呪禁残滓
だから逃げようとした。せめてここからくらい。せめて、陽一郎の射程範囲に入るくらいは、と。
けれど、ここまで来たらもう予想外が起こらない方が異常らしく。当たり前のように、しかし少しだけやはり無情に。《なにか》は起き上がった。
三半規管は壊れているはずなのに。耳と鼻から、何かの汁を垂らしながら。
「……っ!バーサーカーかよ……」
「王よ……み、御霊……を……」
掠れるような声で、亡者のように渇望し。《なにか》は歩みをやめやしない。
展開した。第七の魔法を、ありったけ。もう魔力が尽きてもいいと言わんばかりに。
燃え盛る火の向こう。崩れ落ちる家屋の中。それは沸いて出た。王よ、王よの礼を挙げ、錯乱する瞑鬼など御構い無しに。《なにか》は増えていた。
逃げ道などもうない。学校までの車道には、既に何十という《なにか》が蔓延っている。それらが輪を描くように、徐々に徐々に距離を詰めて。
白銀の上で一人恐怖に慄く朋花の手を、千紗が強く握り返す。下のメンバーも、誰もがカムイを中心に擦り寄っていた。
ジリ貧なのは分かっている。だが、数で押され、体力も底をつきかけ。まだ旅の垢すら流せていない瞑鬼たちにとって、この状況は正に最悪の具現化だった。
「……俺以外、全員カムイに乗れ。なんとか道作る」
疼く激痛を気合いで堪えながら、瞑鬼は《なにか》を睨みつける。苦肉の策と言われれば、全くもって否定できなかっただろう。けれど、今はこれくらいしか。
『後任を承ろう。……果てぬ主人というのは、妙な気分だ』
「これしか取り柄がねぇんだ。許してくれ」
「……貴様、まだそんなことを……!」
『行くぞ夜一』
一言ありげな夜一を咥え上げ、そのまま瞑鬼から離れるカムイ。付き合いは短いが、やはり神というだけあって人の心を掌握するのには長けているらしい。
瞑鬼がこれからやろうとしていることに、瑞晴はすでに気づいている。その上で何も言わなかった。
前々からの生活に鑑みて、言っても無駄というのは重々承知のようだ。声さえ聞かなければ、後ろ髪引かれながらでも何とか立ち向かえる。
一呼吸置いて、ゆっくりと魔法回路を展開。太く強く、全身から緊張をばら撒くように。瞑鬼の体から、漆黒の粒子が顔を出す。それはぽつぽつと周りの大気へ広がって、炎に飲まれてどこかへ消える。
恐怖は無かった。もうこんな所でいちいち尻込んでられないほど、死ぬと言う事に瞑鬼は鈍感になっていたのだ。だからできる。自分が死ぬとわかっていても。
相手のど真ん中に特攻し、第五の魔法で全身を爆弾と化す。それが、瞑鬼が考え抜いた最大火力の攻撃だ。右腕一本であの威力なら、身体一つなら発破工事ができるほどになるだろうと。
「二度とやんねぇからな」
無造作に世界に別れを。どうせまたすぐ戻ってくる。だから、ビジネスホテルから出る時のように、さり気無く、踏み込む足が凍らないように。
底のない沼が埋まった二つのガラス玉が、じっと瞑鬼を見つめていた。思考が残ってないのだろうか。腐ってないゾンビ、そう形容した方が正しいのかもしれない。
けれど、今の瞑鬼にネーミングなんて暇はない。一刻も早く可能性を辿らねば。考えだけが先行した。体は後からついてきた。
目の前に飛んできた《なにか》目掛けて、思い切り左手を振るう。声が聞こえたのは、その瞬間だった。
「『七転八倒』」
誰のか知らない魔力。誰のか知らない声。ただわかる事は一つ。その刹那、瞑鬼の足は宙を蹴っていた。
古いコントでもしているかの如く、体が弧を描いていた。そのまま地面に頭から。星が垣間見えた。
もう満身創痍の全身激痛だ。だが何とか立ち上がる。見れば、《なにか》も天地を逆さまに。瞑鬼の嗅いだことのない匂いの魔力が、あたりを漂っている。
「……満堂。まさか、お前がくるとはな」
