神の決意
魔力を撒き散らしながら、瞑鬼の頭に迫る大きな肉球。柔らかさなど微塵も感じさせない。死ぬ。その感覚だ。いつも味わって、もうすっかり慣れてしまった。いつもなら諦めていただろう。また次だ。そう思ったかも。
けれど、今は違う。まだ死ぬわけにはいかない。今この瞬間も、瑞晴たちがカントやピリカと無駄に白熱なバトルをしているかもしれないのだ。こんなとこで自分だけやられてちゃ、合わす顔がない。
「……っ!」
筋肉という筋肉のバネを生かし、全力で寝返りを。360度回転し、なんとか直撃は避けた。
ここに来て、ようやく頭がバトルモードに。交渉なんて高尚なこと、自分にできると思ったのが烏滸がましかった。いつも通り、いうこと聞かない馬鹿は鉄拳で黙らせる。それが瞑鬼流。
気合いを入れて立ち上がり、無限に近い魔力を解き放つ。もう横腹が痛いなんて女子高生のような理由で、逃げている時期じゃない。
カムイが瞑鬼に気を取られているすきに、ソラは見事脱出を。さすが魔女だけあって、危機察知能力は高かったらしい。それに、彼女自身瞑鬼に華を持たせようともしているのかも。
カラが出てくれば、白銀との戦いも幾分かマシになるかもしれない。ただ、それじゃ瞑鬼のペットにゃできない。従えるのは瞑鬼。だから、従えさせるのも瞑鬼。
『…………救わねばならぬ』
脳に直接語りかけるように、白銀の声が届いた。悲願でもするかのように、恐ろしく鬼気迫った表情で。
『我が民を。民が我を。例え最後の一人になろうと、世界が違おうと。我を求めるのならば……』
救いたい。そんなの瞑鬼だって一緒だ。こっちは瑞晴に夜一、千紗にソラ、朋花。おまけに陽一郎やハーモニーのメンバーなど、両手でも足りないくらい。こんなの斤量超過もいいところ。
だからなんだ。重かったら捨てる。そんなアホな話があってたまるか。カムイが白銀の民を救いたいのなら、そのカムイを飼おうという瞑鬼に、覚悟がないわけない。
今やっと、自分がやるべきことを自覚した。カムイの叫びが、ふるえが、瞑鬼の重くくすんだへどろのような心に響いてしまった。
『あぁぁぁぁっ!!』
「っづぁぁぁぁ!!」
それは、戦いを外から見ていたソラだから知れたこと。本人たちは、そんなのいちいち気にしちゃいなかっただろう。だけど、たしかに目に映った。
瞑鬼の背中から生えていた、漆黒の腕の群れ。それは数えて10を超えていたのだ。足りなかった何かを、白銀が埋めたのだろうか。
純粋な魔力の塊である第七の魔法と、カムイの牙がかち合った。お互いに一歩も引けない。策略なんてあってないような。イノセントな魔力と気合の勝負だった。
軋む。脳がはちきれそうだ。せっかくくっつきかけていた傷口は、今の衝突のせいか出血大サービスで血液を大量放出中だ。しかし治療に回す魔力すら勿体無い。カムイの莫大な魔力と、鍛え上げられた魔法回路。それは瞑鬼の何回かの死と同様なくらい洗練されていた。
前線を保っていた一本が、千歳飴のように砕かれた。すぐさま第2の腕を。だが、そう何度ものってくれないらしく。
刹那で迫る死神の鎌を、なんとか魔法でガード。はるか後方まで吹っ飛びそうになったのを、また第七の魔法で押しとどめる。
「……あるぞ」
『…………』
息つく間もない白銀の猛攻を、腕を駆使して防御の体制に。他の魔法を使おうなんて考えようなら、その瞬間に不意を突かれる。さすがは魔王軍や魔女を単独で撃破できる生物だけあって、一撃一撃の重さまはこれまで出会った中で誰よりも。
だけどこっちは20本、あっちは使えて二本なら、当然そこに付け入る隙が生じる。瞑鬼はそれを狙っていた。何も気にせず、全力全開をブチ込める瞬間というやつを。
前足を弾く。仰け反った白銀の身体の下、一箇所だけの、針のような急所。英雄と吉野の地獄特訓のおかげで、動体視力だけなら一級だ。
脳は切り替えずに、そのまま魔法回路は展開したまま。瞑鬼は第五の魔法をぶち込んだ。炎の逃げ場もないくらい、正確無比に。左手を丸焦げにしたその技は、見事弱点にジャストミート。白銀から鈍い声が上がる。
『……世迷言を』
だが、無慈悲なのはどうやらこっちの方のようで。瞑鬼の最大化力を持ってしても、白銀に残ったのは火傷程度。しかも、肝心の瞑鬼は左手が焼け焦げている。燻った火種が、そっとその炎を揺らがさる。
