異世界事変、終了です?
渾身の力を込め、その力の全てを刃先に集めて解き放つ。
瞬間、ズン、と言う感触が瞑鬼を襲った。
包丁から手を離す。けれど、それは重力に従って床には落ちなかった。刺さったのは脳天。綺麗に中心を穿つように、深々と突き立てられている。
今度こそ心の底から死にそうな声をあげるライオン。当然だ。何しろ、今現在死へ向かって一直線に進んでいるのだから。
刃がほとんど埋まった刃物というのは、案外案外手無しでとるのは厳しいらしい。いくら頭を振り回した所で、一向に抜ける気配などなかった。
けれど、ライオンは一瞬で絶命などしなかった。少なくとも、脳を貫かれても数秒間は動けるような体の仕組みをしているらしい。
きっと、武器が銃なら話は別だったのだろう。けれど、残念なことに瞑鬼にそんな物騒なものを手に入れる手段はない。精々、改造したエアガンが丁度いいくらいだ。
グルル、と、低い声をあげながらライオンは進む。額からは大量の鮮血がこぼれ落ちている。血流が早いのか、一歩動くたびに3回ほど、血が噴き出す。
けれども、ライオンは動きを止めない。目の前にいる小さな敵を殺すため。
それが、百獣の王としてのプライドからなのかはわからない。けれども、確かにライオンは瞑鬼に一歩ずつ歩み寄る。
対する瞑鬼は、完全に腰が抜けていた。全ての力を振り絞ったからなのか、単に恐怖からなのか。それでも、瞑鬼は生きることをやめない。
迫り来るライオンから距離を置くため、無様にも床を這う。未だ痺れの残る手を無理やり動かし、何とかして生きようともがき苦しんでいる。
瞑鬼のすぐ側に、ライオンの顔が迫る。力無い今のライオンでも、あと数十センチ牙を動かせば、最悪のお土産を置いていけるだろう。
覚悟を決める瞑鬼。ここまで頑張ったのだ。今死んだ所で、お前のせいでと罵る人間はいないはずだ。
目を瞑る。生きることを諦めたのではなく、死を受け入れることを選んだように。
しかし、予想していた痛みが瞑鬼を襲うことはなかった。恐る恐る目を開ける瞑鬼の網膜が見たのは、自分の目の前で立ち尽くすライオンの姿だった。
動くことはない。よく出来た剥製のように、完全に制止した状態で立っている。
頭からはおおよそこんなにも詰まっていたのかと、驚きの声をあげたるなるほどの血が溢れていた。見ると、歩いた歩数の数だけ血だまりが出来ている。
つまり、このライオンは、立ったまま絶命したのだ。最後まで諦めることなく、敵を少しでも殺すために。
そして、そんな二人の戦いで、瞑鬼は勝った。
「…………終わった……んだよな」
まだ現実を受け止めきれない瞑鬼。しかし、手に残る感触が、確かに自分は相手を殺したのだと言う実感を与える。
真っ先に、生き残ったのだと言う事を瞑鬼は確信する。絶体絶命といってもいい状況から、自分は生き残ったのだという高揚感もあった。
けれど、それらは全て、犠牲の上に成り立っているだと言うこともわかっていた。正面を見れば猛々しい死体。少し目をそらせば、今度は無残な死の結果が瞑鬼の目を覆う。
そこまで来て、ようやく瞑鬼は自分の身体を気遣う事を思い出す。擦り傷多数、打撲が二箇所ほど。右腕に至っては、未だ血を垂れ流している状態だ。
そんな中、一番初めに瞑鬼を襲ったのは、強烈なまでに込み上げてくる吐き気だった。血の臭いに触れすぎたのか、それとも自分が殺したと言う罪悪感からなのか。とにかく、今の瞑鬼は腹の底から全てが逆流してくるかの如き嘔吐感と、セカンドファイトを繰り広げている。
笑う膝を気合いで奮い立たせ、やっとのことで立ち上がる。何かに掴まってないとロクに立てない様は、朋花に見られたらさぞからかわれる事だろう。
朋花のやつ、ちゃんと家に着いたか?普通に走れば多分そろそろ到着する頃だし……。
口に出そうとした言葉も、その吐き気によって押し戻される。
