灰色の青年
「……どこ行った、あのおバカさんは」
最低気温三十四度はあろうかと言う二年生棟を、桜瑞晴は全力で駆け抜けていた。
と言うのも、さっき見たはずの瞑鬼が、どこを探しても見当たらないのだ。一組、三組。ゆかりのある場所は見当がつく。
普段はこんなに全力で走れば、きっと怒られるだろう。規則規則とうるさい生徒指導の先生、やたらと夜一と仲が悪い風紀委員会。
もし今日が何の変哲も無い日なら。そんな妄想をする時間が欲しかった。きっと瞑鬼が転入してきて話題になるだろう。男子はどこで何をしていたかを聞き、女子は値踏みをする。
きっと女子たちは、初めこそ瞑鬼の容姿を少しばかり褒めるだろう。夜一ほどでは無いにしろ、平均よりかは高い方だ。けれど、性格も含めれば瑞晴以外は裸足で逃げ出す。不思議とそんな確信があった。
ふと、一年生の方に目を。そして自分を疑った。
たった数十メートル先。さっきまで自分たちが呑気に飯を食っていた体育館に、大きな風穴が空いていたのだ。
そこから無数の《なにか》が、蠢く亡者のごとく校舎に入り込んでいる。
「やばいね。あこは夜一とソラちゃんが……」
一瞬だけ迷ってしまう。あそこに加勢に行くべきか。だが、すぐにその考えをゴミ箱へ捨てた。
瑞晴がこの状況でできるのは、せいぜいがフェロモンを出して敵を集めることくらい。魔法が集団戦向きである以上、二人がいれば範囲を絞れない分被害も大きくなってしまう。
それに、戦闘力なら圧倒的に二人の方が遥か上をいっている。三人に増えたところで、彼らにとっては守るべき対象が増えた程度にしか思えないだろう。
「……早く出てきてよ。瞑鬼くん」
そう。それに今、自分がやるべきことは瞑鬼の捜索なのだ。余計なことに時間を取られている場合じゃ無い。
そう思い、踵を返した瞬間だった。
「……最悪」
教室の出入り口付近に二体。恐らくは群れを逸れ、瑞晴の匂いを追ってきたのだろう。
《なにか》は火傷を負っていた。一方は右腕に。もう一方は顔全体に。だが、絶え間ない激痛の中を彼らは歩いている。
「王よ…………王よ」「王…………よ!」
麻布が擦れる。《なにか》が地面を蹴った。
瞬時に瑞晴も魔法回路を展開。教え込まれた通りに構え、突進の力を後ろにそらす。
かじった程度の合気道と、たまの夜一からの指導。それだけでも、素質は十分だった。
「王よ!」「王よ!」「王よ!王よ王よ!」
ただ、状況は最悪だった。瑞晴の魔法は、魔法回路を開いていれば勝手に発動するタイプ。それも、相手をより興奮させる。
狙いを絞って拡散させるのは隙が大きい。かと言って、この二体に全量を出し尽くしていいのか。帰りの分を考えると、今は節約の一択。
机に突っ込んだ一体が、雄叫びを上げながら体を振るう。それだけで、机の山が弾丸となった。
受け止めるのは不可能。だが、避けるのはもっと。一瞬の判断が遅れ、残る選択肢は叩き落とすだけに。
「ってい!」
視力だけは誰よりも鍛えた自信がある。なんとも大ぶりな一撃で、瑞晴は飛んできたそれをはたき落した。
「…………った」
だが、もちろん無傷なんてのは夢の話で。魔法回路を全力で開いたにも関わらず、手首の骨が軋んだ。
じんじんと巡る痛みに耐えながら正面を。異変に気付いたのはその直後だった。
「っまじ!?」
裸眼で映る視界の先、割れたガラスの下にいた《なにか》は一匹だけ。
瞬時に全てを悟る。だが、左を向いた瞬間にその衝撃は訪れた。
全力で魔法回路を展開。ありったけの魔力を放出し、全開のガード。だが、鉄化の魔法を持つ《なにか》と、鍛えてもいない女子高生の肉体じゃ相性は最悪だ。
左腕を犠牲に、黒板に激突。全身から湧き上がってくる激痛に、瑞晴の意識は何処か遠くへ行きそうだった。
「王よ…………王よ…………」
距離を詰められる。もう動けない。死ぬのだろうか。この慣れた教室で、見慣れた景色で。
いや。瑞晴はまだ死んじゃいない。最後まで、その血の出尽くすまで。尺骨が折れ背中を強打していようとも、彼女の眼は死を受け入れた者のそれではなかったのだ。
