真夏の鉄板前
ストレス社会の心の薔薇。バルバロッサ、エルサレム。
観光客で賑わう、真昼の海辺。そこにあるいくつかの海の家の一つ、かき氷と焼きそばがウリらしい、吉野家で、瞑鬼は汗をかいていた。
昨晩の宣言通り、今日は店に店長である吉野の姿はない。ほんとうに別の仕事で、まだ帰って来ていないのだ。
けれど、しっかりと店は回っていた。朝九時からシャッターを開き、それから今まで約四時間、客足が途切れることはない。掻き入れ時の今だからこその、無駄な盛況具合である。
一人厨房で鉄板と格闘する瞑鬼をよそに、四人の接客担当はせかせかと店内を走り回っていた。やはり、正面に可愛い子を置くというのが、一番手っ取り早い戦法らしい。
隣の店のおっさんから送られてくる、嫉妬を超えた何か別の感情。殺意レベルの視線を肌で受け取って、瞑鬼は何度も身震いをしていた。
「瞑鬼さん!追加です!」
カウンターの向こう側から、ソラの声が響いてくる。瑞晴の予備の服を着たソラの肌は薄っすらとシャツに透けており、その白じろとした色が際立っていた。
さらにその奥の席では、フィーラがお客さんから注文をゲット。伝票を持ってこっちにくる。
すっ、と注文を書いた紙をカウンターに置き、そのまま別の席へ向かうフィーラ。どうやらまだ人前で大声を出すのは慣れてないらしい。
瑞晴とアヴリルは、持ち前の運動神経の良さを生かし、ボディーボードの先生なんかをやっている。英語しか話せないアヴリルに、翻訳で瑞晴が付くといった形だ。
そしてその成果は、眼に見るように見て取れていた。異国の美しい少女たちが、流暢な英語で話してくれる。体を灼きに来た社会人や、仕事に疲れて家族サービスを放棄したいおっさんたちには、それが娯楽に見えるらしい。
もちろん、女性客だって大勢いる。そして決まって、可愛いだの、肌綺麗だのをソラたちに言い、チェキを撮る。ソラたちもそれを仕事だと勘違いしているのか、黙って笑顔でフレームに入っている。
昨日の閑古鳥ような環境とは違い、今日は随分と平和的でかつ忙しい。ほとんど一人で料理をやっている瞑鬼からしたら、むしろ昨日よりも地獄度は高いかもしれない。
しゃかしゃかと眼前で踊る焼きそばたちを睨みつつ、焼き鳥が焦げないように回転させる。一人でこなす作業量としては、かなりに多い方だ。
目の前には海が広がっているのに、自分は一人孤独な料理。しかし、それもそれで悪くはない。キツさは7割り増しだが、これも瞑鬼の望んだことだ。
出来上がった焼きそばとかき氷をプレートに乗せ、そいつをカウンターへスライド。待っていたソラに、ほぼノータイムで渡していく。どれだけちゃかちゃか急いでも、仕事は減ることがない。
「……関羽に抱きつきたい」
暑さのせいか、若干瞑鬼の頭がやられてくる。こうも熱気が充満した部屋にいたら、こうなるのも無理はないと言えるだろう。
身体から大量の水分が出ていくのを感じ、本能的に瞑鬼は水を求めた。溜まっていたメニューを、気合いの一踏ん張りで全消化。これでもかというスピードで完成させてゆく。
そうして空白の時間を作り、次に注文が溜まるまで僅かばかりの休憩を設ける。裏へ回って、頭から水をかぶり瞑想。爆発しそうな脳みそを冷やす目的だ。
次に瞑鬼が取る行動は、水分と塩分の補給である。従業員用の冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出し、一気にペットボトルの半分あたりまで飲み干す。これで、なんとか一時間は生き返ることができるのだ。
海の家のおっちゃんよろしく、気合一発頭にハチマキを。賑わうのはあと一時間程度。それさえ乗り切れば、今日の仕事はほぼほぼ終了と言える。
外を見ると、たまたま瑞晴と目があった。すると、不思議なことに瑞晴が笑顔になる。そして、瞑鬼の方に向かって手を振ったりなんかもした。
瞑鬼からしたら、これは最高のエネルギー充電だ。あの笑顔と、少し恥じらったような様子の態度。それだけ見ることができれば、いつの間にか疲れを感じなくなっていた。
そんな体力の自転車操業を続けること四時間。瞑鬼は体力の限界を感じながら、畳の席に腰掛けていた。
流石に五時にもなれば、もう海岸に人気はない。まだちらほらとカップルの姿は見受けられるが、彼らが店に来ることはないだろう。行くのなら別の店だ。ホテルとか。
あれだけ猛威を振るっていた太陽も、もうすっかり西の海岸線に沈み込もうとしている。夕焼けではないにしろ、日が傾いてきたのも事実。
「……お疲れ」
テーブルを挟んだ向こう側。瞑鬼からしたら左隣に座っていたソラに、適当な会話のボールを投げつける。
現在店の中にいるのは、ソラと瞑鬼の二人のみ。
他の三人は、潮が満ちてきた海ではしゃいでいる。
「……日本の海水浴凄いです。累了……」
お客さんが引いたのは、激動の一時を三十分ほど過ぎたあと。ひっきり無しに呼ばれ続けていたソラたちが一息つけたのも、丁度その瞑鬼の時間だった。
シャツは汗で透けており、水着を着てなかったらさぞ悲惨なことになっていただろう。
夏の風が運んできた心地よい疲労感とともに、二人は麦茶をすする。本場中国では甘ったるいお茶が人気らしいが、日本で夏と言ったらやはり麦茶だ。
もうすっかり、瞑鬼は潮の香りに慣れていた。2日目も終わり、後はラスト一日だけ。三人分のバイト代があれば、そこそこのものは買えるだろう。
「……あいつらすげぇな」
「……ほんとです。特にアヴリルと瑞晴さん。どうなってるんでしょう」
「…………はは……」
何気ない会話。乾いた笑いが漏れた。
体力は尽き果てているのに、心には妙な達成感と充足感が溢れている。例えるなら、限界まで振り絞った後の体育祭のような。
生まれて初めて感じる、全力の後のアドレナリンタイムを、瞑鬼は満喫していた。生死をかけた戦いでは味わえない、平和であるからこその感覚だ。
浜辺から聞こえるのは、楽しそうな瑞晴の声。それと、丁寧な英語のアヴリルの笑った声も聞こえて来る。
その様子を見たいと思ったのか、重たい腰を上げてテラスへ向かう瞑鬼。その背中にソラも付いて行った。
この海の家のテラスからは、海岸が一望できるようになっている。少しだけ高いところにあるから、実に爽快な眺めだ。
黄金色に輝く太陽と、それを反射する海とのコントラストが、絵にもかけない美しさとやらを表現していた。
三人の方を見ていると、ふとフィーラが瞑鬼の存在に気づく。軽く手を振った。だから瞑鬼も振り返す。
どんだけ海編が続くんだよと。一体何日海で遊んでるんだよと。まぁ、言いたいことはあるでしょう。けど、多分次くらいには動きますよ。