異世界湯浴、昇天です
まず片方を手に取り、外見と中身を確認。特段おかしなところは見られない。普通に泡もたつ。
そして、瞑鬼が二つ目に手を伸ばそうとした瞬間、それまで大人しかったチェルが、うにゃあと叫んでシャンプーに飛びかかる。思わずを引っ込める瞑鬼。もしそのまま掴んでいたら、今頃チェルの鋭爪に、皮の一つでも切られていただろう。
瞑鬼を飛び越えたチェルは、勢いを落とさずシャンプーへと突撃を仕掛ける。以外にもあっさりと攻撃は成功したらしい。空っぽの音を立て、そのまま揃って壁に激突する。
「……おいおいチェル、お前は一体何をやって……」
呆れ返る瞑鬼。しかし、次の瞬間にその目はじゃれ合う二匹の猫に釘付けになっていた。
チェルが激突し、そのまま壁へとスライドした直後、生き物でないはずのシャンプーがうにゃあと声を上げ、関羽へと姿を変えたのだ。紺色の毛並みに翡翠色の目。日が浅いとは言え、飼い主である瞑鬼が間違えるはずがない。
二匹の猫たちは、やがて喧嘩するのも疲れたのか、どちらともなく身体を離す。残ったのは間抜けな顔をした瞑鬼だけだ。表情が硬直し、現在起こっていることの確認はできても理解が追いついていない。
「……関羽、お前魔法使えたのか?」
最初に出てきた言葉はそれだった。それ以外に、瞑鬼はこの不可思議な現象の原因を知らない。
困惑する瞑鬼をよそに、一人大きなあくびをする関羽。自由気ままを体現すると、恐らくこのような態度になるのだろう。
「……まじかよ……」
関羽が魔法を使える。状況だけを考えるならば、それが思いつく限りの最適解だ。しかし、そうだとしても瞑鬼には納得がいかなかった。
確かに、瑞晴も陽一郎も、それに園児向けの本ですら、魔法回路が備わっているのは人間だけだとは言っていない。思い返せば、絵本の中にいる動物たちは魔法を使っていた。
もし仮に、二人の魔法が逆だったならば、瞑鬼も文句は言わずにありのままの事実を受け入れていただろう。しかし、この状況はその限りではない。何せ、飼い主よりも有力な魔法を持つペットがいるのだ。これでは面目なんてかけらも見当たらない。
「……お前の方がいい魔法じゃん」
肩を落とし、そのままがっくりと項垂れる瞑鬼。
気のせいかしら、再び目に濁りがたまっている。もし今瞑鬼にこれ以上の劣等感を与えたら、炭を通り越して灰になるだろう。
冷えてきた身体を震わせ、もう一度浴槽へと身体を沈める。頭から黒い雲が発生し、頭上は大洪水となっていることだろう。
「まぁ、大丈夫。俺は二つあるらしいし……、大丈夫……大丈……ぶ」
半身浴だったのが、肩までつかり顔だけを残すまで瞑鬼は身体を縮こめていた。ぶくぶくと泡立つ音が、妙に悲壮感を増大させている。
そんな主人の心持ちを察したのか、関羽は徐に立ち上がると、流れるように尻尾を一回転させる。
それが何を示すか、視界の端で捉えていた瞑鬼の脳はすぐに理解した。これが関羽の魔法発動の予備動作なのだ、と。
得意げに胸を張る関羽。そして、その体は徐々に膨れ上がり、やがて人間の形を形成する。どうやら関羽の魔法に、サイズの制限はないらしい。元の体の大きさなど御構い無しだ。
しかし、関羽の返信が終了した直後、瞑鬼の目は思わぬものを目撃していた。
「か、関羽……。お前……、それ」
唖然とする瞑鬼の目に映っているのは、紛れもなく瑞晴だ。正確には関羽が変身した姿なのだが、最早変化の域を超えた完成度である。
柔らかな四肢。弾力のありそうな肌。そして、関羽お気に入りのくるぶしに至るまで、桜瑞晴が完全な姿でそこに立っていた。
しかし、瞑鬼が驚いたのはその完成度ではない。確かに、見てもいないところを補って補正するという能力は、それだけで十分に強力な力だろう。ひょっとしたら、複雑な構造をした機械にだって、関羽は変身できるかもしれない。
しかし、問題はそこではない。真の問題は、完成され過ぎた身体が、何も纏っていないという事である。
胸は重力に逆らうようにハリがあり、その姿があます事なく瞑鬼の目にさらされている。恐らく、この身体は瑞晴のそれとそう差がない。つまり、瞑鬼は同級生の女の子と裸で風呂場という、失われた恋愛ゲームの世界を体験しているのである。
瞑鬼からすれば、ある意味これが最高の異世界経験だろう。
「ばっ、ばか!服を着ろ服を!おい関羽!聞いてんのか⁈」
焦りで気が狂いそうになるのを抑える瞑鬼。なるべく直視しないようにと思っているが、残念なことに体は正直らしい。目の前で同級生の女の子の裸が見られると考えた瞬間、思わず目線がいってしまう。
しかし、元野生動物の関羽には、そもそも服装という概念が存在しないらしい。瞑鬼がいくら服も一緒に変身しろと言っても、聞く耳を持たない。
それどころか、次の瞬間には裸のまま瞑鬼の胸に飛び込んできたのだ。
「おっ!ばぁっ!ちょっ!関羽……、それはあかん……」
関羽の感覚からしたら、ただ単に飼い主とじゃれあっているだけなのだろうが、そんなの瞑鬼の知った事じゃない。現在瞑鬼は、裸の女子と密着しているのだ。感覚も感触も、全てを逃す事なく神経が脳に伝える。瑞晴の体温も、柔らかさも。
狼狽える瞑鬼をよそに、関羽はご機嫌な顔でほおを擦り付けている。触れ合う肌と肌がなんともくすぐったい。
しかし、そんな夢の時間は長くは続かない。今は夏。それも、二人がいるのはそんな高温多湿な日本の中でも、最高峰に気温が高いであろう場所、風呂である。そんな所で長く頭を興奮させると、おこる現象は一つ。
「…………っゔ」
気がつくと、瞑鬼の鼻からは一筋の赤い線が伸びていた。鼻の奥から鉄臭い匂いが漂ってくる。興奮したら鼻血が出るというのは、どうやら異世界でも同じらしい。
そして、遂に瞑鬼の興奮が臨界点を超える。湯に浸かりすぎたのと、脳が活発に動き過ぎた分が許容量を超えたのだろう。意識は朦朧。
次の瞬間、瞑鬼は天井を仰いでいた。今度は自分の意思でではない。完全に身体がコントロールを失ったのである。
狭い風呂場に反響する関羽の声。それに応じるようにチェルもいやいや声を出す。
そうして、異変を嗅ぎつけた陽一郎が助けに来たのは十分後。その間に瞑鬼は、一生分の女子との触れ合いを行なったのだった。