英雄の証
ひょっとしたら、英雄くん不人気説。
仰向けになった瞑鬼の上に、仁王立ちの英雄。うまいこと受身は取れたが、もう瞑鬼には打てる策がほとんどなくなっていた。痛いし辛いし、何よりも英雄との間に開いた格の違いというやつは、一人ではどうやっても埋められそうにないだろう。
英雄が笑う。勝利を確信した笑みか、それともこんな実力で魔女に挑もうとした瞑鬼に対する嘲りなのか。
精一杯の皮肉を込めた煽りも、今この瞬間ではかえって瞑鬼の哀れさを増すだけだ。
会場にいる誰も。それこそ、瑞晴や千紗ですら確信していた。瞑鬼は負けると。英雄が勝つと。
「魔女討伐は僕らの祈願でもある。だから、あの子たちが何なのかは知らないけどさ、もう一回考え直せ」
諭すような口調。何回も戦いを繰り返してきたが、こんな憐れみの目を向けられたのは初めてだった。
瞑鬼の手が掴まれる。このまま外に放り出されたらフレッシュは負け、ハーモニーの一員となる。そうしたら、ソラやアヴリルの身元が割れる可能性が莫大に上がってしまう。
魔女だということがバレたら、英雄はどんな顔をするだろうか。きっと良いものじゃないだろう。瞑鬼が聞いた話によると、親を戦争で亡くしているらしい。それも魔女との。
「……英雄さん」
外への扉まではあと10歩ほど。何となくなのか、それとも何かを思いついたのか。瞑鬼が英雄に言葉を投げる。
「……なに?」
瞑鬼の顔などほとんど見ずに答える英雄。どうやらこれが時間稼ぎであることもお見通しらしい。
「さっきの壁なんすけど、アレってハーモニーで直してもらえます?やっぱ僕らもちですか?」
此の期に及んで、心配するのはお金のことらしい。だがそれも分からなくはない。学校の施設を壊したとなれば、修理代はそこそこかかる。親なし金なしの瞑鬼にとっては、晩飯が食えなくなるかどうかの重大なことなのだ。
「あぁー……。まぁ、いいか。これ提案したの僕だし、僕もちでいいよ。……そんだけ?」
「……そうっすか。あざっす」
英雄が払うことになって安心したのか、瞑鬼の顔は安らかなものへと変わる。誰もが決着はついたと思った。側から見ていた陽一郎でさえも。
思ってないのは、作戦を知っているフレッシュのメンバーのみ。
「来ぉいっっ!!」
黙って引きずられていたはずの瞑鬼の、ほんとうに突然の咆哮。一瞬だけ英雄に隙ができる。だが、瞑鬼が抜け出せるほどじゃない。そんなのは織り込み済みだ。
今声をかけたのは、この場にいる誰でもない。英雄の目が瞑鬼に向けられる。魔法回路を開いはその手は、マイクを握った時のように口元に近づけられていた。
「っしゃあっ!!」
声が聞こえる。瞬間的に英雄が耳だけで主を探すも、この中にいるはずがない。
声は外からだった。それも、瞑鬼たちがいる壁の丁度向こう側。
誰もが一瞬の硬直に陥った刹那の間。警戒が網を張る前に、瞑鬼たちの策は動いていた。
英雄が壁から違和感を受け取る。目の端に映ったそれは、わずかながらにヒビが入っていた。そしてそれは一瞬のうちに広がり、爆音とともに破片として英雄に襲いかかる。
「……っ!」
なにが起こったのかさえ理解する間も無く、体育館の壁に穴が空いていた。人が一人通れるような、馬鹿でかい穴。このタイミングでこんなことをする人物など、英雄は一人しか知らなかった。
柏木かっ!そう思ったが、英雄の頭は壁の破片を避けたせいで逆の方向を向いている。反射的に振り向こうとした。その瞬間。
真っ白い煙のような何かが、壊れた穴から大量に体育館の中に流れ込んできた。それに紛れて何者かの気配。右手を振るうも、そこにはなにもいない。
「……石灰って!?」
英雄の視界を奪っているもの。それは学校なら恐らくどこのにもあるであろう、白線引き用の石灰だった。
あまりにも突然な環境の変化に、英雄の判断が遅れをとる。壁をぶち破った犯人は既にわかっている。こんなことが出来て、こんな事をやれるのは学内では柏木夜一を置いて他にはいないだろう。
そして今、この瞬間に入ってきたということは、いままでは何処かで機を伺っていたということ。
瞑鬼の命令と考えるのが自然。大方、適当な理由をつけてくるのを遅らせ、その間に体育倉庫から持ってきたのだろう。
甘く見ていた。途中で夜一が乱入してくることは想定していた英雄だったが、この入り方は予想外だ。それに、この為だけに煙幕の代わりを集めていたということも。
この粉塵のまき上り方からして、視界がなくなるのはせいぜい10秒と少し。それまで奇襲を避け続ければ、自然と軍配は英雄に上がる。全神経を集中。特に耳と鼻に重点を。
既に足元の瞑鬼はいなかった。這ってでも動いたか、まだ近くに潜んでいるかのどちらかだろう。相手だって条件は同じ。鼻の良さなら英雄の右に出るものはいない。そう思っていた。
「んぐっ……!これは……」
魔法回路を集中的に開いた、いつもの二倍はかげそうな鼻。そこに流れ込んできたのは、この世のものとは思えない、発酵した何かの匂いだった。平衡感覚がよろめく。
「夜一っ!右だっ!」
英雄の足がふらついた瞬間、どこからか声が飛ばされる。どうやら二人は声で確認を取っているらしい。
瞑鬼としては、この手で決着をつけるつもりだった。伏線を張って隙を作り、そこを打つ。そのつもりだった。
だが、瞑鬼最大の失敗。それは、英雄の前で声を出してしまったこと。英雄の耳はそれ自体が強力なソナーとなっていて、音の出所くらい勘でわかってしまう。それは今回も例外じゃない。
「……甘いねっ」
瞑鬼の声は確かに右側から聞こえていた。そして今英雄の向きからいくと、そっち側には夜一の開けた穴があるはずだ。
魔法回路を開いて宙を突く。そこに瞑鬼の姿があれば、間違いなく押し飛ばされていただろう。だから英雄も加減はしなかった。
英雄の手が空を切る。いると思っていたはずの場所。瞑鬼を押そうと思ったその位置には、誰の姿も見えなかった。確かに声は聞こえていたのに。逃げる時間などなかったのに。
その瞬間、英雄の頭が高速回転。コンマ数秒で結論を叩き出す。
壁をぶち壊して進撃する夜一。