願い
心胆縮むほどに、白銀は桁違いだ。文字通り手も足も竦んでしまう。だがそんな無駄な恐怖心は、もうとっくに捨てていた。
ずっと前から決めている。どうせ隠れていても、白銀には念話の魔法があるのだ。意味ないことをするのは瞑鬼流じゃない。だから堂々と。ソラが驚嘆するくらいに、瞑鬼はあっさり白銀の眼前に立つ。
『……やはり兄が来たか。もう一人いるようだが』
出て行ったのは瞑鬼だけだが、どうやら匂い等々で人を見つけるのは簡単らしい。隠れることで警戒されては堪らないので、大人しくソラも姿を現した。
改めて対峙すると、その尊大で甚大で、圧倒的なまでの神聖に瞑鬼もろとも気圧されそうになる。しかし不意打ちは不要。そんな事をしては、折角の話し合いも台無しだから。
「……カントとピリカは?」
知っているのに、瞑鬼は敢えて返答を求める。それ次第で、白銀がこの交渉にどんな立場で絡んでくるのかが分かるから。そして答えは、あっさりするほど瞑鬼の予想通りな結果に。
『兄らと決着をつけると、つい先刻ここを発った』
「まぁ、あっちの話はあっちに任せとこうぜ」
魔法回路を開く瞑鬼。威嚇のつもりだったのが、どうやら白銀には強がる羽虫程度にしか見えないらしく。
『……やはり、行き着く果てはそれか。人も我らも、終生抗うことはできぬものよな』
四肢に力を込め、白銀がその巨大な体躯を震わせる。ただの狼の癖なのだろう。ついていたノミでも払っただけかもしれない。
だがそれは、瞑鬼たちは開戦の合図のようにも思えた。白銀の身体を、歪な文様が這うように広がってゆく。全身をめぐる神経系のようなそれは、やがて魔力を漏らしだし。
この世界に来て得たものは二つだけ。他の世界の情報と、この魔法回路のみ。だから二人は、その恩恵をぶつけ合う。どちらに正義があるわけでもなし。ここから先はいつも通り。野生の、自分の魂をぶつける時だ。
「愚かな人の子と、嘲けないのかカムイどの」
『尽きぬ事を並べようと、彼方にはこれが待つのみ』
ソラが入り込む隙もないまま、二人の戦いは始まった。
地を抉るほどの白銀の巨爪が、瞑鬼の背後にあった木をなぎ倒す。負けじと瞑鬼も魔力を全開に。第七の魔法を展開。
も、それは不発に終わった。確かに状況は昨日と同じはず。それに今日は、魔力だって十分回復しているはずだ。それなのに。
「瞑鬼さんっ!」
自分の不調に戸惑っていたせいだろう。そうでなくとも、あの反則的なまでの攻撃は避けられないのに。
瞑鬼が気付いた時には、もう全身の神経が白銀に伏していた。狼の遠吠えと、白銀の魔法を用いた防御不能の不可視の一閃。それはあっさりと瞑鬼の鼓膜をぶち破り、脳に至るまでを支配した。
目は見えている。緑も白も。だが、体が言う事を聞かなかった。そう、瞑鬼は一つ、大きな勘違いをしていたのだ。てっきりこの戦いは、これで済むと思っていた。
だがそれは、瞑鬼も夜一も勝ったとき。今頃あちらでも、カントとピリカが見事な手腕で応戦しているのだろう。だが夜一なら。そう思っていた。だから、それが瞑鬼最大の思い違い。
どんなに足掻こうと。どんなに練を積もうと。人間である瞑鬼が、神である白銀に並ばなければならない。その事実に変わりはなかった。そして、それが不可能に近いと言うことも。
ソラが叫ぶ。魔法回路を全開に、瞑鬼に飛び込んで来た。だがもう遅い。白銀の腕が動いている。このままだと、瞑鬼もろとも引き裂かれるだろう。
全てがスローモーションで、考える時間だけは腐るほどあって。これは第六の魔法だろう。自分の意識を体から切り離す。こういう使い方もあったらしい。
全身の筋肉に命令を。一瞬だけでいい。せめてソラだけでも。彼女のカラは、肉体がなければ出てこれないのだ。ここで負けましたなんて戦績じゃ、瑞晴に誇れる胸がない。
瞑鬼が叫ぶ。絶叫する。だがそれは、頭の中の誰かが代わりにしただけだった。現実には何もない。何も起こらない。負けられない。
守らなければ。そんな考えが、小さな脳の片隅に。魔法回路が闇を帯びる。その瞬間。
「俺は死なんっ!」
それは瞑鬼の背中から生えてきた。たった一本だけの、頼りない漆黒の腕。
純粋な魔力の塊であるそれは、白銀の一撃をいとも容易く受け止めた。今回は一つ限り。だから防御は任せて、瞑鬼は白銀の眉間に渾身の一撃を。
常人の10倍近くある瞑鬼の魔力で殴られた神狼が、苦悶の声をあげて後ずさる。それを逃す瞑鬼じゃない。不安定な第七の魔法を、こんな所で収めるわけもなく。ありったけの力を拳に乗せて、白銀の土手っ腹にフックをぶちかます。
だが、できたのはそこまでだ。さっき開いたはずの神経はもう縺れていて、足が動かなかった。それを察したソラが、急いで瞑鬼を担ぎ木の陰に。
