ただいま。
ゆったりゆったり、地面が揺れていた。どこのプレートテクトニクスに巻き込まれてしまったのか、瞑鬼は揺りかごに入れられた赤子のごとく眠っていた。その朧げな脳裏に映っているのは、遠い日の記憶。
その時も、瞑鬼は揺られていた。自分より大きくて、少しだけ暖かく。世界で一番安心できる場所と言っても過言じゃ無い。瞑鬼は誰かの背中にしがみついていた。手足の長さから察するに、歳は五つか六つ程度。旅行の帰りなのか、やけに疲れていたことを覚えている。
帰り、なんか食べる?隣にあった顔が、柔らかな表情で聞く。甘いもんがいいな、もうお魚飽きたし。瞑鬼は答える。また優しい微笑みが浮かべられた。瞑鬼も笑っておく。
鼻腔をくすぐる懐かしい匂いに、見覚えのある髪、聞き慣れた声。それが母だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
靄がよぎる。頭に霞がかかったように、目の前が真っ白になった。瞬間、瞑鬼の意識は現実世界にカムバック。
「…………ん?」
目にかかる少しばかりの陽光だけを頼りに、瞑鬼は薄っすら瞳を開く。まだ体は動かない。ただ、ほのかに地面が暖かい。そんでもってゆっくりと、それでいて大きく。大地が動いていた。
白銀の毛並みが、瞑鬼の鼻にさらりとかかる。ちょっとだけ香る獣臭に、瞑鬼の頭は事態を理解し始めていた。
「…………カムイ?」
『おぉ。起きたか主人殿』
「あ、おはようございます瞑鬼さん」
「……おはよソラ」
空が赤らんでいるのを見るに、今はおはようにしては少し遅いらしい。だがまぁ、新しい命ということで、おはようなのは適切なのかも。回らぬ頭で、そんなことを考えていた。
揺れるカムイの背に乗せられ、瞑鬼はどこかに運ばれていた。恐らくはソラが移動を指示したのだろう。何回か【改上】を見ているだけに、戻ってくるまでの扱いはお手の物だ。
夜が近いからなのか、それとも白銀を恐れてなのか。森からはほとんど声がしなかった。遠くの方で雁がたまに吼えるくらい。亜寒帯特有のツンとした冷気と、森の匂い。それが今回の蘇り特典のよう。
『まさか……かような事が実在するとはな……。間近で拝んでも夢幻なのではと、な』
どうやら神様であっても、瞑鬼の【改上】は珍しいらしく。それもそうだろう。時を巻き戻すわけでも、ましてや回復するわけでも無い。瞑鬼の唯一の魔法は、体が完全に死から舞い戻ってくるのだ。非現実的すぎるそれを、受け入れてくれただけでカムイの器が知れる。
前回と違い、今回の復活はかなり順調だ。すぐ起き上がっても問題ないし、何より魔法回路が完全に元どおりになっている。
そういうところを鑑みれば、やはり新たに得る魔法が関係している可能性もあるだろう。だが、瞑鬼はあまり深く考えすぎないことにしていた。ただ、また日常を掴む機会を得た。それだけでお釣りが来るほど最高なのだから。
必死にしがみついているわけでもないのに、まったく落ちる気配がない。クソ親父よりも大きな背中に、安心感を覚えたのも事実。さらにこの偉大なる白銀の神狼が仲間になってくれたということもあり、清々しい気分だけが脳を支配していた。
「……そういや、どこいくんだ?」
「……そろそろ夜ですからね。多分みんな、待ちくたびれてますよ」
「……晩飯なんだろな」
『本土の味は久方ぶりでな。我も興がそそる』
まるで遊びから帰る高校生のような、普通の会話。とてもさっきまで腕を食ったり食われたりしていた間柄とは思えない。だが、目的が同じだからこそ。信念がすり合わせられるからこそ、二人は互いを信頼できる。
向こう側の戦況だって、一人として情報を持っちゃいないのだ。それなのに、三人は確信していた。もう争いは終わったのだと。これが、完なのだと。
それから森を歩くこと十数分。緑に混じってほんのり漂う文明の香りを、白銀が瞬時に捕獲した。それに従って向かうは、見覚えのある道。迷わないようにと印をつけた木があった。多くの足跡も。恐らくは野生動物のものなのだろう。それも、集団で移動するような。
次第に煙が見えてきて、声なんかも聞こえてきて。気づけば瞑鬼はカムイの背中から降りていた。すっかり袖がなくなってしまったシャツ。怒られるのは避けられそうにない。
ふぅ、と息を一つ吐き、瞑鬼はブッシュをかき分けた。
「……む?瞑鬼か?随分と遅かったじゃないか。もうそろそろ出来るぞ」
ここに来て、初めて眠った場所。白銀の民とフレッシュが血を流しあった場所。そんな滅びたはずの村が、一夜限りの明かりを灯していた。
薪を持って移動途中の夜一が、瞑鬼の目を見て少しだけ微笑んだ気が。だが、その余裕そうな表情も、カムイを見た瞬間に凍りついて。
「わ、わんこ先生か……」
何やら訳のわからない言葉を吐き残し、そそくさと場から離れていった。白銀も自分が恐怖の対象になることは慣れっこなのか、小さじ一杯分だけ悲しんだ。
