悪鬼帰還
魔法回路全開で、なんとか飛びそうな意思をつなぎとめる。血管を圧迫し、出血を最小限に。神経すら惑わせる。
しかし、出来るのはそれだけだった。決死の勇気を振り絞って、稼いだのはほんの十数秒。だが、これこそが瑞晴の狙い。はじめに動物たちを呼んだ時、聞いていた情報。
脳が千切れるような痛みの中、振るわれたマーシュリーの拳を回避。だが、2発目はモロに入った。魔力ガードで外傷はないが、壁に叩きつけられたせいで立ち上がれない。
このまま起こしておくとまた何をするかわからない。だからなのだろう。目の前にいるアヴリルを無視して、マーシュリーは瑞晴の元へと向かう。
ナックルに充填された魔力がどす黒く空気を染め、はぁというため息が耳を入る。
「……とっととやっとくべきでしたわね」
「…………遅すぎるよ」
太陽に照らされたマーシュリーの拳が、鈍く暗く反射する。今生最後に見る魔女の姿は、それ相応に美しく。
マーシュリーが拳を振るう。骨が軋むような音が辺りに反響し、脳が揺れるような衝撃が。不思議だった。なぜ自分の身体が飛んでいるのか。なぜ自分に衝撃が来たのか。
砂利に道に転がっていたのは、他でもないマーシュリーの方だ。真っ白なドレスは砂で汚れ、綺麗な顔からは鼻血が垂れている。
訳も分かららぬまま顔を上げるマーシュリー。そこにいたのは、いつか見た顔だった。
「瞑鬼くん」
この暑い夏の昼間。陽炎すらも嘲笑うように、そこで男は立っていた。ダサいロゴの入ったティーシャツ。おろしたてと一発で分かる海用の短パン。
そして何より、この世の誰をも恨んでいるかのような、腐って淀んだ目。汗を流して息切らし、神前瞑鬼がそこにいた。
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「……訊ねはせん。否定もせん。決めるのはこれだろ?」
「わかってるじゃないっすか。明華が欲しいって言っただけあるっすわ」
辺りにあるのは、散乱した机に椅子、それも会議室にあるような、ちょっとお高い感じのパイプ製。体育館を出てすぐにある職員室。その壁を打ち抜くと、あっと言う間にここに出るのが天道高校の造りだった。
魔力が飛び交い、血肉が弾け合う。策など何もないような二人の殴り合いは、熾烈を極めていた。
まるで知性など感じさせない、原初の戦い。武器は己の肉体のみで、それ以外はそこらの物。それはどこぞの香港アクション映画のような、無骨な白兵戦だった。
右中段から左上段の回し蹴り。流れるような正拳突きが何発か。だが、二人の間には決定的な隔たりがあった。どう頑張っても埋められない、悲しい種族の差。
常に全身に気を張り詰めないといけない夜一と違い、ルドルフの肉体なそれ自体が強力なボディーアーマーだ。衝撃を受けた瞬間に死細胞が表皮をガード。その下の生細胞が即座に傷を治す。だから当然、長引けば長引くほど夜一は不利になる。
そもそもその差をなくすための訓練だったが、英雄の力といえど、三日でできるのは限られている。それに、ルドルフの魔法にしても。向こうは血を流せば流すほど有利になる。一方夜一は血を流したところで意味はない。
視界が眩む。一瞬の瞬きさえ、ルドルフにとっては十分攻撃するに足りうるのだ。
モロに顔面に一発くらい、壁に激突する夜一。近くにあった机を蹴り飛ばす。一瞬だけ目を塞ぎ、その隙に向こう側から蹴り破る。
もーー攻撃虚しく、夜一の足は空中で止められた。そのまま地面に叩きつけられる。千切れそうな頭の中、口から血が出た感触を味わった。内臓が破裂したのだろうか。だが、こうも魔法回路全開では、神経がイかれてよく分からない。
見事にマウンティングをとられ、完全に手立てを失った夜一。だが、目はまだ死んじゃいない。鬼の形相でルドルフに食らい付き、射殺すような念を送る。
「……あぁ。なんか私、今が超楽しいっす!夢だったんすよねぇ、仕事抜きでやるの!」
もうあとは夜一が降伏するのを待つだけだからなのか、やけにルドルフは饒舌だ。それはもう、日頃の彼女からは伺えないほどに。
