深淵から覗く者
瞑鬼が態勢を立て直すより早く、身体がなにかに引っ張られた。白銀の毛並みが靡く。幻想的とも思えるような、あまりにも美しい一瞬に瞑鬼の目は奪われて。
カムイが着地したと同時に、頭は現実に引き戻される。背中にまたがって、戦況を確認。絶望的なのは理解している。一番の問題は、中のみんながこの異変に気づいているかどうか。
刹那、《なにか》の一匹が校舎の壁に突っ込んだ。全身を鉄と化したその一撃じゃ、耐震工事が完璧な学校は崩せない。だが、そんなのは相手が一匹だったらと言う話であって。
いくら鉄筋と言え、固めてあるのはあくまでコンクリート。痛みを感じない《なにか》が遠慮なしにぶつかり続ければ、小さな歪みが命取りなるらしく。
カムイが駆けるより早く、校舎が悲鳴をあげた。たった一人しか通れないような穴が、どんどん広がっていって。雪崩れ込む用な勢いが窓ガラスを粉々に弾いた。
「っ!追えカム…………!」
ドクン。心臓が脈打つ。鼓動が無様に超速ビートを刻み込む。
振り向いてはならない。本能が告げる。吐き気が迫り上がる。やめろ。だめだ。
そしてそれは、カムイにも伝播したらしい。二人してその場に縫い付けられていた。
「……あんた、弱くなったわね」
「………………そっ!っ!お、お前……」
首が意思を持ったように。嫌がる瞑鬼のことなど知らぬかのように。心とは裏腹に、視界は捉えていた。その姿を。その目を。
瞑鬼と同じ、淀んで腐って、この世の不浄を溜め込んでいるような。そんな穢れた眼。言葉を交わさずともわかる。拳を交わさずとも分かってしまう。
『……逸らしてはならぬ。彼の者は……』
カムイの声に最大限の警戒が混ぜ込められる。普段は人間を遥か高みから見下ろす傲岸不遜な神でさえ、彼女の前では頭をあげられない。
いつか。いつか来るだろうと。だがそれはまだだ。そう思っていた。けれど、よくよく考えれば分かったはずなのに。彼女が、いや奴が、どこに住んで誰が親なのかを思えば。
「……残念ね。残念だと思えないあんたの心が、今は一番残念」
「…………神前、瞑深……!」
告げたくなかったその名前。認めたくなかったその事実。
まさか異世界の自分が、魔王軍の一員だとは。瞑鬼は信じられなかった。信じたくなかった。けれど、告げてくる。いつもはヌクヌクサボってばかりの本能が、今回ばかりは下手を打つなとシグナルを。
誰の手も借りず、誰の助けにもならず。彼女はそこにいた。神前瞑深は、まるでこの災害がなかったのごとく。ふつうに。あたかも夏休み明けに登校してきたかのように。
「……知ってるのか、俺のこと」
警戒は怠らない。あまり自分を過信しない瞑鬼だが、今だけは確信があった。彼女の魔法はまず間違いなく瞑鬼のそれと同質であると。つまりは、観測外の異常であると。
同じ個体とて、同じ魔法はない。双子ですら全く違う系統が現れるということもある。しかし、ある程度予測は付いていた。さきの一撃を消し去った魔法使い。
おおよそ空間転移と思われる魔法の持ち主が、瞑深である事はほぼ間違いない。問題は、それをどうやって討ち果たすか。どうやって狩るか。
焦る瞑鬼と対照的に、彼女は呟いた。
「…………えぇ。ずっと前から」
「……てめぇは、あのクソ野郎とつるんでんだよな?」
「……【大罪信仰】の事ね。まぁ、そう。嫌々だけどね」
「……知るか」
今すぐにでも瑞晴の元へ駆けつけたい。一秒でも早くこの重苦しい空気を抜け出したい。そんな生物的欲求が高まり続けていた。
息をするのも空気が粘つく。瞑深の放つ異質な魔力が、あたり一帯を神前たちと同じ淀みへと変えているのだ。
瞑鬼は視線を外さない。刹那でも背ければ、次の瞬間には首が飛んでいる。そんな危機を感じるほどに、彼女の纏う空気は異質だった。
それは自然に、ごく当たり前の準備動作のように。瞑鬼の身体は魔法回路を展開する。それも太く。それも厚く。呼応するように、瞑深の身体にも歪な文様が浮かび上がった。
「……自分やるとか、寝覚め最悪だろ」
「明日の朝は遅めの目覚ましね。夢に出てくんなよ」
瞑鬼が第四の魔法で宙を蹴る。それと同時に、彼女も大地を蹴った。
右腕は使えない。おまけに相手の魔法も不明。だが、初見こそ瞑鬼の格好の的。ここで全力を出させれば、リベンジマッチは勝率が上がる。
……なんて、チンケな考えは吐き捨てていた。
「うるぁっ!」
余った魔力をかき集め、左手でもう一度第五の魔法を。はなから持久戦なんて考えてない。当たり前だ。瞑鬼の分身と言うのなら、相手だって初見殺しを持っているのだから。
瞑鬼の魔力を媒介に、燃やすは脂肪、導火線は爪のカルシウム。それらが腕を爆ぜさせる。目が眩むほどの光球が、瞑深の視界を覆い……。
「……ったく」
だが、またしても瞑鬼の魔法は掻き消された。
爆煙が消える瞬間、ほんの刹那の間だけだが、瞑鬼は確かに捉えていた。その正体を。瞑深の魔法の形というやつを。
