あまつ咆哮
風邪やらインフルエンザなんかで高熱を出した時だっただろうか。思えば、これとおんなじ感覚だった気がする。頭が回り、吐きたいけど吐けない。そんな不思議な感覚。
不意に、その流転する暗色の世界に誰かが立っていた。誰だかはわからない。が、確かに覚えがあるような。
もっと近づく。相手も足を向けた。また一歩。ほんのり輪郭がはっきりした。もう一歩を踏み出す頃には、もうその人は目の前にいて。
違う。一人じゃない。その影は二人いた。ひどく嫌悪感をそそられる腐った影と、激しい反発を覚えた影。その二人が手を伸ばす。
逃げようとした。身体が動かなかった。せめて遠くを見つめようと。けれど、果てにもまだ何人かいて。
「お前ら全員、俺が……」
魔法回路が開いた気がした。思考回路が閉じた気がした。
だから頭に直接響く声に気づいたのは、彼が相当魔法を強めてからだった。
『主人殿っ!!敵襲だ!!』
「聞こえたわね神前!仕事よ仕事!」
勢いよくカーテンを開けた里見のせいで、瞑鬼の夢は途切れてしまう。気づけば、滝のように汗をかいていた。
全力のマラソン後のように息を切らし、のっそりと体を起こす。異常なくらいに喉が渇いていた。だが、何故だろう。瞑鬼を苦しめていたはずの吐き気と嫌悪感は、今だけその姿を消していたのだ。
「……あんた、何見てたの?」
今も頭の中でカムイの声は鳴り響いている。が、そんなことを気にしている余裕は瞑鬼には無かった。
また思い出せない。確かに顔を見たはずなのに。苦し紛れに頭を振ってみるも、脳裏にあるのは黒い空間のみ。そのことがより一層瞑鬼の苛立ちを煽る。
「…………正夢にならんよう祈っときます」
「……そうね」
さっきの事は忘れよう。他愛のない夢だったのだと。ここ最近のストレスからくる悪夢だったのだと。瞑鬼はそう思うことにした。
はっと一つ息を吐き、勢いよくベッドから飛び降りる。体は動く。魔法回路もばっちり。今はただそれだけでいい。自分が生きる、生きている意味がそこにあるのなら。
頭の中のカムイはこれでもかと言わんばかりに唸っていた。それはもう、異教徒を威嚇する時以上のそれで。
異変があったのは間違いなく校庭。証拠に、さっきまで構内にちらほらいた人がみんな体育館を目指して走り回っている。考えられるのは、義鬼率いる魔王軍の進行。
そりゃ確かに、人類の殲滅が目的なら一番人が集まるところを狙う。しかもつい最近まで自然に人間として溶け込んでいたあいつなら、避難場所や集合地点の地図を持ってても不思議じゃない。
ますます後悔が募る。なぜ家に侵入した時、戦わなかったのか。殺さなかったのか。魔法が二つだけとは言え、あそこは瞑鬼の慣れ親しんだ家。隠れ場所やら危ないものがしまってある場所なんかは把握済み。
「…………あのカス……!くっそ!」
わざわざ玄関まで走るのは効率が悪い。そう考えたからなんだろう。校舎同士をつなぐ渡り廊下の窓を、瞑鬼は本気で叩き割った。ルドルフにぶっ壊されて改築されたばかりの、曇り一つないガラス。
耐震ように頑丈に作られたそれも、魔力を込めた拳の前には無力らしく。散々と舞うガラス片が、朝の太陽に反射して妙にまぶしかったりした。
下までは三メートルほど。瞑鬼にとってはないも同然。思い切り息を吸い込み、魔法回路を展開。
強化された身体能力のまま、思い切り瞑鬼は飛び出した。いちいち回り道をしている暇はない。行くなら最短。だから飛んだ。わざわざ二階から。
瞑鬼の足が宙を踏むと同時に、第五の魔法が発動される。息を止めている間だけ空を駆けることが出来るその魔法を展開しっぱなしのまま、瞑鬼は第二校舎の上を行く。
抜けたそこにあるのが、野球コート1面弱の小さな校庭。普段なら全校生徒がゆうに駆け回れるその場所に、今は見知らぬ影が大量にあった。
二百を超える《なにか》の軍勢が、フェンスを倒し一気に侵攻してきたのである。金属音を弾かせながら彼らは駆ける。目標は言うまでもない。人のいる場所だ。
「どけっ!カムイ!」
白銀の王は汚れた軍勢に単身抗っていた。向かって来たも者を嚙みちぎり、あるいは引き裂いて。
だが、彼らはカムイを気にしない。恐らくは思考すらないのだろう。だから、あの神の御前でああも無神経に走り回れる。常人なら泡を吹いて倒れるようなカムイの絶大な殺気の中、《なにか》の進行は緩まなかった。
半分になった仲間の死体を乗り越えて、金属音を撒き散らす。常時魔法回路を開かされているんだろう。ダイヤモンドすら砕くカムイの牙でも、かなりの力を込めなければ砕けない。
瞑鬼は飛んでいた。文字通り、空の上を。第四の魔法は解除している。しかし、魔法回路はいつもよりもずっと濃く。熱く拓く。
『っ……!よいぞ!』
狙いは決まってる。誰か一人じゃない。やるならまとめて吹き飛ばす。
せっかくユーリと里見に直してもらった右腕には申し訳ないが、もう一度死んでもらう。これまでにないほど全神経を指先に。摩擦で折れても構わない。痛いとか苦しいだとか、そんなのはもう棄てていた。
「死ねぇぇぇぇっ!」
全身全霊の、何一つとして手加減のない第五の魔法。それは一つの爆炎と化し、まだ朝だと言うのにもう一つ太陽を作ったようだった。
甚大な瞑鬼の魔力のほとんどを持っていったその魔法は、《なにか》が気づくより早く彼らの身体を塵へと変える。
ミサイルが打ち込まれたような円柱が、平和な校庭に立ち昇った。全部とはいかない。が、半分以上は狩れたはず。その証拠に、瞑鬼の右腕は黒炭と成り果てている。
第六の魔法で痛覚を遮断せずとも、もう感覚は無かった。もう魔法じゃどうしようもない領域だ。
ユーリに怒られるだとか、里見に叱られるだとか。そんな一時間後を想像しながら、瞑鬼は宙を落ちていた。
一気に大量の魔力を放出したせいだろう。症状は貧血と酷似している。ただ、別に魔力がゼロになっても死にはしない。だから身体に異変が現れることはない。
そのせいだ。せめて、目が眩んでいたらどれだけ嬉しかったか。その時瞑鬼の目は捉えていた。たしかに焼き払ったはずなのに。鉄の沸点なんか軽く超えていたはずなのに。
「王よ」「王よ」「王よ」「王よ」
そこに奴らはいた。なんの傷もなく、また一人の犠牲もなく。瞑鬼渾身の一撃を何事もなかったかのごとく校舎へ駆けていた。
「…………マジか。くそっ!」
原因はわからない。たまたま外れた。そんなバカな。あのレベルなら、英雄でも無傷とはいかない。
考えられるとしたら、誰か他の魔王軍の介入か。だが、瞑鬼は知らなかった。そんな規格外のことができるやつがいるのかと。出来るとしたら、大規模な空間転移くらい。
瞬間、頭に一つの魔法が思い浮かんでいた。思い出したくもない。だけど、記憶の底に膿のようにこべりついた淀みの部分。
目に不浄の穢れが溜まる。だが、恨むより早く地面が迫っていた。