抑えられた手をなんとか動かそうとするも、ルドルフの褐色の腕ががっちりと握っているせいでぴくりともしない。こうも密着しているからなのか、やけに女の匂いというやつが鼻についた。
しかし、例えルドルフがどれだけ美しかろうが、どれだけナッツのいい匂いがしようが、夜一には関係ない。わかっていた。すっかり嗅ぎ慣れてしまっていた。
絶対に人からは漂ってはいけない、その匂い。どんなに高級な香薬を使おうが、決して落ちることはなく。吐き気がする。嫌気が指す。
むせ返りそうな夏の日差しの中、夜一は血の匂いというやつに溺れていた。
このままだといつ死ぬだろうか。ルドルフの身体から漏れ出てきた爬虫類は、いつの間にか夜一の周りを取り囲んでいる。アリゲーターにアナコンダ、かわいいトカゲから不気味なカメレオンまで。これまで見てきた爬虫類という爬虫類が、そこにはいた。
「……俺は最悪だ。できるならしたくないんだかな」
こうも圧倒的な力を見せられてなのか、夜一はやけに口数が少ない。
余裕のない夜一に、したり顔のルドルフ。違いが出るのはほんの一瞬。
すなわち、最後に何を想って死ぬか。
ワニが腕を噛む。蛇が足に巻き付いた。そして本命、心臓を狙ってきたのは、やはりルドルフだった。
魔女特有の濃い魔力で守られた腕が、夜一の肋骨を突き破り心臓を貫く。ーーはずだった。だが、その最後の一瞬、本当に誰も気づけなかったであろう刹那の時間に、夜一は体をずらしていた。
心臓を握りつぶすはずだった腕は腹ごと床をぶち抜いて。だが、即死はしない。死ぬほど痛いのは、英雄との実戦練習で何度も受けてきた。
「……っくそ!」
そして何よりも、夜一はこれを狙っていたのだ。魔法が及ぶのは身体の中だけ。だったら、相手を呼び込めばいい、と。
全身全霊を込めた魔力解放を。鋼鉄にプレスされているかのように、ルドルフの手は全く動かない。
意識が天まで吹っ飛びそうだ。痛いなんてもうとっくに通り越して、逆に眠くなってくる。だが、それでも夜一は止まらない。
「……クソはこっちの台詞……だ」
足にまとわりつく蛇を、開脚の力だけで引きちぎる。断末魔の悲鳴が耳につく。それが一層、夜一の脳を刺激した。
腕が魔法で同化して逃げられないルドルフ。腕を切れば免れれるが、あいにくワニも捕獲済み。そのまま床に手をついて、背筋と腹筋を全力活性。太ももとバランス感覚だけで起き上がる。
「……ウソだろ……」
鬼神の如き戦いぶりに、ルドルフは久々の戦慄を感じていた。いつの間にか震える背筋。魔法回路がやめろと叫ぶ。だが、迂闊に飛び込んだ獅子は、それが龍の住処だと知っても何もできない。
普通の高校生のはずなのに。ただちょっと、格闘技をしているだけのはずなのに。ルドルフの目の前にいるその人物は、スカウティングとはまるで別人だった。
恐怖を感じたのはいつぶりだろう。任務から帰ってきた時に、初めて明華と会った時だろうか。それでもここまでブルったことは無い。種族の違いだとか、魔法の強さだとか。そういう所で、圧倒的な自信があったから。
残った左で夜一を殴る。爬虫類たちに命令も出す。この馬鹿を食い殺せと。だが、全身を覆う硬化されは皮膚の硬度は尋常じゃない。魔女のそれと比べても、まるで歯が立たなかった。
「……堕ちろ」
額から血を流したまま、手足をぶらぶらさせたまま、柏木夜一は呟いた。
瞬間、魔法は解除された。だが既に夜一の手が肩を掴んでいる。覚悟を決めた。この一撃で、決着をつけると。
少し高めの夜一の身長。体重は同じくらい。だから振りかぶるのは、少しだけルドルフが早かった。お互いが最大の出力で魔力を放出。全身全霊の力を込め、頭から相手の心臓めがけ。
刹那、耳をつんざくような金属音が校舎中を反響した。頭が揺れる。平衡感覚を失ったかのように、二人してフローリングに顔面ダイヴ。
死力を尽くした最後の頭突き。その結果は、両者ともに相討ちだった。微かにぼやける視界の先に、夜一はルドルフの姿を見た。倒れていて、動かなくて。