「……凄いですね。その魔法」
「……ほんとはもっといっぱい生えてくるんだけどな……」
くだらない冗談。それで笑ってくれるソラが、今は何よりも頼もしい。
顔面を殴られおまけに腹にまでもらっては、さすがの神狼もご機嫌斜めならしく。無造作に体を起こしたかと思うと、静かに瞑鬼たちのいる巨木の逆側に。溢れる魔力が、その力の差を物語っていた。
『……我を討とうと、白銀の意思は潰えぬ。そうまでして、一体何を望むのだ』
それは、人間なら誰でも持つ当たり前の疑問だった。白銀の神狼を倒しても、カントやピリカが簡単に考えを変えるだなんて瞑鬼も思っちゃいない。むしろその逆。白銀を討伐すれば、間違いなく彼らと人との境界は埋まらなくなってしまう。
これまではカムイによって統制されていた彼らが、その鎖を解き放たれれば。まさに長を失った狼のごとく、次を求めて暴れ狂うだろう。
カントの魔法にピリカの凍結が加われば、蝦夷の制圧だって実現するかもしれない。そうなれば、最悪ハーモニーから英雄が駆り出される可能性もある。
ただでさえ魔王軍たら魔女だたらの忙しい時に、人と争っている暇などない。だからもう、瞑鬼がやることは目に見えていた。今日の朝からずっと夜一と話していた、その解決策。
「…………俺が望むのはただ一つ」
戸惑うソラを尻目に、瞑鬼は堂々と正面から立って出た。それも、魔法回路も開かずに。
白銀の瞑鬼の間に、静かな静寂が流れていた。間に入った木の葉が揺れる。お互いに刀は抜き身に。居合の体制をとりながら、次の言葉が出るのを待つ。
「……これで、俺が、俺らが勝ったら」
もっと巧い方法はあるだろう。陽一郎や英雄なら、よりスマートに事態を慮るのかもしれない。だが瞑鬼には、そこまでの技術も経験もなかった。
それに、今瞑鬼の頭の中は、ある一つのことで占められている。それは今日の瑞晴の機嫌でも、明日の晩御飯のことでもない。
もっと昔から、ずっと脳裏にこべりついて取れない記憶。それが最近刺激されたせいで、ずっと瞑鬼の中を跳ね狂うように反響していた。ここ最近の不思議な夢。あれには、この件が関係しているかも知らない。
瞑鬼の目が薄く濁る。やがて白銀の殴り合うことしか考えてなかったはずの瞳に、汚らわしい不浄が湧いてきた。それは神であるカムイが思わず目をそらしたくなるほどに。たった一人の人間が背負うには、少しばかり肩が凝る。そんな代物だ。
「俺と共に来い」
まるで旧知の友人にでも頼むかのように、彼は不遜な態度で神に挑む。そして当然、了承なんて得られるはずもなく。ましてや勝ち目なんて限りなく薄いのに。
瞑鬼の目は生きていた。生きてしまっていた。誰よりも似合わなくて、誰以上に死にたくて。なのに終われない。何度死んでも。それが積み重なった一人の高校生は、生きながらにして何十という十字架を背負っている。
警戒は解かないまま、白銀の神狼が低く唸る。思慮しているようにも見えた。隣で瞑鬼の奇異な言葉を耳にしたソラも、一瞬驚きはしたが何も言わなかった。彼女は知っている。こうなった瞑鬼には、何を言っても無駄なのだと。
過剰なまでに分泌されるアドレナリン。全身が打ち震える。思い出すだけで、灼熱で胸が爛れるような気分になった。
『……なぜ我を求む』
「…………お前が神だというのなら、白銀の民のためにやるべきことがあるだろ」
『…………汝が真に果たすべきは、その暗く深き業よ』
あぁ、もううんざりだ。こうして正論を吐かれるのは。幾度となく誰かが瞑鬼を諭そうとした。彼も彼女も御人も。だがそんなの、瞑鬼の耳には届きゃしない。
白銀に非はない。そんなこと分かっているのに。瞑鬼は奔流する自分の血液を止めることができなかった。授業をサボって先生に怒られているときのような。自分が悪いのは理解しているのに、それでも相手に恨みが湧いてくる。
脳裏に焼け付いた景色が、瞑鬼の喉を刺激した。あの日、あの時。和解を果たしたあの幕を。悪はいないと勘違いした日を。
ソラの顔に寒気が走る。周りの空気が、瞑鬼を起点に腐敗しだした。彼の放つ歪な魔力が、周囲の空間を絶望へと染めてゆく。魔法ではない。これはただの、瞑鬼本人の能力。
嗚咽を抑えるかのように、瞑鬼が自分の口を塞ぐ。俯いていた顔は次第に上がり、それは真っ直ぐに白銀を。その先にいるであろう、クソ親父の顔を見ていた。
「俺は、俺の日常を壊すやつを全部殺す。魔女でも、人でも。そんでもって魔王でもな。……だから黙って従え、クソ神が」
最後に見たアヴリルの顔が、瞑鬼の瞼に焼き付いて離れない。失望と安心とを一緒くたにしたような、どこか幼いあの姿。それを壊したのは義鬼だ。魔王軍だ。