銀の煙の旅日記
石畳が続くその先に、控えるは木柱が何本か。それが五角形を描いて、もの見事な神殿らしき建物となっている。壁はなし。だが天井はある。どうやらだいぶ昔に建築されたようで、もうどの柱にも立派な苔が生えている。まさに聖地と呼ぶにふさわしい造りに、思わず歓喜の声を上げる瞑鬼。
足早に近づいてゆく。ふと、そこで気づいたことが一つ。さっきまで辺りに漂っていたはずの森の匂いの中に、硫黄の成分が含まれていたのである。地元の名産が温泉なだけに、この鼻を潤すような匂いを間違えるはずがない。
「……聖地って、温泉?」
「ああ。なんでも俺たちの先祖が発見する前から、動物たちが湯治に来ていたほど由緒正しいやつらしいぞ」
「まさか……、温泉リゾートを楽しんでたとはね……」
「帰ってきたら頬ずりの刑だな」
口では文句を垂れていても、疲れているのは事実。しかも幼い頃から慣れ親しんだ、湯気立ち込める天然のお湯。だから自然と吸い寄せられて、取ってつけたような岩にによっこいしょと腰を下すのは避けられない。
神殿の中は、いたって簡素な造りだった。地面いっぱいに石が張りつめられ、それがいかにも手作り感を増している。あるのは襖一つ分ほどの仕切りが一枚と、恐らくカントたちが使うのであろう竹籠のみ。穴場の中でも更に秘境。そんな雰囲気だった。
白煙が立ち込める。朝の気温は未だ低く、今日はずっと長袖が丁度いいくらいだろう。
大自然に囲まれた中の、まさに隠れ家的な、そんな場所に、瞑鬼たちフレッシュはずらり並んでいた。目的のネコを回収したのは良いものの、なんとびっくりそいつがまだ帰りたくないとほざくのである。もちろん吠えているだけなのだが、なんだか妙にそれが訴えかけているようで。
『……主人殿も、先の戦で疲れておろう。良かったら感じてくれぬか。我らの聖地をその肌で』
そんな白銀からの誘惑があった日には、もう瞑鬼の情動は抑えられない。
目の前に初めて見る温泉があって、しかもそこが貸切で。露天風呂で。おまけに自然に囲まれていて。あろうことか、ここ何日か風呂に入ってない。
帰りは白銀も連れていかなければならないから、真っ当な交通手段じゃ無理だろう。詰まる所、これは神からの天啓なのだ。
無性にむず痒くなって、気づけばみんな目で確認しあっていて。時間がないのは分かっている。今日中に帰らなければならないと。船をチケットを取るとして、今から港まで一時間くらいだろうか。切符は最悪払い戻しでも問題ない。が、逆算して考えるとお昼までには此処を発たねばというところ。
「……ま、いいか」
だが、そんな時間きっかりは学校行事だけで十分。それが瞑鬼の下した判断だ。いずれにせよ次行くときには否が応でもきっかり動くことになる。ましてや今回はフレッシュへのご褒美というのが名目なのだ。リーダーが汗を流すというのならば、背中を流すがメンバーの流儀。
「一時間だけな」
「さすがリーダーだ」
「リーダー、女子は二時間欲しいところであります。ここ何日か入ってないので!」
「……んじゃ、昼までな。街にゃカムイに乗ってく」
瑞晴きっての願いということで、難なく陥落されるえこひいきリーダー。だがこの職権乱用も、胃の弱い瞑鬼への特権と思えば安いもの。
そうとうストレスがたまっていたのだろう。瞑鬼が許可するとほぼ同時に、瑞晴たちは仕切りの向こうへと走っていった。だが、なぜか残ったやつが一人。そいつはニコニコとした猛禽のような鋭い眼光でカムイを睨み付けると、夜一とカントを押しのけ割って入ってきた。
「……お背中流しましょうか?瞑鬼さん」
どこの旅館の女中を演じているのか、ソラは準備万端というやつだ。いつのまにか袖をまくって、どこから取り出したのかタオルまで持っている。