それから匂いに誘われて、向かう先は家の中。ここ数ヶ月、ずっとその味で生きてきたからわかる。このなんとも言えない味の薄いような、調味料が足りてないような、そんな香り。瑞晴お手製のチャーハンのそれだ。
「……腹減ったな」
『芳しきかな。主人殿がうまそうに見えてきたぞ』
「さっき食ったろうが」
「わ、私はまだ……」
「…………また余計な言葉を……」
気がつくと、腹の虫がやけにうきうきと働いていた。早く仕事をよこせと言わんばかりに垂涎が。
そう言えば、今日はまだ一食しか食べてない。食い盛りの高校生にとっちゃ、そんなの拷問にも等しくて。
階段を上がる。いつ頃建てられたのか、それは踏み抜けそうなくらい不安定で。でもそんなことを気にせずに、瞑鬼はドアノブに手をかける。
犬を拾ってきたなんて知れたら、あのお袋気質の瑞晴のことだ。まったくも〜。そんな一言が飛んでくるかもしれない。そうなったら瞑鬼は返す。
世話は俺がするよ、と。下らない一つの家庭のような、そんな当たり前にどこにでもありそうな。それを求めていた何ヶ月かだった。
「ただいーーーーーーーー」
「ほらほら、みんな外出てね。瞑鬼くんが帰ってきたら、食べられるかもだよ。ね?」
ドアノブに手をかけた瞬間、それは重さを失って。瞑鬼側からだったら押し戸なせいで、当然かけた体重はそのまま前にスライドし。
体幹がまだ戻ってないせいか、瞑鬼の重心は扉の向こう側へ行っていた。だから当然、その前にいる人物にぶつかるわけで。でも向こうもそれなりに鍛えているせいか、反射的に抱きとめられて。
「……おかえり」
「…………おぅ」
瞑鬼は頭から瑞晴の控えめな胸に突っ込んでいた。まだ素手で触ったことがないのに、初めてがおでことは。なかなかに上級者向けである。
気恥ずかしさと、大さじ一杯の嬉しさが頭の中を駆け抜けた。そんな瞑鬼の足元を、すらりと抜けて行く白い物体がたくさん。見るに、小さな狼たちらしい。
いつまでもこうしていたかったが、ソラと千紗からの視線が痛いので断念。続きはまた今度のお楽しみに。
「…………怪我ないか?」
「ご覧の通りでございますよ、主人殿」
「そりゃよかったよ、妃殿」
いつも通りであまりにも代わり映えのない瑞晴に安心し、瞑鬼は家に入る。もう北海道に来てからは、こっちでの生活の方が長いかもしれない。せっかく旅費をもらっていた旅行だけに、少しばかり勿体無い気もするが。
部屋の中を見る。あるはずの無かった景色。つい三日前の自分に教えても、一蹴するであろう光景。瞑鬼が望むべくそれは、ちゃんとそこに揃えられていた。
「こ、これは何だ夜一。遊び道具的なやつか?」
「スマホと言ってだな、まぁ、遊びと言えばそうかもしれん」
「私妹欲しかったんだよねー。うん。朋花ちゃんなら歓迎だよー」
「ピリカめっちゃ可愛いし、いいよ。銀髪いいなー」
馴れ合いと呼ばれてもいい。ご都合だと罵られてもいい。これが、これこそが、真に瞑鬼の求めていたものだった。
魔女の時も、その前も。こんな結末にはならなかった。だから、この世界に来て初めてだった。いや、生きて来た中で、この十六年という長いような短いような時間の中で、やっと手に入れた。
日常系というやつが、部屋の中に広がっていた。
敵だったやつも、最後には打ち解ける。誰であろうとハッピーエンドに持っていく。
心に区切りをつけられなかったあの時とは違う。ここにあるものを護る力なら、もう手に入れた。後は失わないように。もう、取りこぼさないように。
「さ、それじゃリーダーも来たことだし。ご飯にしよ」
「今日の残飯処理は頼んだぞ、瞑鬼」
「一番最後だし、それくらいはねぇ」
乗っかれように言葉をかぶせる朋花。こっちの生意気さも相変わらずだ。
「残念、最後はソラだ」
「ほんとですか?大歓喜!」
瞑鬼のうっかり発言に、目を星のごとく輝かせるソラ。そう。魔女の一族はこれでもかというほど飯を食うのである。べつに食べなくても問題ないが、本気になればお櫃の一杯は余裕だろうとのこと。改めて、魔女の凄まじい生命力の源泉を見た気がした。
せかせか高校生だけの手で運ばれる数々のディナーたち。今夜はどうやらカントたちが食材を持って来たと言うことで、珍しく新鮮な野菜や肉があった。それらは既に、桜家の包丁こと瑞晴によって見事に彩りを加えられている。
とは言っても、スキルなら瞑鬼だって負けちゃいない。少し家事ができる程度の高校生二人でも、合わさればそれなりの味は作れるわけで。あーだこーだ言いながら完成した料理はおよそ12品。ぶっちゃけ余裕だ。
白銀たちには特別メニューということで、切っても焼いてもない鹿肉がまるまる三頭分送られた。これも自分たちで血抜き、解体までやったのだとか。不知火兄弟の器用さに驚かされたフレッシュ一同。
皆んなが何となく準備ができて、それをお互いに察して。なんだかこのまま食べ始めるのもアレなので、瞑鬼によって合掌が行われた。