夜の時間
「どこを見ている」
それは、完全に意識外からの攻撃だった。注意はしていた。その上で、いつ魔法を使われても対応できるよう。だが、カントのとった先手は、夜一の予想を上回る。
魔力を全身に巡らせて、肉体を強化したのかと思ったら。カントは氷を床ごと踏み抜いた。その角度は、ちょうど夜一に飛ばされるよう調節されて。
唐突な間合い外からの一撃に、夜一は見事対応してみせた。軽く弾いて、反撃に囲炉裏を蹴り飛ばす。避けるカントに追撃を。ここで終わらせる。そう思って。
カントがやったように、床を踏み抜く攻撃もした。だがおかしいのは、ほとんどカントが反撃してこないという事。それに、いつもより急激にスタミナが消費されるという事。
ものの数分で、夜一は肩で息をするまでに。対するカントは、ほとんど体力を消費していない。そう、いつもなら夜一もあの様子なのだ。基礎トレに加えて、持続力強化のトレーニングもしている。それなのに。
「…………ピリカと言ったか。ただのヒステリーではないのだな」
ここまできてようやく、夜一は仮説を立てるに至っていた。だが、それはあまりにも当たり前すぎて。今まで気づかなかった自分がバカに思えるほどに。
急激な環境の変化に、頭はついてこれる。理解もできる。だが、体が順応するかはまた別の話だ。いくら北海道で数日過ごしたとはいえ、今は夏。それになるべく身体は冷やさないようにしてきた。それが今、最大の仇となっていた。
ピリカによって凍らされた部屋の室温は、およそ9度から10度と言ったところ。魔法回路を開いて動いているからなんとか寒さは感じないが、それは身体が大量のエネルギーを燃やしているからだ。
寒けりゃ気圧は下がるし、当然呼吸量も増える。
水蒸気が凍っているのだから水分などあるはずもなく、当然その分のども渇いて大量の体内水分を消費する。だがそれは、この環境に慣れてない夜一だけだ。
対するカントの方は、この寒さについてくるだけの体が既にできていた。昔からここで過ごし、雪を駆け回り、亜寒帯の空を仰いできた男。同じ雪国出身でも、やはり差は出るわけで。
肌が冷えて動きが鈍る。筋肉がつりそうにも。気を使って動いていたら、カントの強烈な蹴りが肋骨にぶち込まれ。
自分の吐く白い息を見ながら、夜一は無力感に震えていた。
相手は強い。それは確か。自分が不利。そんな言い訳もできる。
ルドルフは確かに強かろった。だがあれは日本で、地元で、自分たちの学校だ。そんなアウェーにも関わらず、彼女は夜一を殺しかけたのだ。今ならそのすごさがわかる。
「…………貴様も魔女と変わらないな。弱いし脆い。何より信念が感じられん」
冷えた空気を伝って、夜一の耳にその言葉が。悪い頭で咀嚼して、そうして湧いてくる。何も知らないで語るな。貴様が魔女の何を知る。何を思い、何を信じているのかを。
そして貴様が何を知る。今ここでこうして、自分たちが総出を上げて関羽を救おうをとしていのかを。わかるまい。フレッシュが抱く信念は、誰よりも強固なものなのだと。
「……白に沈め」
魔法を使わなかったのは、夜一たちの心を折りたいから。そうして自分たちを認めさせ、2度と関わりたくないから。だとしたら、あの魔法には決定的な弱点があると言うのを自白しているようなものだ。
夜一は感づいていた。カントの魔法ができるのは、せいぜい肉体の自由を奪うことくらいなのだと。よほどの死にたがりじゃない限り、自殺させることはできない。そうでないなら、最初にあった時に殺されているはずだ。
右の脚に魔力を込めて、静かにカントはそう言った。いつだってそう。それは、諦めない夜一だからこそ知っている事。死を眼前に、瞑鬼と違って受け入れない夜一だから知っている。どんな人間でも、殺す瞬間は必ず筋肉が反射を起こすと。
「くそがっ!」
それは、夜一なりにこの地を精一杯生かした反撃だった。
よく滑る床。気をつけないとすぐに転ぶ。慣れていても片脚立ちなんて到底不可能。なのにできるのは、カントのバランスが絶妙な力加減で成り立っているから。だからそこさえ崩せば、あとは勝手に自重でこける。
必死に体を捻った。無様に床を転がって。そうしてカントの振り下ろしを避け、長い脚でアキレス腱をはらう。重心を崩されたカントは、そのまま床の上に尻餅を。その瞬間を見逃す夜一じゃない。
「堕ちろ」
一瞬のうちに立ち上がり、カントの目の前に。硬化の魔法最大の威力は、金剛石をも叩き割る。それを全力で一点に打ち込んだら。
カントの背筋に悪寒が走る。その一撃だけは本能で避けなければと。根性と気合が全て乗った夜一の拳を受けたら、間違いなく風穴が開く。だから必死になって、カントは見切った。亜音速で迫るその鉄拳を。
刹那、民族ハウスの床に亀裂が走った。冷えて固まったものが砕けるような音とともに、その衝撃は余すとこなく伝わって。建物が崩壊のカウントダウンを始める。
カントの目は、完全に馬鹿野郎を見るそれだ。何せ自分の目の前、床に向かって拳を打ち込んでいる奴が狙っていたのは、自分なんかじゃないのだから。
フィールドが不利なら、みずからの肉体で捻じ曲げる。そんな常識はずれな奇策を、アドリブでかますとは。カントの頭には、奇人筆頭の瞑鬼の顔が。そして思い出す。こいつもその、頭のネジが飛んだ集団の一人なのだと。
冷えた空気が外気に触れて、一気に外に流れ出る。その直後、天井が崩れ落ちた。それを境に、次々と落ちる柱、床、窓。魔力で全身をガードして、そしてカントは衝撃に震える。
さきの夜一の一撃は、家一軒を丸々粉砕したのだから。ピリカの魔法で脆くなっていたとはいえ、この威力。
瞬間最大火力なら、白銀にも匹敵しうる。だからといって、弱音を吐くことが許されないのがこの世界。カントだって一人の戦士。天を仰いで、そこに威風堂々と立つそいつを見た。
「……やはり、相撲は自分の土俵でとるに限る」
土煙と瓦礫の中、柏木夜一は笑っていた。どこの勇猛果敢なバーバリアンだと言いたくなるくらい傲岸不遜に、太陽なんかも背に負って。
たなびく雲が光を閉ざす。ここからは、夜の時間。夜一の時間の始まりだ。