白銀の決断
何やら腹にまだまだ溜まっていそうだが、何より安否の確認を優先したのだろう。溺れていた訳じゃないのに。
耳元で何やらぶつくさとぼやいている。でもそんなのは右から左へ消えていって。怪訝な目をしたカントが、瞑鬼の瞳孔を凝視していた。何かの反応でも見ているのだろう。だが、瞑鬼の視線はそんなところにない。
それはあたかも、解けないパズルを解いた時のような。瑞晴が悩む推理小説のオチを、何とか捻り出した時のような。そういう、頭にかかっていたパスワードが、からんと外れてしまった時の、一つ頭の中にもう一つ世界が出来上がった時の感覚。瞑鬼の脳は支配されていた。
「……なぁ、カント」
虚ろな瞳で問う。まだ訝しんでいるのか、それとも単に心配しているのか。カントは低い声で返す。
「……カムイが来たのはいつ頃だ?」
「……そうだな、十一年ほど前か。それがどうした?」
「…………いや、まぁ、おう」
煮え切らない態度が癪に触ったのだろう。夜一はいつもより明らかに不機嫌な様子で、瞑鬼の口元を見守っている。自体を察してか、女子側からの声が消えていた。
「……カムイが来る前に、俺この世界に来てる」
ぽつんと。まるで与太話でもするように。瞑鬼はそれを言葉にしていた。
なぜいってしまったのかは分からない。ただ、本当に。気づいたら口にしていた。伝える気などなかったのに。あんな過去、誰かに知られたいと思ったことすらない。同情を買いたいとも。
だからなのだろう。瞑鬼自身も、少しの間思考が停止していた。だがすぐにハイライトを取り戻し、ほそい瞼で周りをぐるぐると。そんな行動が可笑しかったのか、くすりと笑うカント。
「……んだよ」
「いやなに、あの鬼野郎が間抜けなツラ晒しやがったもんだから、ついな。……ってか、それマジか?」
ニコニコとひたいに笑みを被せながら、友達との昼休みテンションで訊ねるカント。正直、今はこの態度がありがたい。
「十二年前か、そんくらいだな。俺ぁ母親とこの温泉に来てたんだよ。なんか、家出的なのだった気がする」
口では冷静を装いつつも、頭の中はパニックまっしぐら。断片の記憶すら、眠っている間に消えていた。ここに来て回顧が確かなものとなったのは、定着している思い出が強いからなのだろう。あるいは、そうなるように頭を弄られたのか。
この聖地で、温泉で、瞑鬼は自分の過去を一つ手に入れてしまったのだ。それも、かなり火薬の匂いがするやつを。
唐突な瞑鬼の発言に、だまりこくる一同。あの白銀のカムイですら、自分の意見を口にしなかった。受け入れろとは言わない。言えない。何せ、まだ瞑鬼自身理解できていないのだから。
「……洗脳が効かなかったからにゃ、なんかあると思ってたんだよな」
「……そうだな。あっちからこっちに来たというよりは、こっちの世界から向こうへ渡り、帰って来たというのが正しい気もするが……。俺にはわからん」
「…………だよな」
瞑鬼ですらわからないことを、自分じゃない人間が知っているはずがない。対して悪い記憶じゃないだけに、よりそれに対する不信感が芽生え出して。
だが、それ以上は誰も追求しなかった。そんな事をしても、現状は変わらない。ただ今あるのは、昔失っていたはずの記憶が蘇ったということだけ。その眼前の事実だけを省みるのなら、収穫という事で間違いない。
逆上せてしまったのか、記憶の流入で頭が回らなくなったのか。ふと立ち上がり、血流の促進を。だが、足に力が入らずそのまま二人に受け止められるという形に。
「……貴様が誰であろうと、例えどこから来てようと。俺はそんなこと知らん」
無機質な筋肉の塊が、少しだけ震えていた。こんな状況で、訳のわからないことばかり起こって。
それでも毛の生えた心臓を演じなければならない夜一の役目は、他の誰にも完遂できないものだ。
足に力が戻る。視界が晴れていった。立ちくらみのような感覚は次第に薄れ、やっと戻ってきた瞑鬼。全裸のまま暫く固まっていたかと思うと、夜一の胸板を軽く打つ。言葉はいらなかった。
それからはもう、完全にいつもの瞑鬼に戻っていた。オヤジ臭い声を漏らしながら湯船に浸かったり、岩をよじ登ってエデンを目指そうとしたり。記憶が戻ったのは限りなく気色の悪いことだが、過去はもう捨てたのだ。カムイの件を考えれば、もう不思議だ謎だいっても仕方ない。
風呂上がりには、不知火兄弟からコーヒー牛乳が支給された。なんでも、近くの村の名産品らしい。時折そこに降りていって、金と資材を調達するのだとか。
曰く、久遠は白銀の民であり、未だカムイ信仰の残る土地だそう。教理や教義は一切ないが、今でも家に狼の彫刻がある家も多いらしく。思えば瞑鬼も、おじいさんの家で見たような見てないようなだった。
本来ならば堪能するはずの北海道を、フレッシュは完全別角度から味わった。どうせなら修学旅行に取り入れたいが、二人じゃ捌ききるのは困難だろう。名残惜しくも、この地に居られるのはもうあと数時間ほど。
