太陽の休み時間
「……おい夜一、まさかだれかペットでも連れて来てんのか?」
「……鼻いいっすね」
「デカイな……。しかも近い」
力の抜けた瞑鬼を背中に、陽一郎が鼻を鳴らす。桜和晴の魔法に唯一の抗体を持つ彼ならではの嗅覚だ。
他の商店街メンバーはもうマシュが校舎内に案内済み。残ったのは説明役の陽一郎と、同じく見聞役の里見だけ。いつも汚れのない白衣が、今日は黒と紅とで心地悪いコントラストだった。
別にカムイのことを隠し通す必要もない。いずれはバレること。しかも、陽一郎のお目当てであるペット様は、嬉しいことにこちら側なのだから。
「出てこいカムイ!すまんが謁見の申し出だ!」
姿の見えないカムイに対し、そこそこの大声で叫ぶ夜一。死角だった校舎裏から、その神はのっそり這い出てくる。
「…………なんじゃこりゃ」
「……あらあら」
二人の反応は、当然のごとく驚愕の一個。淡く燃ゆるような白銀の毛並みに、真黒の真珠のような目。何よりも目を奪われるのが、ゆうにトラックを超えるその巨体だ。
どんな異常に慣れている戦士も、幾万の死を見て来たお医者様も。彼の前では目を反らせない。それが心臓を晒すことなのだと分かるから。
『何用だ、夜一。我は貴様に仕えた覚えは無いのだが?』
何度あっても何度言葉を交わしても、やはりカムイの迫力は他のそれとは一線を画す。慣れたはずの夜一でさえ、不機嫌な彼の声を聞くのは腹にくる。
「少しばかり、説明をな。協力してくれ」
『……主人殿でないのが不満だが、まぁよい』
突如鳴り響く頭の中の声に、終始二人は困惑していた。その慌て用はさながら、本物の高校生のようで。いつもの冷静な陽一郎はそこにいなかった。
『貴様……なにゆえ我が主人を背に乗せている?』
陽一郎の背中に瞑鬼がいるのを観た白銀が、低く唸った。細く開いた口の隙間から、真白の牙が異彩を放っている。
返答次第じゃ、彼は容赦なく陽一郎を噛み砕くだろう。魔力を込められたカムイの顎撃を防ぐ素手などあるはずがなし。だから、いつもの三倍慎重に。
指先が震えていた。こんな思いをしたのは、初めて戦場に行った時の一週間くらいのもの。その時の感覚が陽一郎の中を駆け巡る。自然と全身に力がこもっていた。
「……俺ぁこいつの保護者だ。瑞晴の父でもある」
『……主人殿が言っておった、ヨウイチロウサンなる人物か。理解した。無礼を詫びよう。……我が主人の主人であるなら、兄は我のなにより敬うべき相手となる』
口を閉じ、深々と頭を下げるカムイ。銀の毛並みが風に揺れる。こんな事をされてでは、陽一郎とて何か言えるはずもなく。
厄介者の従業員が、またもやとんでもない厄介ごとを提げてきた。こんな状況に慣れつつあったおっさんは、自分の心臓の強さにただただ感謝するばかりだった。
「お前ら……北海道で何してきた?」
「…………長いっすよ?」
「だろうな……」
きっと陽一郎は心配していた事だろう。自分の娘が、この騒動で怪我を負ってないか。他のガキどもが、一人たりとて死んじゃいないか。だから、本人も初めはそれを聞くつもりだった。
北海道は楽しかったか。元気ならそれでいい。そんないつも通りのセリフを吐いて、とっとと瞑鬼たちを日常に近づけてやろうと。そう思って商店街を守っていた。
だが、蓋を開ければ一番非日常を運んできたのは、その子供たちだったと言う。頭を抱えるべきか、それとも戦力が増えたことを感嘆すべきか。いかに四十を超えた大人と言え、その判断はすぐにできるものじゃ無い。
だから陽一郎は決めた。とりあえず目の前の生き物は無視しようと。その神々しさ故に、普通なら目をそらす事すら叶わなかっただろう。だが彼が味方、それも自分に敬意を払ってくれているとなれば、いささか心苦しさも減る。
「……とりあえず、こいつ運んでからだな。そのあとお前らの経緯の説明頼む。秀作は最後でいいか?」
「……問題ないです。俺もちょうど、聞きたいことありましたから」
ここまで瞑鬼はよくやった。帰ってこられないとさえ思っていたのだから。だから陽一郎は感謝する。リーダーとしての彼に。人を救う心を持ち始めた彼に。
そこから後はとんとん話が進んでいった。とは言え、今は全てが手探りの状態。指揮系統を担う陽一郎が戻ってきたとは言え、まだまだハーモニーが機能するはずもなし。
瞑鬼を保健室のベッドに寝かせ、腕の治療を里見とユーリに信託。後に体育館やら集会室にいるという生き残った人たちに会いに行き、軽く挨拶を。既にそこに朋花も混ざっていた。
天道町の総人口はおよそ1万人。だが、緊急避難場所に支持されている高校に集まれたのは、陽一郎率いる商店街連合を合わせても百人に満たない。
