異世界制覇、やってみます
ここから始めよう。
夕焼けの中、窓の外から野球部のノック音が聞こえてくる。それに伴い、気合いを入れ直したのであろう掛け声も。
時計の針は既に六時を回っており、放課になってからもう随分と時間が経っている事を校舎に伝えるチャイムが鳴り響く。
窓から差し込む日が教室を照らす中、神前瞑鬼は、一人机の上で頬杖をついていた。
現在、教室に残っているのは瞑鬼一人だけ。他のクラスメイトはとっくに部活へ行ったか、帰ってゲームでもしているかの二択だろう。
机の上に広げられたワーク類を恨めしそうに睨むと、瞑鬼は一つため息をつく。勉強もせずに、ただ形だけを取り繕ったような自分の姿に嫌気がさしたのだ。
かと言って、部活に入っているわけでもない。特段親しい友人のいるわけでもない瞑鬼にできるのは、放課の時間を一人でただただ食いつぶすだけである。
「……帰るか」
誰に聞かせるわけでもなくそう言うと、瞑鬼はワーク類を適当にカバンに詰め、重たそうに腰をあげる。
いつも通りの帰り道を、いつも通りの速度で歩く。
家には帰りたくないが、帰らないと帰らないで警察にでも捜索願を出されたら厄介だからだ。
道を歩く瞑鬼の目には、明確な光というものが宿っていない。高校二年という年頃なら、恋に部活に勉強にと、人生で一番光輝いている時期であるにも拘らず、だ。
それというのも、全ては瞑鬼の家庭環境に原因がある。
元々そんなに仲が良かったわけではない。特段両親が好きだったわけでも、尊敬していたということもなかった。言うなれば、思春期の男子高校生のいる、普通の家庭だった。
親父は口煩いし、お袋も何かと事付けて小言を言ってくるが、それでも特に何もない。親父がクズなのは小学生の時からわかっていた事だ。
やれ部屋が汚いと言っては物を投げ、瞑鬼が本を読んでいたら勉強しろと言って本を破る。けれど、一度も殴られはしなかった。その理由を知るのは後々に。
幼少の時からそんな教育をされた人間が、どうして学校で上手くやっていけるだろうか。結果として瞑鬼は友達の作り方も、人に対する思いやりも持たずにこの歳になってしまった。
多分、始まりはそこからだ。段々と親に対する不信感とか、怒りとかが瞑鬼の中に溜まっていった。御門違いなのは重々承知だが、きっと上手くいかない学校生活の不満も、その中に入っていたと思う。
瞑鬼の不安が的中したのが、ちょうど今から一年前。高校一年生になったばかりの頃であった。
学校帰りに突然瞑鬼は両親に呼び出され、離婚するという事を聞かされた。最初は当然のごとく困惑した。何でだよとか、ふざけんなとかの常套句も言ったつもりだ。
落ち着いて話を聞くと、原因はお互いの不倫らしい。最初に親父。次にお袋が、親父の不倫のことを知って悲しいと不倫。そうして互いにバレたから、今度は離婚という形にするのだそう。
自分勝手な言い草だし、瞑鬼のことは一つも考えてない。やり場のない瞑鬼の怒りは、腹の底に溜まる。そこから滲んで、荒んで、燻って。
学校で噂が広まるのは早かった。一度も喋ったことがないクラスメイトが、ある日突然話しかけてきた。お前の親ってさ、ダブル不倫なんだろ?