だがまだ終わっちゃいない。この戦いの幕が下されるのは、全ての魔女が死んでから。一人一殺なんて旧時代の考え方、英雄はしないだろう。だからここで呑気に伸びているわけにはいかなかった。
残ってない魔力をかき集め、なんとか神経を稼働。頭がおかしくなるような筋肉の悲鳴を聞きながら奮い立つ。
バラバラになった会議室を後にしようと、足を引きずって扉の前へ。
「……あの馬鹿は……もう」
せめてユーリにあっておかなければ。ないしは里見でもいい。傷さえ治れば、どんな現場にだって駆けつけよう。そう思っていたのに。
「あた、あた、私は……、あ、あの子以外に……」
声を聞いた瞬間、夜一は自分の耳を疑った。確かに届いたはずのに。脳まで衝撃は達して、確実に仕留めたはずなのに。
ショックで少しばかり言語機能がやられてはいるが、それでもそこにルドルフは立っていた。それも、全身を異形な魔力に包まれて。
初めて見るタイプの、何か禍々しい感じ。いつもの漆黒と言うよりは、どちらかと言うと怨嗟の塊のような。ドロリとした、何か。
まずい。直感的に本能的に思考的に、真っ先に出てきたのはそれ。次に出てきたのは、死ぬ。
夜一に魔力は残されていない。ただでさえ頭を打って、立っているだけで千鳥足なのに。その上に来て、あの初見の何か。状況は最悪だ。
「かって…………かってら……いけらいんすよぉぉぉ!!!」
怒涛の魔力が夜一を襲う。あり得ないことに、それは実体を持っていた。周りの机をつぶしながら、どんどん広がるように。
「見せてあげますよ……わらしの秘密兵器」
全ての視界を遮るような魔力の向こうから、そんな声が聞こえて来た。それと同時に、何か肉が避けるような音も。
直後、音もなく魔力が消えていた。床に染み渡るように、少しの黒さだけを残して。
そしてその先、夜一の視界の先に映ったのは、到底信じられない景色。
堂々と立ち上がったルドルフ。その右手には、赤くて脈打つ塊が乗っていた。どくんどくんと蠢いて、その度に真紅の液体を吐き出す。それが何か分かるまでに、そう時間はかからなかった。
「……な、きさーー」
そして言いかけて、理由もわかってしまう。それは魔女だからなのか、それともルドルフの特殊体質なのか。
通常ならあり得ないことに、ルドルフの心臓には魔法回路が浮かんでいた。それも、特段に太いのが。
生物の授業で習ったことがある。そういう病気もあると。だが教科書に載っていた病例は、そのせいで心臓の動きが乱れるというものだった。だったら一体なぜ。
そして思い出す。魔女は魔法回路を食う存在。だったら、取り込んだ魔法回路はどこへ行くのか。腹で溶かして全身になら苦労はない。しかし、それだとその回路はひらけない。
だからわかった。魔女は心臓に魔法回路を取り込んでいたのだと。血液に乗せて、他人の魔力を全身に送っていたのだと。
赤黒く光るそれが、一層強く脈打った。その時、床に染み込んでいたはずのどす黒い魔力が、それを覆うようにルドルフに戻ってゆく。あれは大方、濃度を上げた合成魔力だったのだろう。
スライム状になった魔力の塊が、やがえ姿を変えてゆく。どくんどくんと息をして、四肢が伸びたら顔もでき。
「……くそ」
ただ一言、夜一はそういった。
目の前にいる、その爬虫類を睨みつけて。見たことも聞いたこともある。それに昔は超大好きだった。だがこんな形でご対面となっては、それも遠い日の記憶に押し込まれてしまう。
錆色の皮膚、特有のしっぽ。縦長の瞳孔に鱗で覆われた身体。図鑑などなくても一瞬でわかる。全国の男子なら、たぶん名前すらも。
ミシミシと音を立て、ついに校舎が崩壊した。そいつの体重のせいで一階まで落ちてゆく。着地した瞬間に、その咆哮が夜一の全てを貫いた。
「GGGYYYYYYAAAAAAA!!!!!」
購買のレジが飛び、自販機が無料でジュースを吐き出す。そんな中、夜一の目には映っていた。
雄々しく猛る、恐竜の姿が。