逃亡の序章
すっげぇ普通の日々。
魔王軍の人間がこの町に現れた日以来、千紗は瞑鬼と夜一の行動に相当戸惑っていたらしい。
事実、精神面のケアを引き受けた夜一から、瞑鬼は毎晩アドバイスを求められたほどである。
瑞晴も瑞晴で、表面上は何事もなかったかのように振る舞うが、それが虚構の上に貼り付けた、薄っぺらい幻想だなんてのは瞑鬼にもわかっていた。
だから、瞑鬼は頑張った。頑張ったと人から褒められてもいいくらいに頑張ったのだ。話す時間を増やし、夏休み中は相当な時間を一緒に過ごしている。
瑞晴の部屋へ行くと、たまに朋花がいることもあったが、それ含めてのケアと言える。
「あぁ。まぁ、初めはかなりアレだったがな。最近は割と落ち着いてるぞ」
「……ならいいんだ」
安心の回答を夜一からもらい、瞑鬼は話を切り上げた。いくらドライアイスで保冷してあるとは言え、こうも暑いとあまりに心もとない。
それに、あまり長い時間放置しておくと、中身が爆弾になってしまう可能性もあるのだ。
お互いの近況を報告しあった所で、ここの配達は終わりを告げる。
最後に適当に夜一と挨拶を交わし、扉を閉める。
空を見上げると、雲ひとつない晴天の空が、これから始まる瞑鬼の重労働を嘲笑うかのように広がっていた。
ぼやく文句を探しながら、瞑鬼は再び自転車に腰掛ける。荷物が一つ減ったとはいえ、それでも重いことに変わりはない。
店の車は、陽一郎が仕事用に使っている。あちらは配達でなく、取引先との交渉に行くためらしいのだが、どうにもその取引先の場所というのは同じ商店街内にあるらしい。
それならば、車を置いて行ってくれても良いじゃないか。配達に出る前まではそう思っていた瞑鬼だが、考えてみれば、免許がないから車があっても意味はない。
学生で子供で、住み込みなんてさせてもらっている身分の瞑鬼にできるのは、黙って店長の命令に従うことだけだった。
ひぐらしが一週間の命を光らせる中、瞑鬼もまた命を張りながら自転車を漕いでいる。一軒、また一軒と配達を済ませて行く。
家では今頃、関羽とチェルが瑞晴の店番の邪魔をしているだろう。二匹が顔を合わせると、ほぼ確実と言っていいくらいに喧嘩になるのだ。
店番をする瑞晴のことを頭に浮かべながら、瞑鬼は重たいペダルを漕ぐ。
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「……家着いたら速攻シャワーだな……」
真昼の空で笑っている太陽から目をそらし、一人ぶつぶつと呟く瞑鬼。
午前中の全てを配達に用いた人間からすれば、その体力の消耗は尋常ではない。外にいるだけで体力を喰われるのに、それに加えてあの荷物の量ではなおさらだ。
さすが正午なだけあって、商店街にはそこそこの人がいる。定食屋やファミリーレストランが一番に賑わう時間帯であるため、目をやれば嫌でもサラリーマンの姿が目に付いた。
ここから昼にかけては、部活をやってない学生が活動を活発にする時間帯だ。惰眠を貪って午前中なんて概念が存在しない彼らにとっては、午後からが一日の本番なのである。
瞑鬼のようにバイトに勤しむ人間もいれば、眼前のファミレスにいる学生のように、男女の仲を深める人間もいる。そんな光景を見ていると、瞑鬼の頭は色々と狂いそうだ。
なるべく現実から目をそらし、瞑鬼は帰路を急ぐ。家に帰れば、瞑鬼だってそこそこ充実した夏休みが送れるのだ。
荷物がなくなり軽くなった自転車のペダルを押し込む。来た時とは違い、すいすいとタイヤが動いてくれる。
そうして来た道を戻ることおよそ五分。裏道を挟めば、もうそこは瞑鬼の帰る家だ。
少し錆びれた、桜青果店の看板。店頭には、陽一郎のセンスで並べられたカラフルな果物たちが勢ぞろいだ。
裏の倉庫に自転車を停め、瞑鬼はやっと一息つくことができた。
今日は玄関からではなく、店側から入る気分らしい。1秒でも早く誰かと話したいのか、瞑鬼の足はやけに急ぎ気味である。
「……ただいーーまっ!」
会社帰りの親父よろしく、正面から堂々と敷居をまたいだ瞑鬼を襲ったのは、主人の帰りを待ちわびていた関羽だった。
午前中によほど激しい戦闘をチェルと繰り広げたのであろう。そのふわふわのはずの毛並みは、今ではぼさぼさになってしまっている。
顔に張り付いた関羽をなんとか剥がそうと、瞑鬼は手足をばたつかせる。そんな狼狽した瞑鬼の姿が面白かったのか、レジの前の瑞晴が微笑む。
「……なんだ?本能か?野生の本能なのか?関羽」
必死にご主人様の顔にしがみつく関羽を、なんとか力づくで引き剥がす。爪を立てられてなかったのが幸いだ。
店の奥で笑う瑞晴に、ただいまと告げて瞑鬼は店に入る。流石青果店なだけあって、店内はクーラーは常に高出力での運転。一瞬で汗が引いてゆく。
疲れた体を引きずって、何とか畳までたどり着く瞑鬼。まだ午後からも仕事があるというのに、ほとんどのエネルギーを午前に回してしまっていた。
「お疲れ、神前くん」
「……今日も暑かった」
「……シャワー、今なら空いてるよ」
瑞晴の言葉を耳に受け、瞑鬼は体を起こす。水分不足と熱中症見込みの身体は、嫌に重たい感覚だ。
「…………すこし休んだら入る」
そういうと瞑鬼は、疲労困憊な身体に鞭を打ち冷蔵庫前へ。適当に糖分と塩分を補給できる飲み物を手に、倒れるように机に座り込む。
そうしてしばらく休憩を取っていると、次第に店の方が賑わってくる。
この桜青果店は、午前中のお客さんが一日の収入の大半だ。しかし、それはあくまで何もない平日の時のみ。
夏休みとなった今は、遊びに行く小学生が切ったスイカを買っていくことも珍しくない。
笑顔で接客する瑞晴のすごさに感服しながら、瞑鬼はペットボトルに口をつける。素晴らしく冷えたスポーツ飲料が、喉を通って胃の中へ。全身をめぐるように疲れを癒してくれた。
そうして少しばかり体力が回復すると、今度は汗でベタベタの体を清めようと、瞑鬼は風呂へ向かう。こんな昼間ならば、冷水でも充分だ。
二階からは人の気配がなく、また陽一郎の部屋にも誰もいないらしい。
大方、朋花は友達の家にでも行っているのだろう。ここにいては店の手伝いをさせられるだけだから、当然と言える。
いつも通りに、洗濯物が干してある部屋へ行き、バスタオルを回収。その足で自室に向かい、荷物を置く。
一応家の中は一通り回ったが、どこにも陽一郎の姿は無かった。何日か前から、何故だか昼間にいなくなるのである。
まだ結構日常パートが続きます。