異世界事変、ジャッジメント!
ライオンは助走をつけ、勢いよくキッチンの台を飛び越える。
瞑鬼の隣には死体。下には逃げるスペースなどなく、当然上からはライオンが降ってくる。状況は絶望的だ。これなら、まだ出会った当初の方が逃げ延びる可能性もあっただろう。
こうなっては、瞑鬼にはどうすることもできない。けれど、不思議と時間だけはゆっくりとしていた。走馬灯とやらを見る時間はあるだろう。
一瞬にして、全細胞が内に眠る記憶を呼び覚ます。でも出てくるのは嫌な思い出ばかり。
親父に殴られたとか、親父の愛人に酒を頭からかけられたとか。神前瞑鬼という人間を作る全ては黒だった。
こんな命で、他の何人かが救えるのならばそれでいい。
これが瞑鬼の抱く真実だ。けれど、厳しすぎる異世界は、時として最低な苦行を瞑鬼に強いてくる。
ーーお前たちが無事なら、それでいい。ーー
陽一郎の言葉が、瞑鬼の頭を光速でよぎる。
お前たちが無事なら?瑞晴だけでなく、たち?つまり、陽一郎にとっては、瞑鬼も一員として数えられているのだろうか。
瞑鬼が死んでも、元の世界なら誰一人として悲しむことがなかっただろう。瑞晴も陽一郎も、世界から知らない人間が一人消えたところで、何かを思うなんてことがあるはずが無い。
きっと、両親だって心の底から喜ぶはずだ。何しろ、一人息子なんていう邪魔な存在が居なければ、その後の人生を自分一人で謳歌できるのだから。葬式で一度限りの涙を流した後は、ヘラヘラ笑って瞑鬼のことなんて忘れるに違いない。
しかし、ここは異世界。ここには瞑鬼の場所がある。陽一郎も、瑞晴も、元の世界では考えられないほどに近づいた。もし瞑鬼が死んだならば、流す涙は一つじゃない。
ここまで来て、瞑鬼はある結論を思いついて居た。ほんの一瞬で考えて、光の速さで答えを出した。けど、きっとこの答は正解だ。
曰く、ただ一つ、生きる、と。
「…………っっ!」
気づいた時には、瞑鬼の全身は動ける体制になっていた。脳が指令を出すよりも速い、脊髄の勝手な判断である。
間一髪でライオンの爪を避ける瞑鬼。思い切り腰をひねり、全力で体を転がらせる。そして自分が生きていることを確認し、反射的に腰をあげる。
右腕から緊急警報が一つ。どうやら、完全に避けきるのは厳しかったようだ。ご自慢の爪が掠っただけで出血とは、さぞかしライオンも鼻が高いだろう。
しかし、今瞑鬼の頭にはそんな事を気にしている余裕などない。過剰に分泌される脳内麻薬のおかげで、至って冷静に痛みと向き合うことはなし。
低いうなり声をあげ、ライオンが体を起こす。
その瞬間だった。
瞑鬼の両腕が、全身全霊を込めた猫騙しを、ライオンの正面から炸裂させる。もちろん、ただ一瞬怯ませるためだけではない。今、瞑鬼の全身は、これでもかと魔力回路を解放している。
パァン、という乾いた空気を破裂させた音がなり、重なった手のひらの間から閃光が零れだす。
今回の柏手は、今までのどれよりも気持ちいい成功だったと言えるだろう。その証拠に、両手掌はおろか、手全体が痺れている。
けれど、発せられた光は瞑鬼の想像以上のものだった。
発動者である瞑鬼にはあまり影響がないが、その威力は野生生物からすると、虹彩が許容できる範疇では無かった。夜を払う勢いで繰り出された閃光は、ライオンの動きを奪うには十分だった。
先ほどとは打って変わり、情けない声を漏らしてライオンがうずくまる。その目は完全に使い物にならなくなったらしく、使用者補正がなければ瞑鬼なら失明していたであろう。
か細い声を出すライオンとは裏腹に、瞑鬼はそっと立ち上がると、シンクに置かれていた包丁に手を伸ばす。
特になんの加工をされたわけでもない、至って普通の包丁。ホームセンターへ行けば、野口さん一人で購入できるであろう調理器具。それでも、今の瞑鬼の目には十分すぎる凶器として映っていた。
刃渡り15センチ、鉄と鋼出来たそれを握り、瞑鬼はライオンを正面から見据える。
側には死体。きっと、今このチャンスを逃せば、自分もこうなってしまうだろう。
この隙に逃げるなんて選択肢はないなかった。だからと言って、目の前のコイツに恨みがあるかと問われれば、それもまた違うと答えていただろう。
今の瞑鬼を支配していたのは、圧倒的なまでの生への執着だった。そのためなら、自分が生きる為なら、他の動物がどうなろうとお構い無しなほどに。
未だライオンはうずくまる。目の前に死が迫っていると言うのに、体が動かないのだろう。しょぼいカスいと思ってきた瞑鬼の能力だったが、案外自分の身を省みなければ強力らしい。
しっかりと包丁を両手で握る。狙いをつける。
後は、目標へ向けて助走をつけて走るだけ。それだけで、この戦いの幕は落とされる。
もう、瞑鬼の心に迷いはない。
脳から伝わる電気信号を受け、自然と足が動き出す。こんなにも全身を使って走ったのは、恐らく今日が初めてだ。
「っっっぁあぁ!」




