異世界事変、局面です
瞑鬼史上最大級と言っても過言ではないほどの大声に、今度こそ奥にいた何かが反応した。
シングルアクセスのキッチンから、のっそりと互いが睨みあえる位置まで移動する。
真っ赤な夏の夕日が、去り際に一段と輝く陽光を部屋に降り注ぐ。
その馬鹿みたいな巨躯を持ち上げて出て来たのは、馬鹿みたいに厳ついライオンだった。いや、正確に言えば、ライオンもどきだ。
色は紫、大きさは瞑鬼が過去に動物園で見た個体の一・五倍ほどある。
最早それは、生物と称するには、あまりにも恐怖で満ちていた。生え揃った歯牙は、瞑鬼の肉なんて簡単に噛みちぎるだろう。曇り一つない獣爪は、大木程度なら一瞬でも切り裂けそうだ。
そして何より瞑鬼を震撼させたのは、その口周りにべっとりとこべりついた液体だった。
どす黒い色をしたそれは、今もなお床に滴り続けている。
「……なんで、俺なんだよ……」
ここまで来れば、おおよその人間なら察しがつく。
この化け物は、このどう足掻いても瞑鬼では勝てなさそうな化け物は、朋花の両親を殺したのだ、と。
朋花を追い出す一瞬前、瞑鬼が見ていたのはシンクの下だった。それは、瞑鬼が少しばかり身長が高かったからかもしれない。朋花よりも高かったことで、朋花よりも先に見てしまったのだ。
キッチンの奥に横たわる、二人の人間を。
涙が出そうなほどに怖かった。目の前には人食いライオン。対する自分は無力な非武装人間。普通に考えたら勝てる可能性なんてない。
けれど、瞑鬼は泣くわけにはいかなかった。今自分が泣いて、視界が歪んで、その隙にライオンに殺されてしまってはいけなかった。そうなれば、目の前のコイツは朋花を追うだろう。
調教の一つでもされたであろう動物が、一度匂いを覚えた相手を逃すとは到底思えない。瞑鬼が死ねば、後はライオンと朋花との追いかけっこが始まるだけだ。
朋花はまだ魔法回路を開いていない。カスみたいな能力でも、持っている瞑鬼とは違い朋花は完全に無能力なのだ。多少口が尖っているだけの、細身の女子小学生にライオンと戦う力なんてあるわけがなかった。
だから、瞑鬼に残された選択肢は、戦う。それだけだった。
きっと、瑞晴の所に行けば、陽一郎あたりが異変を察知し、警察に通報してくれるだろう。そうすれば、自分一人の命でこの街に住む他の人たちを助けられる。
それだけで瞑鬼は満足だ。今まで瞑く灰色の世界で生きて来た瞑鬼にとって、最後の最後で光に当たるというのは、案外悪いもののようには思えなかったのだ。
ライオンと対峙する。ガルル、と唸れらた。
腹が減っているということはないだろう。なにせ、もう二人もご馳走になっているのだから。
しかし、どうやら目の前の怪物には、腹がいっぱいだから見逃すなんて概念は存在しないらしい。ただ黙って瞑鬼と間合いを作り、それをじりじりと詰めている。
このままなら、三分も経てば瞑鬼は瞑鬼はライオンの腹の中だろう。それでは時間稼ぎにすらなりはしない。何せ、相手の最高速度は時速50マイル。実に80キロものスピードで狩が可能なのだ。
朋花の最高速度は、精々時速20キロメートル。それに加え、両者の間には絶対的なスタミナの差もある。これでは朋花が逃げきれる可能性は、皆無と言っていいだろう。
だからせめて、ここから桜青果店までの、凡そ10分間だけは瞑鬼が稼がなくては。
覚悟さえ決まってしまえば、あとは簡単だった。人間という生き物は、実に自分たちに都合のいい作りをしているらしい。無駄に力が湧いてくるのだ。
恐怖感を頭の片隅に追いやり、アドレナリンを全開で脳をなんとか保つ。
「……さぁ、睨めっこといこうか」
もう思考はいらない。ただ、野生に帰って動物と戯れればいいだけだ。瞑鬼にはそれがわかっていた。
奥には知人の親。それも生きちゃいない。でも、今の瞑鬼にはそんなことはどうでも良かった。これは自然の争いなのだ。
即ち、互いに喰らい合うだけの、原始的な戦いなのだ。そこに恨みつらみは不躾だった。
互いが互いの目をにらみ、円を描くように足を動かす。殆ど無意識のうちに瞑鬼は行動していた。
きっと、今瞑鬼の体を制御していたのは、瞑鬼ではない誰かだったのだろう。気が変になったわけでも、状況に頭が耐えられなくなったわけでもない。
極限の緊張感は、人の思考を奪うには十分だ。
しかし、残念ながら世界は瞑鬼に善戦など望んではいない。願うのはただ、一刻も早い決着だけだった。
「……っ!」
瞬間、瞑鬼の世界が垂直に変化する。
視界の端から、どうでもいいくらいに大量の情報が流れ込んでくる。
足元には血でできた泥濘。自分の体はそれのすぐ上で回っていた。何のことはない。血で足を滑らせたのだ。
だが、その一瞬は勝敗を決するには十分すぎる時間だった。
瞑鬼が床に倒れる。頭は打ってない。軽く尻餅をついただけだ。
瞬間、ライオンが吠える。低く唸るような声ではない。獲物を捕らえた時にあげるような、雄叫びにも似た声だった。




