義理父からのランナウェイ
お昼の暇な一時に癒しを。
どれだけ陽一郎の仕事が忙しいのか、瞑鬼はそれを知らない。と言うか、何をそんなに交渉することがあるのか分からなかった。
「……関羽も入りたいのか?」
気づくと、足元には関羽が擦り寄ってきていた。よほどチェルを警戒しているのか、全身の毛は逆立ったままだ。
そんな関羽を抱き抱え、風呂場の扉を開ける瞑鬼。おそらくこの世の誰一人として望んでいない、サービスシーンなんてのを披露し、汗を洗い流す。
ほんの五分だけ水に打たれていると、少しは頭も冴えてくる。そして、同時にいろんなことを考えてしまう。
思えば、ここに来てから早一ヶ月とちょっとだ。こんな安心できる生活になるまでには、それこそ何かと苦労もした。
やっと手に入れた、少し変わった日常が、瞑鬼は大好きなのだ。求めるものは、血湧き肉躍るバトルでも、胸が割かれるような思いをする恋愛でもない。
ただただ面白く、そして愉快な仲間と、変わりある毎日を過ごせれば、それだけで満足だった。
瞑鬼は主人公になりたいのではない。瞑鬼が居場所を求めるとしたら、その条件は一つだけ。
馬鹿でアホで、それでいて面白い。平坦な、じゃなくていい。変で上等。
それが、暗く濁った神前瞑鬼の、唯一と言っていい願望だ。そしてそれは今、実に最高な形で叶っている。
滴る水滴を眺めながら、瞑鬼はふと魔法回路を開いてみる。神経のように張り巡らされていて、呼吸するたびに脈打つそれを、何の気なしに見つめていた。
力を込めると血が出るような感覚で、漆黒の粒子が溢れ出してくる。
こんなにも変わってしまっては、瞑鬼はもう元の世界に戻ることはできないだろう。世界を跨いで、体に変化があるのは確定している事実。しかし、考え方は変えられない。
魔法や魔王の存在を知ってしまっては、もうここを離れるわけにはいかなかった。
「……まぁ、もともと帰る気は無いし……な?」
体を振って水滴を飛ばしてくる関羽を一睨み。理解できるであろう質問をぶつけてみる。
「…………そう言えば、お前って家族いたの?」
言葉を離せない猫相手に、瞑鬼の独り言は最高潮に達そうとしていた。けれど、一度思ったらそれが正直に口から出てしまう。それも、動物相手だと特にその傾向がひどいのだ。
瞑鬼の言葉を聞き、黙って考え出す関羽。どこか遠い目をして、じっと空中の一点だけを見つめている。
よくよく考えてみれば、関羽は段ボールに入って流されていたのだ。仮に人間に飼われていたとしても、それを特定するのは不可能と言える。
飼い主ながらにして知らなかった関羽の情報を見つけ出し、瞑鬼はまた一つどうでもいいことを記憶に残す。
早々にシャワーを切り上げて、瞑鬼はリビングへと向かう。これ以上一人で話していると、瑞晴に心配されるレベルに達してしまう。
エアコンがよく効いた部屋に入ると、一瞬にして身体が冷えてくる。水風呂でただでさえ下がった体温が、みるみるうちに奪われていく感覚だ。
上下きっちり揃えたジャージを着て、瞑鬼は麦茶をあおぐ。もう時計は12時を少し過ぎており、お昼ご飯にはもってこいの時間となっていた。
「瑞晴、昼飯なにがいい?」
店のレジにいるであろう瑞晴に、お昼のご飯の確認。冷蔵庫を覗きながら、なんとなくメニューを頭に浮かべる瞑鬼。
どうやら店の方にはお客さんが来ていたらしく、瑞晴からの返事は「何でもいい」の一言だった。
大方、悲しい昼飯にせめてものデザートを求めた主婦のおばちゃんが、女子高生と話しに来たのだろう。
ここ最近で、瞑鬼の存在はご近所に知れ渡っていた。
桜青果店に婿が来た。隣の雑貨屋のおばちゃんが出したその噂が人を呼び、いつの間にか瞑鬼は商店街でも有名な方になっていたのだ。配達に行けば、ほぼ間違いなく瑞晴の彼氏として扱われている。
そしてどうやら、今来ている客もその八百おばちゃんの一人らしい。なかなか会話が盛り上がっているようだが、聞こえるのは年寄りの笑い声のみ。
絡まれたら最悪な、おばちゃんという存在の時間つぶしとなっている瑞晴に哀れみの情を送り、瞑鬼は包丁を握る。
とんとんと野菜を切る音が響き、まな板とフライパンの上が渋滞になる。
全てを終えたのは、時計を見てから丁度30分後。それと同時に、瑞晴もおばちゃんトークから解放されていた。
陽一郎に関しては知らないが、朋花は間違いなく昼飯時には帰ってくる。それだけは確定だ。
一応四人全員分のお昼を用意した瞑鬼だが、今できるのはそれが無駄にならないよう祈ることのみ。最悪の場合、三人分を一人で。なんて、デブの代名詞のような事をしなければならなくなる。
「……つ、疲れた……」
げっそりとした顔で、瑞晴が店の方から戻ってくる。どうやらかなりおばちゃんに搾り取られた様で、目からは気力が抜けきっていた。
よほど根掘り葉掘り聞かれた様で、その苦労が顔から伺えた。
疲れているであろう瑞晴にお茶を渡し、食卓に昼食を並べ始める。瞑鬼流海鮮チャーハンと、野菜を切って盛っただけのサラダ。
チャーハンの方は、炒める前にご飯と卵を一緒にしておくと言う、瞑鬼独特の作り方だ。バラバラにやるのとでは、パラパラ加減が全く違う。
「……いただきます」
匂いを嗅いで少しは元気が出たのか、瑞晴がレンゲをとる。
瞑鬼もその正面に座り、合掌して口の中に放り込んでゆく。自分が作ったものなのに、やけに美味いと感じてしまう。
これは、瑞晴が前にいるからだろうか。
そうして二人で食べていると、玄関の方から声が聞こえてくる。四十過ぎのおっさんの声と、恐らく十代前半の少女の声だ。
聞こえてきた会話に、関羽とチェルが反応する。そしてすぐさま立ち上がり、お出迎えの体制を。
どちらが一番かを競うようにして、襖の前に陣取っている。
どすどすと遠慮のない足音と、とんとんとどこか親近感のない歩行音が、二人の耳に入ってくる。どうやら泥棒さんではないようだ。
「たっだいまー。元気にしてたか?我が娘よ」
「瑞晴ぁぁ〜。外暑かったよぉ〜」
当たり前のように瞑鬼の存在をスルーし、陽一郎と朋花がなだれ込む。その勢いに驚いたのか、関羽はチェルにしがみついてしまっている。
「……おかえり」
いつになったら話が動くのか。お楽しみに。