正直、もう限界はとっくに来ている。もう瞑鬼を動かしているのは、リーダーとしての責任やら守るための闘志やら。そういう、気力なしには続かないものだった。
そしてそれは、白銀にも言えるようで。彼の理想に、彼の肉体は付いて行ってない。羅刹の成り果てたカムイの姿は、自身の血と瞑鬼の返り血とで真っ赤だ。
だからこそ。そんな危険だからこそ。逆境になればなるほど、世界が瞑鬼を嫌えば嫌うほど、彼は眉をひそめ、恨み言を吐きながら。
また手を伸ばす。
「……教えてやるよ。白銀のカムイ。見せて欲しいんなら、いくらでも見せてやる」
目が濁る。心は淀み、血が何かドロドロとした別の液体になるような。昂ぶっているわけじゃない。何か悟りを開いたわけじゃない。ただ、瞑鬼は決めていた。この馬鹿騒ぎの解決法を。
自分にしかできない、たった一つのその手段。
拮抗していた第七の魔法と白銀の牙。それはカムイが力を込めることなく、一瞬で空気に溶けた。
魔力が尽きたのだろう。そんな確信がカムイの頭をよぎる。けれど作戦か。そんな考えも。だが、今は全てが本能に付き従うのみ。映るのは瞑鬼の姿。狩るべき敵で、何もなくて。口だけ叩く、ただの人間。
大地を揺るがすカムイの足が、大きく雑草を踏みにじる。迫る死。恐怖はもはや抑えられないほどに。
声が出そうだった。瞑鬼さん、と。こんなのソラが求めた結末じゃない。命を投げ捨てて、それで何が変わるのか。心臓が熱くなる。彼女の声が聞こえてくる。だけど、今はまだ。ただじっと、瞑鬼の選んだ道を見てみたいから。
瞑鬼は動かなかった。逃げ出すだろうさ。普通なら。こんなの、何を示すとかの問題じゃない。相容れることができないのだから、それで良いじゃないか。一月前の瞑鬼なら、きっとそう言った。
だけど違う。瞑鬼の目に映る敵は、神前義鬼ただ一人。それ以外は味方かそうじゃないかなんてどうでもよかった。目標のためなら、手段を選ばない。カムイの力は役に立つ。それが建前。
本音は、多分別なんだろう。心の底が語っていた。瞑鬼は動物が好きなのだ。
『ーーーーーーっ!!』
それは、ソラの目には瞑鬼が上半身から齧られたように。白銀からもそう。
瞑鬼だけが違う。見る世界も、見えている世界も。
白銀の顎が降ろされた。遅れて音が。さらに遅れて、鮮血が勢い悪く流れ出る。
『…………貴様……』
どうせ口だけだろうと。直前で、何か罠を仕掛けているのだろうと。わかっていた。瞑鬼が狡猾だということは。だが白銀は知らない。神前瞑鬼の本質を。未だ嘗て、見抜いたのは一人だけ。
目の前に瞑鬼はいた。だが、たしかに何かを噛み切った感触はある。答えはすぐに向こうから。
「…………足りねぇんだよ。俺が助けたい奴は、二本なんかじゃ全然。だからてめぇがいる。他の奴らがいる」
『……分からぬ。我には兄が……』
「守りたい奴一人につき腕一本。……これはてめぇのぶんだ」
瞑鬼が差し出したのは、命なんかじゃない。簡単に命を投げ捨てるリーダーに、誰が付いてくるというのか。そんな無責任な奴は、白銀が認めるはずがない。だから瞑鬼は差し出した。
頭は仲間を導くため。足は共に連れそうため。心は一つに、身体は温もりを。
救うためは、腕を。
それが瞑鬼の出した、曲解と婉曲と、ねじ曲がった脳みそを使った結論だ。これで相手がどう動くかは知らない。決裂したなら瞑鬼は死ぬだろう。だが、きっと今頃カラが出番を待ち構えているはずだ。ここ最近ずっと閉じ込められていたから、きっとカムイ相手にも善戦する。
流れ出る血が、血だまりを形成。それが自分の足についた。ぼろぼろになった服は【改上】されない。また服が一つ減ってしまった。
『…………やはり修羅か。よもや痛覚までもが黄泉へ行っているのか?』
その声からは、何処と無く敵意が消えていた。いつのまにか魔法回路も閉じている。羅刹から、もう顔はすっかり神様のそれに。
「……痛ぇに決まってんだろ。誰のせいだ」
実際は第六の魔法のおかげで、かなり痛みは和らいでいる。だがそれは一時的な麻薬に過ぎない。あまり長くは持たないし、切れたらショック死は免れないだろう。