全員が全員、魔王軍の犠牲になったと言うことはないだろう。だが、少なくとも半分以上はそう仮定してもいい。
生き残った人の中には、自然に眠ることができなくなったものも少なくない。家族が、恋人が、友人が目の前で引き裂かれるのを見たと言うものも。
恐怖は蔓延し、不安は空気を覆い尽くす。世界中を焼き尽くさんとする強欲な炎が消えない限り、彼らに刻まれた記憶が漱がれることはない。
「……悪いが、お前らにゃこれが修学旅行になりそうだ」
バリケードに机が使われたため、がらんとした職員室で陽一郎は呟く。
夜一から白銀の軌跡を聞いた直後は、まだ冷静さを保てそうだった。だが問題なのはそのあと。日本全国という規模で、この騒動が起こっていると言うこと。
この田舎町じゃ、インターネット以外のインフラはほとんど途絶えたと言ってよかった。しかも魔王軍はいやらしいことに、軍関係や報道を先に潰したのだ。《なにか》の進行が起こって一週間以上、誰一人として日本全国の様子を知れるものなどいなかった。
「……まぁ、俺は瑞晴が生きてんならそれでいい。それだけで明日も畑を耕す理由になるからな」
「……呼んできますか?瑞晴も不安がってましたよ。陽一郎さんが大丈夫かって」
脂ぎった顔で時計を確認。既に日を跨いでいた。
「いや……寝てんならいい。あいつも千紗もソラも、今は幸せな夢見てて欲しいからな。お前も疲れてんだろ?無理すんな」
夜一の顔は既に限界を物語っている。まぶたは落ちかけ、ここ何日もずっと気を張っていたのか、眉間のシワがとれないほどに。
リーダーかつ一番奇抜な瞑鬼と違い、夜一が求められるのは冷静さと忍耐力だ。組織の中じゃ、中間管理職が一番ストレスがかかりやすい。
決して向いてる仕事じゃないのに、彼は良くやっていた。褒めてやりたいくらい。頭を撫でて、抱きしめたいくらい。
「俺も同意見だ。眠れ、柏木」
「……ダメだ。お前の前じゃ寝れん」
「俺こそ眠れるか。誰が見張りをする。ユーリももう限界がきている。魔力はないが、まだ弾は残っているぞ」
くだらない意地の張り合いが火花を散らし、より一層体を酷使させる。そんな馬鹿たちを説教するのもまた陽一郎の役目。
睨み合う二人の首根っこを掴み、そのまま応接用のソファーに放り投げた。
陽一郎が校長に頼んでまで買ってもらった、本革の高級ふかふかソファー。体重を預ければ、そこに砂場でもあるかのようにずんずん沈んでいく優れもの。
疲れた身体で、しかも寝不足。それで教室のベニヤとは違う、高級品に包まれたなら。きっとすぐ瞼が落ちるだろう。頭が考えるのをやめるだろう。
高校生らしい可愛らしい寝息とは裏腹に、太いいびきが校長室にこだまする。それを確認し、陽一郎は扉を閉めた。
明かりのない職員室。かつて訪れたのは一度だけ。教師になんて、なりたいと思ったことすらない。
日本の学校には不釣り合いな重火器の山を見て、彼はげんなりとした。いつまで争いが続くのか。魔王や魔女、それに人間たちはなぜ意固地に争うのか。
ただの引き金である彼に答えはわからない。ただ、ソラやアヴリル達のように、他の道もあるはずなのに。
腐るのはリンゴが悪いからじゃない。悪いのはそれを産んだ枝だ。育てた木だ。だからこの世界を変えるなら、根こそぎ新しいものに変えなければ。
彼の目に淀みが住み始める。桜和晴がいなくなった時と同様に、全身の筋肉に不浄な力が宿る気がした。
今なら。今だけなら。たとえ相手が魔王軍幹部であろうとも、刺し違えられるのではないか。そう思って、無意味に銃を握ろうとした。
「…………死ぬのは、娘が結婚した後じゃなかったっけ?」
誰もいないはずの職員室に、一人の女の声が。振り向かずともわかる。十年来の、悪縁なのだから。
「もう相手はいる。パパがいたんじゃ気が引けちまうだろ。幸い店もほとんど無事だしな」
それは彼なりの、精一杯の強がりだった。こんな歳になって、こんな状況になって。それでも自分がなお格好つけ続けるなんて。
まったく頭が痛くなる。死ぬことに未練がなくなってしまう。
世界を変えられるのは、道が舗装されてない若者だけ。既に重たいコンクリで塗り固められたおっさんじゃ、どう足掻いても生き方は変えられない。
「……娘の手ぐらい、握ってやったら?」
「…………そうだな」
その方が、未練を断ち切れそうだから。
二人は保健室へと足を向ける。すっかり暗くなった学校。音は燃える火だけ。娘と最後の面会としては、なかなか悪くない。
驚くほど穏やかな目をして、桜瑞晴は眠っていた。避難してきた人たちがいるのは体育館や集会室だが、彼女らがいたのは一年5組の教室だった。職員室から一番近いその部屋が、ハーモニーの休み場所となっている。
