二人の王
老人と孫娘は、海岸沿いを歩いていた。夜だというのに、娘は大きな傘を二人にかかるようにさしている。巫女服に和弓の弓包を背負っている姿は、その端正な顔立ちと合わさって神秘めいていた。
潮風が磯の香りを運ぶ。草履の間に入り込む砂に、娘は少し苛立ちを覚える。
二人が歩く漁港、あるいはその近辺の海岸沿いは、つい一週間ほど前までそれなりに活気ある町だった。灯台の灯りは絶える事なく、夜から早朝にかけても多くの船が漁に出ていた。
だが、そんな街の面影はもう存在しない。あるのはただ、何かとてつもない力によって抉り取られた荒野だけ。竜巻でも通ったようにゴミと家屋の木片が散乱し、草木は根こそぎ薙がれている。
去年の夏に遊びにきていた海の家を懐かしみ、老人がため息をつく。
「今年はまだ海で泳いでねぇのになぁ……。日月は来たんか?友達とかと」
立派に携えた髭を撫でながら、老人は水平線を見た。
「私も来てない。ていうか、ずっとおじいちゃんと一緒にいたでしょ。忘れたの?」
「あら。そうかそうか。そういえばぐぁむとか行ったな。いやー、最近もの忘れがひどくて」
とぼけるように頭をかきながら、老人は潮よけの塀から飛び降りる。ゴミ一つない綺麗な砂浜を見たのは、いつぶりだろうと懐かしみながら。
二人の目的は、砂浜に座礁中の小舟だった。それこそはこの海岸を更地に変えた元凶、そして日本全国を災厄に陥れた張本人、神前明使の遺留物である。
「巫月よォ、こんな小せえ船で日本海越えれると思うか?」
「……あんな事できるバケモノなら、いけるんじゃない」
老人が見上げたそれは、小さなクルーザーだった。金持ちがちょっと沖合に出て、日中にパーティーでも開くような、人が五人も乗れればそれで十分なくらい、小さなものだ。
とてもじゃないが、荒波飛沫の日本海を越えられる代物ではない。
禿げた塗装の跡からは、『姉吉航船』とかろうじて読めた。
「魔女特区から奪ってきたのか……? 無茶苦茶だぜ、アイツ」
中に入ろうと、老人が船から垂れる梯子に足をかけた。……瞬間。
ガキン、という甲高い音と共に、老人の足に衝撃が奔る。
徐々に右脚の親指から熱が込み上げてくる。長年の感覚で、指先数ミリが何かに貫かれたのだと、老人は悟った。
「いけませんねェ。それは我々の船。不法侵入だ」
その声は、ついさっき老人たちが歩いてきた方向から降ってきた。
振り向いた老人の三白眼が、海岸に佇む男を見る。それは、黄金のスーツに身を包んだ、長身痩躯の不気味な男だった。
削がれた足先の痛みなど忘れ、老人は訛りのきつい金沢弁で返す。
「なんや?先に不法投棄したがはうらややがいや」
「はて。不法とな。それは大きな間違いですよ、神峰の当主、神峰武尊殿」
自身の身分を当てられた武尊と呼ばれた老人が、天晴とでも言いたげに髭をさすった。二人の距離はおよそ二十歩半。間合いなどまるで気にする事なく近づいてくる男に、老人は指先から血が熱くなるのを感じていた。
「私らが誰かわかってるなら、とっとと帰りな成金野郎。傍迷惑な船長も連れて」
「だから、あなた方は勘違いしておられる、神峰の巫女よ。我々はなにも犯していないし、侵していない」
金スーツの男がポケットから両手を広げ、空を仰ぎみた。
互いの距離は十歩。巫月が魔法回路を展開した。
「世界は遍く、魔王のモノなのだから!」
「巫月、捕らえねや!」
武尊の怒声と同時に、巫月が背負っていた弓に被せていた布を放り投げる。長身の巫月によく似合う、四尺二寸の朱色和弓が姿を現した。
金スーツの男が懐に手を入れ、内ポケットの何かを掴む。しかし、巫月はその動作よりも一寸早く矢をつがえていた。腰は深く沈み、上半身は木をあてがった様に真っ直ぐ伸びている。
「巫祈、縛」
巫月から溢れる魔力をたっぷり吸った矢が、音速を超えて放たれる。瞬き遅れて、鶴の鬨のような、凛とした弦の音が耳をつんざいた。
間一髪でその一矢を避けた金スーツの男だったが、その右手首から上は既に消し飛んでいた。
