと怨みと仇を込めて、長年憎み続けてきた奴を殺すことができる。
しかし、瞑鬼が見たのは、地面に横たわる明美の姿などではなかった。
宙を舞い、どちゃっという汚らしい音とともに床に落ちる腕。瞑鬼の目は、それを見ていた。
直後、灼けるような痛みが瞑鬼を襲う。
見ると、瞑鬼の右腕は既にあるはずのところに無かった。あるのは、尺骨が半分ほど残された、先のない細い腕のあまりだけ。
片腕を失い、バランス感覚が狂う。そして、そのまま速度を緩めることなく瞑鬼の体は壁に激突する。
「……っ!づぁぁあ!」
フローリングのひんやりとした感触を右頬に受けながら、瞑鬼は眼前で高らかに微笑む明美を睨む。もちろんそれに意味なんてない。当の明美本人は、何食わぬ顔で瞑鬼を見下ろしていた。
それはまるで、小汚い虫を見るかのような目だった。
「あらぁ?魔獣を倒したからそこそこかなって思ったけど……、期待はずれぇ」
いつもの様にねっとりとした口調で語る明美。瞑鬼はこの喋り方が心の底から嫌いだった。今すぐ口を縫い付けろと、何度もなんども思っていた。
元の世界で、両親が離婚した直後のこと。小針明美を名乗る一人の女が、神前家にやってきた。
それを見た瞑鬼は、高校一年生ながらにしてわかった。これが、世間でいう愛人なのだ、と。
初めはそれこそ、二人して何かと瞑鬼に絡んできていた。やれ一緒に飲むかだの、やれお前は彼女がいないのかだの。
当初は、本当にそれだけだった。ただ家に来て、瞑鬼の大嫌いな親父と話をし、酒を交わして時間を削り取ってくれる。子供ながらに父親に期待してなかった瞑鬼にとっては、面倒臭い奴の相手をしなくてラッキーとすら思っていたのだ。
けれど、結局はその女も親父と同じ。瞑鬼にとって敵だった。
瞑鬼が読んでいた物語の世界なら、義母というのは随分と夢が詰まっていた様に思える。
源氏物語を筆頭に、古今東西様々な本が義理という関係性に可能性を見出していた。
しかし、それらは全て、神前瞑鬼という人間においてはまやかしだったのだ。
「…………っこの、クソババア……」
なんとか声を振り絞り、精一杯の皮肉を込めて言葉を紡ぐ。しかし、返ってくるのは冷ややかな目と少し喉を鳴らしたような、小さな笑い声だけ。
痛みが限界を振り切りそうになった所で、瞑鬼は図書館で読んだ本の内容を思い出していた。
その本は、魔法回路と人体について書かれていたもの。曰く、魔法回路は人間の身体全体にくまなく張り巡らされており、毛穴を開くようにそれを開くと、内在している魔力が溢れるのだそう。
そして、その魔力とは、大地を流れるエネルギーのようなものらしい。その影響からか、魔法回路を開いた時には、大地のエネルギーとやらが全身を駆け巡り、細かい傷なら治してしまうのだとか。
間一髪で奇跡的で奇跡的な道を見つけた瞑鬼。当然、痛みを振り払うために魔法回路を開く。
すると、今まで瞑鬼を襲っていた、脳が灼き切れるような痛みが、脳が大火傷程度の痛みへと軽減される。
「……立てるの?中々根性あるじゃない」
認めてもらった所で、誰が嬉しむものだろうか。少なくとも、瞑鬼はその言葉を挑発としてしか受け取らない。
「……てめぇ、さっき魔獣とか言ってたな……」
溢れ出る血液を目の端から眺め、瞑鬼は何とか立ち上がる。いくら魔力を右腕に重点的に回しているとは言え、流石に腕一本の回復は容易ではない。
震える頭で明美の言葉を思い返し、疑問だけを抽出。そして、恐らく忙しいであろう相手の意思など気にせずに、会話のボールを投げつける。
今まで何回もやってきた問答法の中で、瞑鬼が見つけた最適解である。
さてさてさて。少しばかり佳境に入ってきましたね。果たして瞑鬼くんは無事この局面を乗り切れるのでしょうか。