今ここで中身をぶちまけるのはまずいと思ったのか、何とか瞑鬼は頭をシンクまで持っていく。そして、そこが限界だった。
勢いよく今日の昼ご飯をリバース。それも、疲れやストレスの際にだすような、吐ききったら終わりという縛りもなしに。
頭が限界だと思うまで嘔吐を繰り返す。瞑鬼が落ち着いたのは、五度目ほど返した後だった。
既に体から大量の水分が奪われた事だろう。もう口の中がいろんな味を感じすぎて、完全にバカになってしまっている。
「……ハァ……ふぅ」
呼吸を整え、そのまま腰を下ろす。今更死体がどうのは気にしていられない。何しろ、今は体力の上限ギリギリまでを放出した状態なのだ。
ここから更に警察へ行き、警官を呼んで事情聴取などできるはずもない。瞑鬼の体力は、平均に少し味を加えた程度しかないのだから。
治る事を知らない心臓の鼓動を感じ、瞑鬼は涙を流していた。怖くもないし、ましてや喜びからのものでもない。ただ、陽一郎の言葉だけが、瞑鬼の脳内で反響されていた。
生き残った。戦って、勝って、自分は生きているのだ。その感心ともいえない感情が、瞑鬼の頭を渦巻いている。
思い返せば、瞑鬼が本気で戦いというものをしたのは、恐らくこれが3回目だった。
1回目は中学生の頃。当時の瞑鬼は、まだ今ほどは汚れていなかった。精々少し両親の仲が悪いだけの、普通の家庭の子。
瞑鬼自身もそう思っていた程だ。そして、そんな普通の代名詞である瞑鬼が、先に期待する事を諦めた人間になったのは、正にこれが原点と言える。
一度目の本気の闘争。それは実の父親である神前義鬼との諍いだった。今ほど冷静かつ狡猾ではなかった義鬼からの、一発の鉄拳がキッカケだった。
やれ瞑鬼の目が気に入らないだの、部屋が汚れているだのの謎理論で、事あるごとに瞑鬼に理不尽な拳骨を与えてきた義鬼だったが、その日ばかりはいささか理不尽さの度合いがおかしかった。
まず初めに、瞑鬼の携帯を勝手に奪い、勝手にメールをチェック。それだけなら瞑鬼も手を出すことはなかったのだが、その後に瞑鬼の友達の連絡先を、義鬼が勝手に自分の携帯に登録したのが戦争開始の合図だった。
返せよと瞑鬼が怒鳴ると、やかましいと拳を一つ。流石の瞑鬼も堪忍袋の限界だったようで、そのあとは2人で殴り合ったのだ。何度も何度も義鬼を殴り、その倍ほど瞑鬼は殴られた。
何てことはない。中学生が大人に勝てるはずがなかったのだ。
そして、一度目の本気の喧嘩は瞑鬼の惨敗。
人生二度目の本気の戦いは、その後の同級生との殴り合いだ。理由は至極簡単。不良たちからによる過度のイジメである。
名前が変だとからかわれ、無視をすれば殴られる。物を壊される。そして、そんなことが続けば当然、瞑鬼の周りには誰も近寄らなくなる。
元から少なかった友達を更に減らし、挙げ句の果てには金銭までをせびられる。
そこが我慢の限界だったのだろう。ある日不良たちに呼び出された瞑鬼は、開口一番に目の前にいるリーダー格の男を殴りつけたのだ。勿論、手加減など一切しない。
いくら中学生の筋力だとはいえ、相手だって中学生の耐久力なのだ。思い切り殴れば、案外喧嘩慣れしてない人間の拳でも骨の一本は折れる。ましてや、瞑鬼は父親と頻繁に喧嘩をしていたのだ。不良たちほどではないが、人を殴ったことがないなどという御坊ちゃま気質でもない。
幸いなことに、開幕の一撃でリーダーは倒れた。後から聞いた話だが、鼻の骨が折れていたそうだ。ボコボコにされた瞑鬼としては、最大級の戦績と言えるだろう。
そして、中学時代は終わり、やってきた高校生活は実に穏やかなものになった。
まさか本気を出すというのが、此れほどまでに体力を消費するとは、当の瞑鬼本人も驚きである。
「……警察、呼んでくれたかな……?」
朋花のことを思い返し、一人呟く瞑鬼。