「これが神峰の力、王の一族の……!」
「余所見すんじゃねぇぞいや」
金スーツがほんの一瞬巫月に目を取られた瞬間、背後から針で刺された様な殺気が飛んでくる。
振り向いた左目の端に、赤い番傘がチラリと映った。全身のバネをフルに使い、金スーツが武尊の傘での一閃を避ける。
しかし、それは最悪の選択だった。ありえない速度で振り抜かれた番傘は、鋒が触れた砂浜を大きく抉り取ったのだ。
竜巻でも通った様に、あたり一面を砂塵が埋め尽くす。
「……素晴らしい! これなら我が君にも足りうるだろう……!」
神峰の圧倒的な力をその身を持って知った金スーツが、愉悦の笑みを浮かべる。
直後、土煙の向こうで鶴が鳴く。金スーツがそれに気づいた時には、既に三本の矢が右肩と両太腿を貫いていた。ぐぅ、と苦悶の声を上げながら、金スーツは砂浜に膝をついた。
「残念やな、魔王軍。もうお里の地は踏めんぞいや。こんダラけが」
番傘の鋒が、金スーツの額を小突く。一呼吸ごとに、スーツは紅く染まっていく。魔法回路を開けば、難なく止血はできるだろう。しかし目の前の老人の剣気が、金スーツに指先一つ動かすことを許さない。
夜風がさぁっ、と吹いた。ため息をつき、武尊がとどめを刺すべく番傘を振り上げた。
その瞬間、この場で一番眼の良い巫月だけが、その閃光を捉えることができた。続いて魔法回路を展開していた武尊が、はるか上空から雷速で降る人影を見る。
最後に金スーツが、遅れて轟く雷鳴を耳にした。
「……許されない、エスタロッサよ……。其が敗北は主人の敗北。汚泥は雪げ」
閃光の余韻で霞む武尊の視界から、既に金スーツは消えていた。
突然の乱入者の登場。しかし、武尊を含めたその場の全員が、そのくらいでは気を乱されない。
「なんじゃいや、眩しいわ」
数瞬の出来事を、武尊は長年の戦場の勘で理解する。襲ってきたのは魔王軍、雷系の魔法使い。目的はおそらく、仲間の回収だ。
「邪魔をしないで頂きたい、イヴァン侯。この世界の王家を討ち取る好奇であるのに」
「巫山戯るな。討たれるのは貴様の方だ。貴様の死体にどれだけ我々の情報が詰まっていると……」
イヴァンと呼ばれた騎士甲冑を見に纏った男が、エスタロッサへ静かな怒りを向ける。二人の魔王軍の興味は、武尊からお互いへと移ってしまっていた。
「……だちゃかんな。巫月、脚狙え」
「いつでもいけるよ、じいちゃん」
痺れを切らした武尊が、魔法回路を一気に展開。ドライアイスに水をかけたような、超規格外な量の粒子が辺りに撒き散らされる。
夜の闇をも喰らうその目眩しに、二人の魔王軍は音速の反応を見せた。だが遅い。巫月の張り詰めた弦が、鶴の鳴を奏でる。
魔力での強化で亜音速に達した朱色の矢が、砂塵を巻き上げながらエスタロッサの左太腿を貫いた。
苦悶の声があがるより先に、イヴァンの周囲にプラズマの青い火花が散る。
刹那、目を焼くような閃光と共に、落雷が海に嘶いた。キン、と張り詰める大気が弛んだのは、十数秒も経った後だろうか。
咄嗟に伏せた武尊が起き上がると、もう砂浜には愛孫の気配しか落ちていなかった。
「あちゃー。だちゃかんわ。思ったより冷静やったな、あのカミナリ男」
「……まだ微かに視えてるけど、これは県境まで行かれたね。追う?じいちゃん」
着物についた煤と砂を払いながら、飛ばされた和弓を拾う巫月。武尊は白い無精髭を撫ぜながら、
「止めや。アイツらより、船で入ってきたバカを優先して探す」
腰をさすりながらの武尊の提案に、巫月は軽く肩をすくめる。
すっかり凪いだ海を背に、二人はとぼとぼ帰路に着いた。今から数十キロ以上田んぼ道を歩いて、拠点である大松駐屯地まで帰らねばならない。
「うわ、見てじいちゃん。静電気で髪バクハツしてんだけど。あの黒服次あったら殺す」
「おーこわ。最近の若者はすぐ殺すだのしばくだの。俺がガキん時なんてなぁ……」
新月の夜に、二人の王が笑い合う。