男子高校生として、この提案は最高の二文字で表されることに間違いはない。相手はモデル顔負けな絶世の美女、しかも自分に惚れてくれてる。そんな彼女の望みを叶えられないほどに器の小さい男にはなりたくなかった。
だが、真の問題はそんなところに転がってなくて。全てを把握している瑞晴大明神が、薄いベニヤ板の向こうから勧告を。
「ソラちゃーん、私が流したげるー」
なんの変哲も無いはずの台詞なのに。瑞晴がそれを口にするだけで、二人の間に火花が散った気がした。止められるべくの無い争いに、瞑鬼の心はクロスラミナのようになっていた。
ソラも消えたことを確認し、いざ服を脱ぐ。今更野郎同士で恥ずかしいなんてあるはずが無し。それでもやはりプライドが邪魔をして、ついつい腹筋に目がいってしまう。
そこにあったのは、ナチュラルボディビル大会だった。きっと重度の筋トレオタクなのだろう。鍛え上げられたシックスパックに、見た目の割には太い腕の夜一。対比的に、自然についたと思われる、控えめな筋肉のカント。だが体重は向こうの方が上らしく。
部活の更衣室のような、自慢野郎による筋肉の見せ合い。そんな下らない戦いが行われていた。
仕切りは風呂の中まで続いていた。といっても、元々中は大岩で分断されているらしく、繋がっているのは端のごく一部だけ。つまり、願っていた覗きという線は厳しいらしい。
「……なんで穴開けてねぇんだよ」
頭にタオルを乗せながら、カントを突く。
「なんで俺が妹の裸覗かにゃならねえの?さてはおまえロリコンだな?」
「おぉ。よくわかっているではないか。なにしろコイツは小学生を拾ってくるような真性のーー」
「喧しいぞバカップル。似たようなもんだろ」
「貴様……千紗の胸は大人のそれと大差ないぞ。しかも脚ーーーー」
夜一が名前を出した瞬間に、上から岩が降ってきた。直径三十センチほどのそれは、見事夜一の頭蓋に激突。だがそれを予見していたのだろう。夜一は魔法回路を開いていた。
やれやれと肩をすくめると、それっきり夜一は話題にすることはなかった。
目を閉じる。聞こえてくるのは、柔らかな凩のみ。木々がざわめく。心の不浄を拭うように、冷たい風が一つ吹いた。立ち込める硫黄の香りに、冷たい緑の光。頭と体が切り離されたような感覚だった。
唐突に、しかしまるで待っていたかのように。それは突然瞑鬼の頭に降って湧いた。
ここじゃないような、でもやっぱりここと同じような。そんな景色が眼に映る。木が年老いているのだろうか。やけに背が高い。自分は幹のほんのわずかな部分までしか視線がない。見上げると、そこには夢幻に思える黒い影が。
全てが幻想のような。遠く彼方に消えてしまったような。そんな不思議な感覚だった。
どこだかは分からずに、でも隣にいる人が誰なのかは知っているような。連れられて、向かった先は温泉だった。誰もいない、まさに秘境を体現したかのような。その時の瞑鬼は、それを特段おかしいとは思わなかった。というのも、判断力に欠けていたからであろう。それよりも先に、久しぶりのお風呂という存在が、何か幼心に惹くものあったのだ。
誰もいない露天風呂で、走った記憶が蘇る。危ないから大人しくなさい。そんな声が飛んできた。しゅんとしながら、けれど貸切の喜びに浸りながら。瞑鬼は百を数えだす。それが日課だったから。隣を見ると、その女性も数を数えていた。
マイナスイオンが渦を巻き、心の中の不浄を拭い去った。記憶が揺らぐ。だが、確かなものが一つだけ。そこは空気が違ったのだ。
「ーーーーーー瞑鬼っ!」
肩を揺すられ気がついたのは、ちょうど二十三までカウントしたところ。薄ぼんやり開いた目の先に、心配そうな二つの影。
「……またか?」
眉間にしわを寄せた夜一が聞いたのはそれだけだった。