明けの明星
身体が重かった。
虚ろな記憶を辿れば、そう。最後にぐっすり寝たのは一週間ほど前になる。心と身体の平穏を保つはずのそれは、ここ最近ずっと目を瞑り闇を見つめる作業と化していた。
夢の中なんだろう。あたりは真っ暗闇だ。
ふと、そんな中に人が現れた。誰かはわからない。ただ、見たことがあるような。毎日見ているような。そんな不思議な感覚。
彼はゆっくり足を運ぶ。目の前にぴったりくっつかれて、初めてわかった。
そうだ。なぜ気がつかなかったのだろう。こいつは…………。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「………………ろ瞑鬼」
だが、残念なことにその空想は途中で途切れてしまう。
旅館のテレビがいい場面で切れた時のような軽い苛立ちを覚え、瞑鬼はゆっくり目を開けた。
「…………あ?夜一?」
そこにいたのは、いつものジャージを着た夜一だった。夏休み中は必ずと言っていいほど家で着用していた金ラインのそれは、北海道にも持っていったほどのお気に入りらしい。
「寝起きで悪いが、頭を動かせ。今から校長室だ」
「……?保健室……?なんで……」
寝起きかつ重度の疲労が溜まっていた瞑鬼の頭は、すぐ回転してくれるほど働き者じゃない。状況を思い出すのに数秒。そして夜一の発言を理解するのにまた数秒が経過。
きょろきょろ何度かあたりを見回すと、ようやく悟ったように瞑鬼は呟いた。
「…………夢じゃねぇのか」
悪夢なら良かった。ただ疲れが溜まって、それで見た脳の現象ならどれだけ今日の1日を快適に始められたことか。
けれどそんな淡い期待は、保健室で寝ているという異常な状況にかき消されてしまったらしく。寝癖が酷い頭をかきながら、のっそりベッドから降りる。
学校で朝を迎えるなんて激レア体験、こんな時じゃないとできなかっただろう。誰一人としてはしゃいでなどいないが。
仕切りのカーテンを開けると、大きめの窓からこれでもかと言うほどに光が差し込んできた。
「……まだ燃えてんだな」
「俺もさっき驚いたばかりだ。あれも魔法の一種なのだろうな」
「だな…………」
朝から外は、無駄に壮大なハリウッドドラマのようだった。揺れる紅蓮に落ちる瓦。今日も今日とて、世界は平常に腐っている。
出窓に体重を乗せて気づいたことが一つ。昨日までは感覚のなかったはずの右腕が、すっかり元の調子に戻っていた。多少のやけどこそ残っているが、動作はほぼ問題ない。
「あとで礼いっときなさい。朝一でユーリが治してたんだからね」
「…………里見先生。ばっどもーにんぐです」
「あら。あたしにもお礼?どういたしましてよ。こっちも人の腕焼いたの久しぶりだったから、ちょっと楽しかったし」
聞く人が聞けば狂気にしか聞こえないこの会話も、このメンバーだからこそ笑い飛ばせる。
里見の魔法は世界でも珍しい治癒系のそれだ。しかもユーリの様に体液という制限があるわけでもなく、魔力の続く限り続けられる優れもの。
だがもちろん、ノーリスクでそんな頓狂な魔法が使えるはずがなく。リスクを背負うのはむしろ、医者ではなく患者の方だ。
「俺治すの勿体無いっすよ。一回やられりゃどうせ戻るし」
「あんたは……。瑞晴が聞いたらまた怒られるわよ?」
「……記憶の鍵、捨てときましょうか」
里見の魔法、その限りなく高いリスクは、患者が怪我を負った時と同じ傷を負わせること。
切り傷ならもう一度ナイフで肌を裂き、火傷ならもう一度肌を焼く。やった事はないが、食中毒なんかも毒を飲んで苦しめば治せるらしい。
里見の治療に失敗はない。また途中経過もない。あるのは死ぬか治るかだけ。
起きていたら痛みに耐えられないと判断したのだろう。だから瞑鬼があんな悪夢を見たという可能性もあるが。
眼を覚ますためにコーヒーを一杯。保健室の冷蔵庫に常備してある市販の安物だが、昨日の事件の後でも変わらぬ味に感動した。
「……もうみんな起きてんのか?」
「お前が最後だな。早く行くぞ。飯がなくなる」
「……そいつぁやべぇ」
慣れない部分の筋肉痛を堪えつつ、二人は保健室を後に。夜一に従い向かったのは、避難している人たちがいるという第1体育館だった。
近づけば聞こえてくる。朝から活気のある声。随分と慣れ親しんだ声。彼女の声を聞くだけで、瞑鬼の活力は湧いてくる。
「大人は我慢してください!子供優先!あ、こら!フルーツ残すなお嬢ちゃん!このお姉ちゃんみたく可愛くなりたいでしょ!」
「あら瑞晴さん。ようやく私のこと認めてくれたんですか?これで私がナンバーワンクラキストですか?」
「私は別にクラキストじゃないし。恋と愛の違いだよねー」
