異世界労働、始めます
「瞑鬼ィ、品出し終わったか」
「うぃっす」
朝靄の余韻の残る日差しを浴びて、神前瞑鬼はあくせくと労働していた。時刻は午前6時。いくら今日が土曜日とはいえ、仕事をするにはいささか早い時間に思われる。しかし、自営業というのは早朝から活動するらしい。瞑鬼が叩き起こされた5時の時点で、既に陽一郎は仕事を開始していた。
その後、顔を洗って朝食を作る。瑞晴が休みということもあり、桜家の休日の朝食はセルフサービスなのだ。さりとて今まで半自活をしてきた瞑鬼に死角はない。朝から自分の朝食を作るなどお手の物だ。
そして、食事が終わってはや20分がすぎた今、瞑鬼は住み込みのバイトとして桜青果店の倉庫と店先を往来している。1日の一番初めの仕事は、卸された果物の品出しだ。一つ一つを丁寧に運び、見栄え良く店頭に並べる。割とセンスを問われる仕事らしく、陽一郎からダメ出しを食らうこともしばしばあった。
当の陽一郎は、デパートへ配達する用のカットフルーツを作っている。そのせいで、朝から店内はやけに果実の風味で鼻が踊る状態となっている。
「次は何すればいいっすか?」
空になったダンボールを積み上げた瞑鬼が、奥にいる陽一郎に訊ねる。
「そーだなー、よし、とりあえず休んでいいぞ。どうせ午前中は客ほとんどこないしな」
店長の許可をもらったので、瞑鬼は息を吐いて腰を下ろす。店内を満たす柑橘系の香りが、疲れた鼻孔をくすぐった。
見た所、瑞晴は未だご就寝らしい。一週間が終わり、部活もない生徒からしたら土曜日はさぞ天国なことだろう。
「……久々だな、こういうの」
誰に聞かせるわけでもなく、瞑鬼は一人そう呟く。その言葉はすぐに振幅をなくし、元の波へと還ってしまう。
思い返せば、つい一週間前まではこうして休日の朝からバイトをするなど、夢にも思っていなかったのだ。平日は夜まで時間を潰し、休日は日がな一日古本屋を回る。それが瞑鬼の日常だった。
それなのに、今はこうして充実したような生活を送っている。異世界に来る前の自分が見たら、さぞ喜ぶ事だろう。
台所へ行き、軽くお茶を淹れる。陽一郎の分も忘れない。
改めて部屋の中を見返すと、またしても瞑鬼の中に実感が芽生える。ここはまぎれもない異世界で、自分はそこで生活を営んでいるのだ、と。
熱い茶を一人で啜っていると、いつの間にか関羽が瞑鬼の足元にすり寄っていた。起きた時には瞑鬼の横で寝息を立てていた関羽だったが、どうやら随分と早起きなようだ。
「……おはよう、関羽」
欠伸をする関羽に朝の一言。その声に呼応するように、関羽も喉を鳴らす。昨日しっかりと風呂に入った事で、以前に増して随分と毛が柔らかくなったような気がする。
瞑鬼の膝の上に乗る関羽を、上から眺めおろす。部屋が畳ばりということもあり、瞑鬼は自分が老人にでもなったような気分を、しばし堪能した。
それと同時に、昨日の夜のことも思い出す。
昨晩、瞑鬼が風呂でのぼせた時に、一番に駆けつけたのは陽一郎だった。後から聞いた話だが、何でも風呂でものすごい音がしたらしい。その話を聞くと、どれだけ瞑鬼が驚いていたのかがよくわかる。
そして、突撃一番に陽一郎が見たのは、自分の娘とバイトの高校生が裸で抱き合っている様だったそうだ。陽一郎からすれば、さぞかし血圧が上がったことだろう。
もし本当に瞑鬼が瑞晴と抱き合っていたならば、ここで呑気にお茶を啜っている明日は来なかったのだ。誤解を解けたことを、再度瞑鬼はありがたく思う。
それから間も無く、運び出された瞑鬼とともに、関羽も元の姿に戻ったのだとか。瑞晴も、自分で自分の裸を後ろから見たのは初めてだったそうだ。
瞑鬼が目を覚ました後は、修羅の如き形相の陽一郎による尋問タイム。もしあの時に瞑鬼が余計なことをしゃべっていたら、今頃瞑鬼の瞑鬼が亡くなっていた可能性だってある。
「…………なぁ、関羽。今度から変身する時は裸の人間だけはダメだぞ?」
膝の上で眠りこける関羽に、瞑鬼が忠告を与える。もし次に裸瑞晴に化けられたら、今度こそ陽一郎、および瑞晴から鉄拳が飛んで来るかもしれないのだ。聞いているかはわからないが、一応対策は打っておく必要がある。
空いた湯のみに二杯目のお茶を注ぎ、再びずるずると啜る。そんなことを繰り返していると、二階から階段を下る足音が瞑鬼の耳を刺激する。どうやら、瑞晴もお目覚めのようだ。