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レイニー・スイマー

作者: 七尾里緒

 静寂に雨音が響く。夏の夜特有の気温が肌に心地いい。その代わりに湿度は心地よくない。何とも言えないバランスに、私は一歩だけ、彼の方に寄った。

 彼と私の関係を一言で言い表せというのならば、両片思いが一番ふさわしいだろう。出会いはありきたりで、入学した大学で入部した部活が共に水泳部だったのだ。夏のシーズンインとともに増える練習時間の中で、必然的に私たち新入生の距離は近くなっていく。中でも彼はその面倒見の良さで、皆を繋ぐ大切な架け橋となっていった。同じ学部で固まる私たちは彼を中心にまとまって、今や部内でも仲のいい学年に挙げられている。それは誇らしいことなのだろう、今度同回生で旅行に行く話が出ているが、これも初めての話ではない。自然にみんなが望み、遊びに行きたくなるような関係。練習をともにし、切磋琢磨できる関係。近しい友人にも言えないような悩みをそっと拾い上げて、打ち明けさせ、受け入れてくれる気安い関係。どれも得難いもので、私たちはとても恵まれている、と私は思っていた。最近は月末に控えた大会に向けて各自で自主練を増やしているころだ。それもさり気なく、緩く彼が誘ったから、皆は自主的にプールに足を運んでいるだろう。何より、私もその一人だった。

 ではなぜ、ただ目立たない私が誰よりも中心にいる彼の隣に立っているのか。理由は至極単純で、環境と住居が似通っているからだ。大学ではなかなか見ない二浪生である私たちはその苦節を笑いに、ほかの人たちと距離を埋めていたがやはり積もる話はあるというもので、なかなか話せない苦労をぽつりぽつりと明かしていた。また、通っていた予備校が同じだったという事実が一番大きかっただろう。クラスは違えど通じる話は多いもので、浪人時代では知りえなかった彼との時間を恨んだこともあった。通っている場所も近かったので、練習後送るという名目の下、二人で変えることもままあった。そんなこんなで二人で過ごす時間は多くはなかったものの、少しずつ、少しずつ、まるで砂場の砂をかき集めるようにして増やしていった。

「一緒に帰ろう」

 そんな一言すらも、嬉しかった。それがどんな感情から生まれているか、なんて考えずともすぐに分かった。いつだって誰よりも彼に会いたいし、いいタイムが出たら彼に伝えたい。帰り道の昔話が互いの日常を知り合う時間になっていく過程はなんとも言えず心地よかったし、出会ってすぐ二人で帰った頃よりもお互いの影が近いことがくすぐったかった。前を向いて溢すように言葉を紡いでいた二人が、相手の言葉や吐息すらをも洩らさないように耳を傾けて会話していること、ふと見上げればやわらかな眼差しでこちらを見つめていることにも春の陽だまりに似た温かさがあった。

 でも、私にとってその感情はそれだけで膨らんでいく気持ちを相手にぶつけることはしようと思わなかった。私が彼に相応しくないということではなく、彼にはもっといい相手がいるだろうということではなく。私たちの関係はこんな風に曖昧で、緩やかな者であってほしいと願ったのだ。そう、例えば夏の夜、降りやまない雨のように。すべての輪郭がぼんやりとしていて、なんとも言えない空気が肌を撫ぜる。世界は街燈と乱反射する雨粒にだけで照らされていて、傘の中で交わされる音以外は自分のところには届かない。閉鎖的で、束の間のやさしさ。降りやんだ後の気温の中で、湿度だけが恨めしく思われる、一瞬のできごと。私は彼との時間をそんな刹那のものにしようとしていた、のだろう。

 それなのに、彼は二人寄り添って差す傘の中で私の名を呼んだ。いつになく、真剣な声で。

「ねえ、聞いて」

 微かで、きっとかつての二人なら聞き落していたようなささやき。でも私たちはもうそれを逃さない。私は練習か、雨か、どちらで濡れたのか分からない右腕を抱えてもう一歩、彼に身を寄せた。差している傘は私のものだ。しかも折り畳み。二人を雨から防ぐことは不可能で、目一杯に詰められたエナメルは二人とも雨に曝していた。彼は優しいから、きっと私の方に傘を傾けているだろう。お蔭で私は肩より内側は濡れていない。

「なぁに」

 わざと、ゆっくりと、答える。心なしか彼の歩調がゆっくりになった。どうしてか二人の触れ合う左肘が熱い。ああ、これはきっと、

「俺はあんたのこと、多分好きだ」

 吐き出された思いは、思ったよりも滑らかに私の下に落ちてきた。それでも納得いかない。私は二人の関係が分類されるものになることは望まないのに。

「それは、どういう好き?」

「きっとあんたと一緒」

「それじゃあよくわからないよ、あんたの好きが」

「じゃああんたは、俺のことをどう思っている?」

 突然の問いかけに、私は歩みを止めた。彼はそれをわかっていたように、すぐに止まる。真剣な、熱い視線。雨で閉ざされた世界。ああこれはきっと。

「泳ぐのと、一緒」

喘ぐように、答えた。泳ぐことは楽しい。水の中で悠々と泳ぎ、地上では出せないような速さで突っ切っていく感覚はやめられない。タイムが出れば成果も目に見えるし、何より水中では自由だ。泳ぐことが何よりも好きだ。そう、好き。

彼は眉をちょっぴり顰めた。これはみんなが揉めそうになったときに出る仕草。少しだけ困っている。こんなことまでわかっていて私はまだ足掻こうとしている。

「俺は、勘違いしてた?」

「よく、わからない」

「気づいていない振り、しないで」

 ぴしゃりと言葉が振り下ろされる。息苦しい。鼻から水が入ってきた時のように頭の奥がつんとする。

「わからない、よ」

「じゃあわかって」

 無茶だ、と思った。次の瞬間傘の中で窒息しそうになる。エナメルは道路に二人分。片腕で抱き寄せられた、と気づいたのは彼の口元が私の耳のそばにあったからだ。彼のにおいと、塩素のにおい。震える声で彼は囁いた。

「好きだよ、泳いでいるときも考えてしまうぐらいに」

 ああ、私は息継ぎができなかった。だから声を吐き出すこともできず、彼の腕の中で黙っていた。


***


 翌日も普通に練習だった。行きは一人で行くから少し寂しいけれど、今日ばっかりは救われた。結局昨日は曖昧なまま終わらせて、夜の闇に答えを紛らわせたままだった。別れ際の、明日返事頂戴、の一言だけが私の足を引っ張っていた。

 今日は恐ろしいぐらいに快晴だった。きっと昨日の夜にすべてを流しきったのだろう。一晩中、雨音を聞いていたのだから間違いない。なんなら雨はさっき上がったばっかりで、早朝の空は眩いくらいの青だ。

 私はどうしたいのか、どうするべきなのか。曖昧に終わらせようとしていた恋心は掬われて、その輪郭を丁寧になぞられた。もう形はくっきりと、私の中で大きく膨らんで自己主張をしている。もう無視できない。でもそれはちっとも嫌ではなく、むしろ気持ちよかった。ちょっと私は単純すぎるかもしれない。それでも答えは出てしまった。きっと今日は一睡もしていないから酷い泳ぎだろう。そしてみんなが心配するに違いない。でもきっと今までで一番気持ちよく泳げるはずだ、そんな確信があった。

 早く、早く泳ぎたい。そして彼に伝えたい。私の好きなものを抱えて、私はようやくすっきりしている。まるで、雨上りのように。


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