「未來必定……!」
「あんたら、よくそこまで争えるね……」
たかだかいるのは百人足らず。しかもみんな満身創痍。そのはずなのに。
そこにあったのは、いつもの商店街と変わりない活気だった。
山積みの段ボールから缶詰を配布する瑞晴たちに、怪我の手当てを延々続けるユーリ。昨日までは明日にでも死にそうな顔をしていた大人たちも、一晩で人が変わっていた。
「…………あっちぃな」
「騒げるうちに騒いでおいたほうがいい。もともと長続きできる環境ではないしな」
「…………だな」
この活気が続くのも、せいぜいが二週間かそこらだろう。陽一郎が万一に備えて蓄えていた緊急時避難用具の食料、衣料の数は百人かけることの10日分。
多少節約をしても、その限界はあっという間に来る。だから、せめて今日くらいは昨日失った体力の回復という意味を込めてこれだけ出荷されているんだろう。
時計を見れば、時刻は早九時過ぎ。本来ならば全校朝礼が行われ、校長の長ったるい話にみんな項垂れていた頃。だが、見える生徒の数は数える気も起こらないほど少なくて。
商店街連合を合わせても、ここにいる人は全部合わせて八十五人。天道高校一年生の三分の一ほどしかいない。
曰く他の町にもハーモニー指定の避難場所があるが、流石にここほどの設備が整ったところはないんだとか。区役所やら小学校やらに蓄えてある食糧の数は、とてもじゃないがこの騒動が解決するまで持ちそうにない。
「……明日、ないしは今日には魔王軍掃討を本格的に考えるらしい。瞑鬼も体力が戻り次第加わってくれ」
「……今すぐでもいい。一秒でも早くやんねぇとな」
まだ春だった頃を思い出していた。ぼんやりと空気が流れて、新しい世界の全てが楽しかったあの頃を。
戻って見れば地獄だろう。辛いことだって確実に。だが、瞑鬼はそれを取り戻したかった。イライラしながら、胃痛と戦いながら。それでもいいから。
義鬼のことが頭をよぎる。いや、違う。これは別の誰かだった。
何も食べてないはずなのに、腹の底から吐き気が登ってきた。全身を釘で撃たれたように、瞑鬼の体が弛緩する。
「……食わんのか?」
すでに夜一は自分の分の缶詰をもらっていた。今日のメニューは鯖の水煮。決して嫌いな味じゃない。
何が原因かはわからない。里見の魔法の反動か、栄養と睡眠不足からくる不摂生のせいか。けれど、そのどれもこれもを合わせたような、異常なまでの嫌悪感が全身を覆っていたのだ。
貧血の時のような足取りで、瞑鬼はふらふら歩き出す。瑞晴の目の前に行っても、その吐き気は治らなかった。
「…………朝の分もお昼に回す?」
「……そうしてくれ。なんか、気分悪りぃ……」
しかし、そこはさすが瑞晴と言うべきか。瞑鬼の様子を見るや否や、問い詰めることなく気を遣う。
けれど、瞑鬼は気づけない。そんな事に構う余裕がないほどに、彼は当惑していた。
「……なんかあったら起こしてくれ。保健室いってる」
「…………りょーかい」
またもや覚束ない足取りで、瞑鬼は体育館を後にした。瑞晴とて追いかけていきたいのはやまやま。今こうして後ろ姿を見ているだけでも膝から崩れ落ちそうな彼を、誰かが支えねばならない。
が、仕事がある以上持ち場を離れるわけにもいかず。ソラと千紗に丸投げというのも後ろ髪を引かれるため、心配ながらも配給に戻った。
一方瞑鬼はというと、それはもう酷いくらいの気持ち悪さで。どこからか話しかけられているような、ずっと頭の中で不快な音が鳴り響いているような。胃酸がせり上がってくることは無い。めまいを起こすこともない。
ただ、頭の中を別の生物が駆け回っているかのような、激烈な不快感があるだけだ。
そこかしこの物をぶち壊したい衝動を抑えつつ、保健室の扉を開放。鼻を酸味の効いたコーヒーの香りが駆け抜けた。
「早いじゃない。ちゃんと食ったの?」
「……なんか、気持ち悪かったんで。……陽一郎さんは?」
「あいつならカムイ?だったっけ?と話にいってるよ。今朝方夜一から土産をもらったらしくてね」
「…………そっすか。んじゃ、俺ちょいと横んなりますんで。なんかあったら起こしてください」
「……ヤバかったら言いなさいよ。薬節約とかバカな考えは無し。いい?」
「……うぃ」
瞑鬼の気の抜けた言い方に若干の不安を抱えつつも、里見はそれを無視。万一死んでも生き返る生徒ならば、今の状況でしつこく問いただす必要はないとの判断だ。
すっかり慣れた、保健室の少し固いベッド。まだノリが落ちきってないシーツだけを腹に乗せ、瞑鬼は天井を見上げていた。眠ろうと思えば思うほどに、その不快感は重くなっていた。