「最悪だけど、まぁ、逃げるよりかはマシだよね」
諦めも逃避も、今瑞晴の辞書を引いたら消えているだろう。
教壇の目の前まで、《なにか》は迫っていた。少しばかり回復していたが、戦えるほどじゃない。
こんな敵を、瞑鬼や夜一は難なく倒していた。
魔女の異変があって、北海道での荒業も無事終えた。勘違いしていたのかもしれない。自分は強いと。どこか、仲間の強さを頼っていたのかも。
覚悟は決めない。そんなもの、念じる暇があるなら頭を動かせ。必ず解決策が。どこかに事件を紐解くヒントがある。
全力でフェロモンを放出か。それもあり。どうせ負けるなら、死ぬほど足掻いた方がいい。最後に残すものはなし。
這いずるような足取りで上がってきた《なにか》に向けて、瑞晴は笑いかけた。
私の勝ちだよ、と。
「やめとけ。もっと寄ってくるぞ」
一瞬。とはきっと、こういう時のことを言うのだろう。
瑞晴が魔法回路全開で息を吐こうとした瞬間、目の前から轟音とともに《なにか》が消え去ったのだ。
正確には、消えたと見まごうほど早く吹き飛ばされた。右頬を撫でる熱風が、教室をぶち破ったことを伝えてきた。
「……おかしいな。アレはてっきり俺を追うもんだと……」
「…………ぇ」
瑞晴の眼は、未だ風穴の方を向いていた。だが、彼女が間違えるはずがない。この声、この口調。
デートの待ち合わせのような勢いで振り向く瑞晴。確信はあった。確かに、声は本人そのものだったのだから。
「…………瞑鬼、くん?」
教室の入り口。まるで毎朝登校でもしていたかのように。その青年は立っていた。猫背など一切なく、燦然たる顔つきで。
まるで世界を、雲の上から見下ろしているように。
「ん?あぁ…………。瑞晴か」
「やっぱ、いたんだ」
心臓が落ち着く。折れた痛みが、会えた嬉しさで無視できるように。
「……なんでこんなとこにいんだ?」
「なんでって……。そりゃ、瞑鬼くん探しにきたんだよ。夜一とかは階段で戦ってるし」
「……なるほどね。夜一に、あとはなんだ?ソラか?」
「う、うん……」
瞑鬼が来たから安心したのだろうか。
いや、それにしてはおかしいのだ。瑞晴の身体は汗を止めなかった。むしろ、さっきよりも異常なほど分泌している。
魔法回路を閉じない瑞晴を不思議に思ったのか、瞑鬼が歩み寄る。歩幅を確認。歩き方も。どれをとっても、間違いなく瞑鬼だ。
「あぁ、階段ね。あっちはヤバそうだな」
「もうみんな屋上に避難済み。あとは瞑鬼くんと私だけ」
瑞晴の話を聞いているのかいないのか。瞑鬼はふらふら教室内を見て回っている。
確かにそれは自然だった。なにせ、瑞晴の中じゃ瞑鬼は学校へ行ってないことになっている。本来なら高校へ通うのは、今日の朝が初めてなはず。
だから、せめて机や椅子、ロッカーを惜しげに眺めるのは別段自然だと思っていた。
気づかなかっただろう。みんなの所へ連れて行っただろう。直後に起こした行動がなければ。
「そうか。んじゃあいつら助けるか」
「……え?」
何気ないセリフの節々。瞑鬼と同じ口から紡がれるその言葉は、なぜだろう。どうしても瑞晴には異質に聞こえてしまったのだ。
「死んだらドンマイな」
瞑鬼が魔法回路を開く。その直後、瑞晴の疑念は確信へと変わった。
目の前の人物、どう見ても神前瞑鬼の形を模したその人は、純白の粒子を纏っていた。
瞑鬼が腕を振るう。直後、爆裂な衝撃が真夜中の校舎を襲った。
荒れ狂う爆流を、黒板につかまってなんとか耐える瑞晴。目も開けられない、息すらままならない時間が数秒過ぎた。
開けた視界、その真暗な闇の下にあった校舎。そこから大切な一部が消えていた。ほんの一時間前まで、自分たちが談笑していた体育館。つい一年前までは座って勉強していた一年棟の一部。
その二つが、跡形もなく消し飛んでいたのだ。恐らくは、中にいた《なにか》ごと。
「……いつ【改上】したの?こんな数十分の間で」
警戒が脳をめぐる。信じるなと本能が叫ぶ。
目の前にいるこいつは、瞑鬼じゃない。