「……ごめんね、せっかくの旅行台無しにしちゃって。……お金返すよ」
久々に関羽とのじゃれ合いを楽しんでいたら、ふとピリカがそんな事を。膝に乗る毛玉の喉を撫でながら、瞑鬼はそっと振り返った。
瑞晴たちは、どうやら野生動物たちと戯れているらしい。彼女を中心に輪ができて、それを夜一やソラが取り囲んでいる形。
「……それに、何回も死んじゃって……。もう、ほんと。ごめんね。……って、謝って済む話じゃないよね……」
そのピリカの態度は、とても前日まで瞑鬼を殺そうとしていた氷の魔女とは思えなくて。おまけに風呂上がりのせいか、やけに肌が紅潮していたりして。真っ白な髪が日に揺れる。とても怒れる気分じゃない。
「……あぁ、まぁ、なんだ。金とかはいい。どうせ俺ら持ちじゃねぇし。むしろもっと無駄遣いとかして良いんだけど……おう」
何故だろうか。瞑鬼は彼女を前に、少し緊張していた。ソラたち魔女には及ばないが、ピリカの美貌のせいだろうか。肩くらいまでのサラサラした髪が、時折光を反射して虹色に光るからだろうか。それとも、やはり瑞晴に似ているから。
理由はなんだって良い。それに、自分が何をされたかなんて関係ない。どうせ死ねる体じゃない。むしろ、カムイや白銀の民という矛を手に入れれたのだから、三回ならば安いもの。
だが、肝心のピリカはそう思ってないらしく。それも当然だ。人を殺しておいて、何の咎めも無しじゃ気持ち悪いのだろう。瞑鬼には理解できない。
が、かつてそれを瞑鬼に教えてくれたやつならいた。ついその辺で彼女が笑って木の実を齧れているのは、瞑鬼が死ななかったから。そうじゃなければ、とっくに白十字教の教理通り十三転生の真っ只中だっただろう。
「……こ、こんな時、何したらいいんだろうね。ほっとしたとか、罪悪感とか……。そういうの、いっぱいで……。瑞晴にも朋花にも、みんなに、私も、兄さんも……」
どうしようもないくらい、瞑鬼の周りは不器用なやつだらけだった。どうしてこう、口下手で感情を素直に表せられないのだろう。類は友を呼ぶ、というやつなのだろうか。
堰き止めていたものが弾かれたように、ぽろぽろと大粒の結晶が溢れ落ちた。ピリカの魔法で固まったそれは、なぜだかやたらと美しく。拾い上げる。腰をあげる。
かける言葉は決まっていた。
「…………安心しろ。俺は死なん」
キザなのは分かっている。自分には背負いきれない事だとも。だが、分かっちゃいるけど止められない。瞑鬼が嫌いなのは、自分の邪魔をするやつだけ。目的が同じなら、たとえ隣のレーンだろうが関係ない。
気がつくと、ピリカは何かに頭を抱かれていた。それはまるで子供でもあやすように。きっと、この手は何度も同じように救ってきたんだろう。自分が一番不器用なくせして、気取られてないとか思っていて。彼は正義の味方じゃない。
彼は、ピリカの味方だった。瑞晴の味方だった。ソラの、夜一の、朋花の、カントの、カムイの、ひいては自分と同種の、全ての下に立って、下から支えている。本人だって気づいているだろうに、それを誰にも言わないで。全部を閉まって、一人だけで。
最近鍛え始めたであろう、少しばかり筋肉のつき始めた、まだ細い腕。ピリカの中で、何か吹っ切れた音がした。
「……見てるよ?瑞晴」
「…………げっ!」
ピリカの嘘に慌てふためいて、さっと手を離す瞑鬼。少しだけ名残惜しかったのは、本人だけの秘密。
「……ありがとね。色々気づかせてくれて」
「……べつに。俺らも楽しかった。裏北海道旅行できたしな」
ふっと笑うピリカ。つられて瞑鬼も口元を崩す。
そろそろ湯冷めも始まる頃に、みんなは神殿の下にいた。もう準備万端なフレッシュに、やたら軽装な不知火兄弟。もう時間はないというのに、焦る気配はなし。
この時点で、気づいていたのは瑞晴だけ。朝に話を聞いていた瞑鬼ですら、のちの事態は予想できなかった。
千紗の携帯で電車の時間を確認。逆算すると、そろそろ青森行きのフェリーに乗らなければ。カムイは後から、ハーモニーのテレポーターと連れに来るという予定を立てている。未だ陽一郎にも英雄にも連絡はつかないが、帰ってから事情を話せば、二人なら協力してくれる。
あとは、二人の出発準備を待つだけだった。瞑鬼は思っていた。二人は同行するのだろうと。何せ神様が連れ去られるのだ。敬虔な使徒として、おいそれと離れるはずがない。そう思っていた。
「……早くしろよ。もう時間ねぇぞ」
ちらちらと時計を見ながら、それとなく急かす瞑鬼。べつにカムイに乗っていけば余裕で間に合うのだが、無駄に心配性な性格が出ていた。
夜一も千紗も、ソラでさえも。待っていた。だが、二人はただじっと。まるで時を待つように。
切り出したのは、後ろにいた白銀の神狼自らだ。
『……よいのだな?カント。ピリカ』
「…………えぇ。決めましたから」
展開を読めてないフレッシュ一同に、ピリカが決定的な言葉を吐く。
「……私たち、ここに残ります」
それは、はっきりとした意味を持って、瞑鬼の脳内を貫いた。