骨まで見事に切断された腕は、もう里見だろうがユーリだろうが戻せそうにない。初めから【改上】する気だったのだ。
「…………瞑鬼さん……」
側から見ていたソラが、恐る恐るやって来る。警戒してか魔法回路は全開で。いつでも逃げれる体制で。
『……恐れることはない。魔女の子よ』
さっきまで頭が火星まで吹っ飛んでいたカムイのあまりの様変わりぶりに、少しばかり警戒を無くせないソラ。だが瞑鬼が来いと行ったら来るあたり、やはり自分の気持ちには素直らしい。
周りを見れば、その戦いの壮絶さはいとも容易く語れるだろう。なぎ倒された大木に、踏み荒らされた花たち。カムイが蝦夷の長じゃなければ、森に祟り殺されそうな盤面だ。
腰を下ろし、口を閉じるカムイ。もう何も言えなかった。こんなにも常識はずれで、予想外のことをされては。
白銀の民は、もうカントとピリカの二人しかいない。それでも彼は長だった。子供の頃から、ずっと三人でいた。生きていた。この場所も気に入っている。瞑鬼から元の世界の匂いを感じたのは事実だ。人間の一億倍の嗅覚がそれを悠然と証明している。
大きく黒い瞳の奥に、森の景色が映し出されていた。
小さかった頃、やっとの事で手に入れたキジ。放浪の末に見つけた水源。身が埋まるような雪は何度でも。
毛が白くなったのは、おそらくここに来る少し前だった。一度大陸に渡り、もう一度帰ってきたエゾオオカミが生きるのは、とてつもない苦労を強いられる。それこそ、本物の一匹オオカミ状態だったのだ。
それが異世界転移なんてして、人々から崇められ、侵攻を受け、言葉まで話せるように。
もう答えは出ていた。こんなにも無粋で不遜な人間なのに、なぜか目を奪われる。天秤は傾く。未練はない。ただ一つ、それだけを知れるのならば。
『……我が消えれば、カントたちはどうなる?兄の……瞑鬼の口から聞いておきたくてな』
その質問を、カムイ自身がして来るのが少し意外だったのだろう。少し考え、あっさり言い放つ。
「……ついて来るんなら、別にそれでいい。残りたいって言うんなら、経済的な支援はできる」
「……それって、もしかして英雄さんのカード……」
どうやらソラも、この数ヶ月で悪知恵をつけたらしい。
「現金引き出せるだけ出して渡せばいいだろ。後から返しとくし」
『…………しかして、問題はないのだな?』
「……あぁ」
『我が瞳の前に、誓えるのだな』
「……そのための先払いだ」
無くなった左手をぷらぷらと見せびらかすように、瞑鬼は手を振った。もうあまり血は出ていない。時間は思ったよりもないようで。
だからカムイは決める。自分の意思で、自分言葉で。この馬鹿に賭けてみようと。
重たい体を持ち上げて、静かに白銀は立ち上がる。そうして遜ったように頭を下げたかと思うと、こちらが竦むくらい厳かに告げた。
『……この白銀の神狼、我が身を兄に奉ろう。主人どの』
主人どの。聞き慣れないフレーズに、思わず耳がこそばゆくなる。笑顔とまではいかないが、随分マシな表情が浮かんでいた。
ソラにも一つ挨拶を。こっちは名前で呼んでいた。それならば、瑞晴は何だろうか。奥方様?妃殿?まぁ、そんなことはどうでも良かった。
不意に、カムイの顔に焦りが走る。そうして少し辺りを見回したかと思えば、何やら不安そうな顔をしてぽつりと一言。
『……マズイな』
その言葉に含まれた、本気の焦燥を見逃すソラじゃない。ぐったりとする瞑鬼に変わって、何事かと問う。返ってきたのは、意外な事実。
『我が部隊である白狼たちが見当たらぬ。まさか奴ら……、我に黙ってカントたちに』
これはマズイ。珍しく白銀は焦っていた。曰く、白狼部隊はカムイを筆頭とした野生のエゾオオカミの群れらしい。全員が白と灰色の毛並みをしており、その総力はカントとピリカと同程度。焦る気持ちは痛いほどわかる。何せ、あっちの四人は人間二人だけでも手一杯なのだから。
だが、瞑鬼もソラも、表情には微塵の焦りも生じていない。それは白銀だからこその悩みと言ったところ。もう些細な問題を考えられるほど、瞑鬼の頭は回っちゃいない。
笑顔で「大丈夫」とだけ告げる。視界が白に染まっていった。雪が積もるように、目の前が白くなる。
静かに体温が下がっていくのを感じながら、瞑鬼は微睡みに身を委ねた。