結果は殴って謹慎。到底高校生が抱えるべきでないくらいのストレスが、瞑鬼を蝕んでゆく。
結局、その数ヶ月後には両親は完全に離婚。瞑鬼は父親の元に半ば強引に押し付けられた形で暮らすことになった。
そんな理由もあって、父親と息子が仲良くなるはずがない。一人っ子である瞑鬼では尚更だ。
しかも、その上父親はすぐに別の女を作り、家に連れてきたものだから、瞑鬼の怒りは限界だった。
勝手に人のものを使うのは当たり前。瞑鬼がいくら注意しても、二人して話を流してくる。そして何より、親父には反省の毛色が無かった。
そんな家庭が続いて二ヶ月ほどした頃からだろうか。瞑鬼は次第に家に帰る時間が遅くなった。
学校が終わったら、限界まで教室に残って適当に時間を潰し、学校が閉まったら図書館へ行き本を読んで時間を潰す。
そうして帰ると、二人はすっかり寝た時間になっていた。だから続けたのだ。
しかし、そんな生活も今日で終わりを告げる。なぜなら、瞑鬼は今日、父親を殺すことを決意したからだ。
これ以上は心が持たない。このままでは周りにも被害が及ぶかもしれない。そう考えた上での結論であるし、当然のごとく悔いはない。
カバンの上からそっと包丁を撫でる。昨日ホームセンターで買ってきた安物だが、人一人くらいなら問題なく刺せるだろう。
道を歩いていると、視界に大きな川の流れが入ってくる。この町一番の川である。
「……少し……、河原でも歩くかな」
成功すれば、恐らくこれが最後の川原になるだろう。別に、景色を楽しもうと思ったわけでも、自分の考えを改めようと思ったわけでもない。ただ単に、歩きたくなった。それだけだ。
なんの変哲もない川原を歩く。時間が時間だけに、瞑鬼と同じ考えの人はいないようだ。
川の水が光を反射し、照り返った陽が顔を照らす。しかし、そんな眩しい輝きが届く事もなく、瞑鬼は足を止める。これ以上歩いても得られるものはないと判断したのだろう。
元来た道をたどるべく、くるりと踵を返す。地面を踏みしめるように、一歩を刻んでゆく。
そうして歩いていると、ふと川上の方から声が聞こえた。か細くて、誰の耳にも届かないような声。
普段なら無視するところだろう。意味もなく溺れる動物を助ける趣味はない。そんな事をしても、自分がびしょ濡れになるという損をするだけだ。
それに、この世界は自分で自分を護れないと、何も始まらない。
けれど、今日の瞑鬼の考えは違った。
自分で守れないのなら、他人に守って貰えばいい。
自分で両親をなんとかできないから、道具に頼る。
そう判断したからだろう。声が瞑鬼を通り過ぎる前に、身体は動き出していた。
軽い傾斜を、小学生のように助走をつけて駆ける。流されてきた猫の入ったダンボールがあるのは川のど真ん中。そこまではジャンプで届かなければ。
勢いをつけて水面へと飛び立つ。しかし、瞑鬼の気合も虚しく、飛べたのはたった3メートルほどだった。
水柱があがり、水面が大きく波立つ。近くに人がいなかったのが逆にありがたい。誰かにこんな無様な場面を見られるのは、今の瞑鬼では堪えられないだろうから。
「…………っ!」
肺に入ってしまった水を出すように、勢いよく水面から顔を出す。水を吸った服が嫌に重たい。
幸いな事に、浮上点は猫の真近くだった。
手を伸ばしてしっかりとダンボールを確保する。一先ずは安心だろう。
しかし、安心したのも束の間、今度は猫ではなく瞑鬼を異変が襲う。
急に足が動かなくなったのだ。大方、日頃の運動不足が重なって、急に飛び込んだ事によりつったのだろう。
必死に踠いてなんとかどこかに掴まろうとするも、人が掴めるような大木が浮かんでいる筈がない。
奮闘虚しく、瞑鬼の身体は段々と重力に従うように水中へと落ちてゆく。誰も見ていなかった事が、まさかこんな形で自分に降りかかってくるとは。世界に嫌われているのは確定である。
ごぼっ、と大量の空気の塊が自分の身体から漏れたことがわかった。肺に空気がない。もう出すものがない。
呼吸が苦しいなんてもんじゃない。水面がだんだんと遠ざかって行く。
今、どのくらいの深さまできたのだろうか。もう瞑鬼の思考はほとんど回っていなかった。酸欠により苦しさを感じなくなっているのである。
もう、何を思ったところで遅い。ここでヒーローが助けてくれるのなら、そんな運命なら、もっと早くに救われていた筈だから。
どうせ死ぬなら……、次は異世界でも行って、勇者になって、魔王でも倒したいな。こんな世界はこりごりだ。
薄れゆく意識の中、瞑鬼はただそう願うだけだった。
以前までの評判は上書きします。