暮れの慟哭
夏の海をそのままひっくり返したような、大きく深い闇の空。その中で煌めく無数の星たちが、今夜は新月であることを告げていた。
そんな表裏一体の世界に一つ、異物のようで、だが決して馴染むことのないものが。直径10メートルほどの、少し大きめのクルーザー。灯りはなく、また船員は一人だけ。真っ黒な髪に、世界の全てが腐ったような表情で、その青年とも取れる男は笑っていた。不敵に。不気味に。
到底一人じゃ運転できないような船は、ゆっくりと岸辺へ向かっている。紅蓮に輝く大地がそこに待っているのに。
波のない、穏やかな海。骸骨もドクロマークもついてない、いたって普通な船の船首で、青年は世界を眺めていた。視界の先には、今もなお激しさを増す街が。週末の7日間とは、きっとこのような地獄のことを言うのだろう。そう思わざるをえないほどに。
声は聞こえない。きっと叫んでいるのだろう。助けてだとか、助けるだとか。だが、そんなのは全て炎に包まれ、青年の下まで届かない。あるのはかすかなエンジン音と、防波堤に波が当たる、それだけ。
「…………あんた、いつ来たの?」
ふと、青年の背後から声がした。まだ若い。10代後半といった所だろうか。大人しそうな、でもどこか、世界を諦めているような。そんな悲しい声。
さっきまで誰もいなかったはずの船尾からのそれを、青年は素知らぬ顔で受け止める。顔には絶やさず笑みを浮かべながら。
「……よく分かったな、瞑深」
神前瞑深、それが彼女の名だった。腰まで伸ばした黒髪を、サイドアップで束ねている。ご丁寧に眼鏡まで。必要もないのに、それが地味を装うファッションだと知っているから。
微妙に噛み合ってない会話に苛立ちを覚えながら、彼女は返答する。しかし丁寧に。決して、目の前の人間から油断を誘われないように。
「そりゃね。近かったし。……つか、質問に答えろ」
怯えていたのだろうか。それとも単に暑かったから。いずれにせよ、瞑深の背中を汗が伝った。
船が揺れる。少しばかり波が本気を出していた。もうすっかり夜だと言うのに、まだまだ落ち着く気はないらしい。
瞑深からの問いかけに、しばし言葉を言いあぐねる青年。しかし、何を言うかを探っていると言うよりは、もうある答えを咀嚼しているような。
瞬間、大きく船が揺れた。だが不思議なのは、運転室に誰もいないと言うこと。これだけのクルーザー、風で動くはずがない。しかも帆すら張られていないのだから。けれど確かに、海岸に近づいていた。
魔法回路を開いたまま、神前瞑深は返事を待つ。これがこの相手でなかったならば、もう辟易として去っていただろう。ないしは、心臓の一つでも貰い受けたかもしれない。
魔王軍幹部の彼女を相手に、青年は表情の一つも変えない。どこかで見たような腐った目に、明るく燃ゆる大地を映しながら。
「まぁ……ちょい前だな。手漕ぎだと時間かかんだよ」
首筋を伝う汗が、自分の下に滴り落ちる頃。青年は静かに告げた。
「……気まぐれかしら?」
瞑深は魔法回路を閉じない。それはこの船の異常さに警戒しているのもあるし、それよりも、目の前の相手の様子を伺っているから。
言葉の節々から、ひしひしと怯えが感ぜられた。風といっしょにそれを肌に受け、青年は、瞑鬼と同じ顔をした10代半ばの男は、目を細めた。まるでどこかにいる誰かを思い浮かべるように。
「……瞑深はもう会ったか?俺ぁ楽しみでな」
「……何がそんなに……。まぁ、あんたにゃ何いっても無駄なんだろうけどさ。明使」
明使、そう呼ばれた青年が、厳かに魔法回路を展開。歪な文様の浮かび上がった手を、茜がかった対岸に向けた。
「【大罪信仰】にも考えがあるんだろうからさ、あんまかき乱さないでよね」
その言葉を尻に、瞑深は夜の闇に消えた。まるで元から、そこには誰もいなかったかのように。影も音もなく。
一人取り残された明使。船は未だゆっくりと、しかし確実に岸へと亀の歩みを進めている。未来への希望と、まだ見ぬ先への不安とを込め、彼は呟く。
決して届くはずのないところへ。その澄んだ魂を持って。
「…………久しぶりだな。瞑鬼」
細い神経の形をした魔法回路から、純白の粒子が流れ出る。蛍の光のようなそれ。見るものが見れば、眼を奪われるであろう。
刹那、岸辺が轟音とともに消滅した。文字通り、炎も家も岩も、何もかも跡形もなく。
軋む船艇を踏みしめながら、明使は破顔う。もう魔法回路は閉じていた。
夏休みも終わりの八月末日。世界は動き出す。瞑鬼の知らないところで、ゆっくりと。錆びた歯車が、ようやく噛み合ったように。
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地獄が鳴いている。まさにそう表現したいほどに、目の前には絶望の二文字が広がっていた。紅と黒のコントラスト。他人事ならそう言えるのだろう。いや其の実、他人事ではあった。だが、それは同時に、自分にも降りかかっていて。
熱気に靡く白銀の背中で、瞑鬼は世界を俯瞰していた。見たくもない光景を。眼を反らせない現実を。
「……まじかよ……」
この期に及んで、それ以外の言葉はない。異常事態には慣れたつもりだった。魔女にも襲われ、魔王軍とも戦い、しまいには地方の神様まで。だからてっきり、もう多少の事じゃ動揺しないと。そう思っていたのだ。
だが、今フレッシュは誰一人として冷静な頭を持てちゃいない。目の前で、街全体に広がる大火災を見てもし正気を保てるんなら、そいつはきっと、戦争の一つや二つ乗り越えてきたのだろう。空襲やら爆撃やら、そういうのを生き抜いてきたんだろう。
だが、あいにく白銀ですら、街一つが紅蓮に囲まれた景色は初めてだった。
異変を察知したのは、街から数理離れた田んぼ道。花火大会でもないのに、随分と空が明るかったから。だからカムイの背に乗り、駆けて、賭けた。どうか無事であるように、と。
けれど、どうやら世界は瞑鬼に厳しいようで。つい数週間前、瑞晴と共に花火を見た場所で、今度は地上の大文字を眺めていた。
幸い山に火の手は至ってないが、それも時間の問題だろう。何よりも優先すべきは、ハーモニーとの連携だ。一体いつから。避難の状況は。聞くことは無限にある。自分の周りしか守らない主義の瞑鬼も、街がなければ暮らせない。
「……千紗、連絡は?」
焦る頭をなんとか冷静に保ちながら、あたかもへっちゃらかのごとく訊ねる瞑鬼。返ってきたのは、当たり前のような最悪で。
「……電話線いってんね。衛星の方も繋がんないし……、パパのやつ壊れてるかも」
こんな時だからなのだろう。いや、こんな時だからこそ。千紗はいつも以上に冷静を装っていた。目の前のことにだけ集中し、それ以外はあたかも視界に入ってないかのように行動しなければ、とてもじゃないが正気を保てない。
そして、それは当然瞑鬼とて同じだ。考えはあった。どう動こうかとも。だが、それらは頭の中をぐるぐると回っているだけで、全く言葉として落とせない。
息を吐く。心臓のリズムが少し軽くなった。大きく吸う。酸素が肺胞で解離して、よく見ろよというように現実を突きつけてきた。