真っ先に魔法の出元に反応したのは、未だカムイに咥えられた夜一だ。幽霊でも見たかのような顔で、心慌意乱を体現している。
その視線の先。瞑鬼の目にも、その他誰の目にも、確かに満堂秀作は映っていた。
神峰勢力の一人、夜一と多分ライバル関係にあるであろう満堂秀作、通称マシュは、一人堂々と車道を占拠していた。白線のど真ん中に立ち、試合前のボクサーみたいな目でこの場を睨んでいる。
「話は後だ。聞きたい事は腐るほどある。目的地は分かっているな?」
地に伏す《なにか》に視線を注ぎつつ、マシュは冷静に問う。一瞬の沈黙の後、瑞晴が小さく返事をした。
「なら早く行け。その…………犬?ならすぐ着くだろ」
クイッ、とマシュが親指で刺したのは、案の定学校だった。やはり避難といえばそこが基本。つまりは、校舎までたどり着けば、最低でも何人か人はいると言うこと。そうでなければ、わざわざ満堂が見回る必要もない。
なぜ英雄でなくマシュが。神峰勢力の三人は、基本お互いの役目が被ることはない。即ち殴る英雄、バフのマシュ、ホイミのユーリと。そんな具合に別れていると。いつだったか、英雄様本人が瞑鬼に自慢げに語っていた。
そんなことなど露知らず、状況から彼を味方だと判断したカムイは、早速逃走の姿勢に入っていた。ずしんずしんと巨体に鞭打ち、満堂の匂いを覚えながら真横を過ぎ去って。
しかし、肝心の瞑鬼は全くと言っていいほど動けなかった。マシュの言った、『七転八倒』。もし彼の魔法が曰く通り、言葉を現実にすると言うものなら、少なくともあと三回は起きて転ぶを続けなければならなさそうだ。
無様にコンクリを踏み損ね続ける瞑鬼を、マシュはやれやれと言った目で眺めながら、
「置いてかれるぞ、神前」
「……クソが。来年受験なんだよ」
「ちっ……。『自家撞着』」
嫌々ながらも、満堂が祝詞を唱う。次の瞬間、瞑鬼の体は重力に逆らい瑞晴の元へ。優雅に歩くカムイに乗っていた彼女に、勢いよくぶつかった。
着弾点は控えめな胸。ほんのりショック吸収が働いた。完全に抑えきれなかった事に憤慨しつつも、今は瑞晴の驚きの方が優っているようで。嫌いなはずの満堂に、ほんの少しだけ感謝した瞑鬼。
もふもふのカムイの上。そこには、夜一を除いたフレッシュ全員が身を寄せ合うようにぎっしりと。だから当然、鬼野郎にゃ刺激が強すぎて。
「……大丈夫瞑鬼くん?」
「ま、まぁな。……それよりあいつ……」
地を駆けるカムイの背中から、満堂の影を追う。いくら彼に自信があろうと、相手は得体の知れない《なにか》なのだ。それに、満堂の魔法で単純な肉体強化を破るには、相当の魔力が必要なはず。
一度も実力を見たことがない瞑鬼にとって、後ろを任せる相手にするには気がひける。どうせ自分は死んでも生き返るのに、何故危険に巻き込まなければならないのか。そんな思いが腹のなかを渦巻いて。
だが、そんな瞑鬼の疑念を打ち砕いたのも、他ならぬ夜一だった。
「……あいつなら問題はない。強いからな」
「…………」
普段は無駄にプライドの高い夜一の口から、あからさまに他人を褒める言葉が出てくることは稀も稀。しかも、それがいつも対立しているマシュとなれば尚更だ。
それっきり、夜一はなにも言わなかった。振り返ることすら。自分が信じるやつが太鼓判を押した。そうなれば、瞑鬼はなにも言うことはない。
まだマシュと離れて数十秒なのに、もう学校の門が見えていた。人の気配はまだ。だが、わかる事は一つだけ。これで漸く、今夜の寝場所が確定すると言う事。
そろそろ完全に感覚が死んだ腕を外に放り投げ、瞑鬼はカムイの毛にダイヴを。ちょうどその後ろから、瑞晴がドミノ崩し的に体重を。多分ソラも朋花も千紗も預けてきた。
自分の肌より少し高めのカムイの体温。このクソ暑い夏の夜空に恨みを吐きながら、瞑鬼は安堵のため息を吐いた。