「……まとめてやれ。いいなカムイ」
わかってしまった。だからこそ、瞑鬼は退けない。彼女の魔法、そのさわりの能力だけでも察してしまえば、逃げるのが愚策中の愚策だと知ってしまうから。
白銀の背中から飛び降りると、瞑鬼は魔法回路を閉じた。その代わりに全身を纏うは、暗く濁った不浄の気。正直、恨むべきかも分からない。なにせ相手は異世界とはいえ、自分なのだ。分岐が違えば立場が逆だったかも。最初にあったのが義鬼でなく彼女だったら。
あり得ない思考が渦を巻き、瞑鬼の思考に雲をさす。原因はなんだ。この苦しみの。この惨状の。
それさえ解れば、後は何も考えたくなかった。
「そろそろ覚まさせてやるよ。くそ白雪」
「……泣きな。鬼ならさ」
言葉もいい終わらぬうちに、両者は激突していた。
瞑鬼の体から溢れ出る、常人の八倍はある魔力。だが、瞑深とて負けちゃいなかった。絶対の自信があった魔力量ですら互角。いや、彼女の方はまだ底を出してない。
瞑深の手が明るく光る。何もない空中に、古代文字のような形ある言葉が浮かび上がる。間髪入れず、それは上と下の二枚に分離した。
瞑鬼が目視した瞑深の魔法。まだ詳細はわからない、が、確実に判明したことが一つ。それは、あの魔法陣に触れたものが何処かへ消されるということ。そして更に、本能がひねり出す。経験からの推測というやつを。
消す。それがどういう事なのか。ただ酸素をかき消して居るのか。それとも魔力を吸収する魔法なのか。最悪なのは、空間転移。
まだ瞑鬼のブラックリストにそれは載ってない。だからこそ、情報が足りなさすぎた。頭が信じようとしなかった。物体を任意の場所へ移す。それは正しく規格外。瞑鬼の【改上】と同じくらい。
「吐くまで返さなねぇ。俺は俺が嫌いだからな」
しかし、瞑鬼だって学習する。危ないものは見てわかる。
護りたいものが多すぎた。瑞晴も、関羽もソラも。それに今は何十人を救わなければならない。
思えば想うほど、第七の魔法は威力を増す。護りたい数だけ、手が足りないだけ。瞑鬼に力を貸してくれる。
「……雑魚魔法。のくせに……!」
瞑深の魔法が届く前、魔法陣が瞑鬼の体に触れる前に、瞑鬼は腕を掴んでいた。
掌から派生する彼女の魔法は、接近戦が大基本。触れられなければ意味がない。その上、例え拘束を飛ばされたとしてもデメリットはなし。
瞑深の腕を掴む三十本の黒腕が、徐々に力を強めていく。魔法回路を開いてなければ、華奢な彼女の骨などとっくに折れているだろう。苦悶が顔に出る。反骨が魂から滲み出る。
「……あいつはどこにいる?」
瞑鬼にとって、拷問はあまりいい手段じゃない。手間暇かかる上に、忠誠が強ければ意味がないから。だからこそ彼は瞑深を嬲る。自分と同じはずの彼女に、義鬼への同情心などあるはずがないのだから。
てっきり、すぐに吐くと思っていた。そりゃそうだ。同じ自分なんだから。思考が読めてると思って不思議じゃない。だが。
「……泉下に旅行中でね。残念」
その答えに、瞑鬼は激怒した。
女だから?自分だから?そんなのは問題じゃない。ただ、何なのだろう。圧倒的なまでの同族嫌悪、その最終形態を見た気がして、自分を止められなかった。
気づけば頭にゃたんこぶ一つ。生暖かい血までおまけで。自分の頭突きの勢いで、ひたいが切れていた。だが、もちろん瞑深のダメージはそれ以上。
血が下がって、少しばかり瞑鬼も冷静に。鮮血が垂れているにも関わらず、瞑深は一つもそれを気にしない。
「なんで……!なんでお前が……!」
「…………あんた、昔より脆くなったね。色々と」
「……昔…………っ!!」
聞き返そうとした。だが、声が出なかった。なぜだ。なぜ肺がうまく呼吸をしない。
胸からかけ上げてくる激痛に声も出せず、瞑鬼はただ下を向いた。そこにあるはずの何かを見るため。背後にいるはずの誰かを見るため。
瞑鬼の胸骨ど真ん中。心臓よりも若干右にずれた位置に、それはあった。スポーツをしているのか、爪は短かった。
「…………くっそがっ!」
切り離され、転移した瞑深の腕。それが背後から瞑鬼を貫いたものの正体だった。
「……もう帰るわ。やっぱ残念」
喉が熱い。咳をしたい。だが、空気が漏れ出て息をすることすらままならない。腕一本や肋骨とは桁の違う痛みに、下手に頑丈な身体は酷だった。
地面に伏した瞑鬼に一瞥だけくれ、彼女は踵を返す。まだだ。まだ死ねない。彼女を殺すまでは、まだ。
「…………同じ……か。お……まえ……も!」
頭から意識が消えてゆく。なんども味わった死の感触。「もう二度と」と、白銀の前で誓ったというのに。
カムイが吠える。普段なら鼓膜が破れたであろうその激昂も、今の瞑鬼には蚊の声以下にも聞こえない。
視界が霞む。魂が、生きるという意味が、肉体から離れようとしていた。
絶命の刹那彼が見たのは、吼えて噛み砕きにかかるカムイの毛並み。そしてその毛並みが、どこへとなく消え去った後の校庭だけだった。