だが、特別な装備やら備品があるというわけじゃない。むしろ、毛布や机の質なら避難者達のいる体育館の方へいいのをやっている。寝る以外は学校の警備に当たる彼らは、最低限以下でずっと籠城生活を続けていたのだ。
男子禁制と書かれた張り紙。それがホームプレートの代わりに貼ってある。しかし、陽一郎はためらいなく扉を開けた。しかしゆっくりと。中で眠る娘達の夢を壊さないように。
「……あぁ。これで和葉に怒られねぇな」
彼の目に映った娘の姿は、いつにも増して愛らしいものだった。
可愛い子には旅をさせたほうが、やはり何かとつごうがいいらしく。たっぷり疲労を溜めた瑞晴の寝顔は、親じゃなくても可愛いと思うほどだ。
だが、まだだめだ。まだ紐を緩めていい状況じゃない。
自分の心と葛藤する陽一郎を、里見は哀しげな目で見つめる。普段なら抱きついていただろう。年頃の娘にそんな事、気が引けちまうよ。
飲みの席ではそう言いながら、いざ会ってみると決行するのがこの男だ。そんなの昔から知っている。だが、知っているからこそ。
「……瑞晴も瞑鬼も、夜一も千紗もソラも朋花も。ほんとに、俺ぁついてるぜ」
その顔が、その心が。今は痛いほどに分かってしまう。いや、分かりたくはない。親になってみて、初めて知ることのできるそれ。
もう輝いていた頃の彼はいない。戦場で、桜和晴と舞い踊っていた頃は戻ってこない。
「…………ほんと、あんた変わったわ。昔のやつらに教えてやりたいくらい」
「うるせぇ。ずいぶん前から、俺ぁ引き金から指引いてんだよ。今は代わりに果物と娘が俺の戦場よ」
「……それ、こんど飲みの席でもう一度いいな」
「……かわんねぇな。お前は……」
こんな状況なのに。いや、こんな状況だからこそ、二人は笑う。声を殺して。感情を殺して。
ただ馬鹿みたいに笑いあった。去りし日なんて知った事か。戻れぬ日々に興味はない。この街と、この人たちと。そうして紡いでいくと、誓ったのだから。
まだ外は明るい。だが、陽一郎は学校の中にいた。銃こそ近くに置いてあるが、セーフティーはしっかりと。目からも不浄な淀みが消えていた。あの程度の腐敗など、魔女との戦争でそれこそ腐る程経験済みだ。
がらんどうの職員室。唯一残ったパイプ椅子に腰掛けながら、里見はタバコをふかしている。保険医になったからやめたと聞いていたのだが、失職中な今何も言うまい。
「……忘れてた。夜一から話聞いてねぇや。あのやべぇやつのこと」
さっきはつい勢いで二人を寝かせてしまったが、思い返せばまだ彼らは白銀のことを聞いていない。
だが、今更叩き起こして聞くわけにもいかず。結局その件は明日への持ち越しに。とにかく今は、子供たちが五体満足で帰ってきたことが何よりも吉報なのだ。
「……一本くらいなら、臭いもつかないよ?」
そう言いながら、無造作に箱を突きつけた里見。陽一郎が銘柄に気を遣わないことは知っている。ストレスも相当だろう。逃げだと言われてもいい。大人だって戦士だって、どこかに隙間がないと伸ばすても伸ばせなくなるのだから。
「…………いや。悪いな、もう大丈夫だ」
「……そう」
けれど、陽一郎は倒れない。自分一人で、何にもたれることもなく生き抜くと決めたのだから。
最後に味わったのは、確か明華と戦った時だったか。『緋色の煤煙』なんて呼ばれてた日が懐かしい。思えばあの頃は、ずっと何かに逃げていた気がする。
里見にゃまだ理解できないだろう。自分が誰かの背もたれになることが。困った時には一人で踏ん張り、正面で崩れそうな娘たちを支えなければならないパパの役目というやつが。
それもこれも含めて、陽一郎は笑った。衣食住の一つも満たされてないこの状況で、たしかに彼は笑っていた。
満たされてない?そんなバカな。もう俺は満腹だよ。これ以上ないくらいにな。
「……んじゃ、俺らは俺らで考えるか。今後のこと」
「……だね。当面は食料と警備、あと行方不明者の捜索ってとこか……」
「……あいつさえいりゃ、二つは解決すんだけどな」
「…………そうね」
窓の外を見上げる。そこには欠けた月があった。
まるで今のハーモニーの惨状を表しているかのようなそいつは、いつもよりかなり控えめの光で。
ハーモニーの闇の部分は戻ってきた。足りないとすれば、それは光。ただ一人でそれを担っていたやつの不在。早急に解決すべき案件は、それに他ならない。
黒テープで補強された窓硝子をあけ放ち、むさっ苦しい夏の夜空に陽一郎は呟いた。懇願するように。英雄の回帰を望むように。
「……どこ行ってんだ、英雄……」