痴漢の手
電車の中、お尻に手の感触を感じた。
慌てて振り返ると、男の人がいる。両手で本を持って読んでいるようだったが、手が届くほど近くにいるのは彼だけだった。
「ちょっと、触らないでくださいよ」
だから私は彼が犯人だと思って、そう文句を言った。すると、彼は驚いた顔で私を見たのだった。
何の事だか分からない。
そんな顔をしている。
真面目そうな顔だった。眼鏡をかけていて、気弱そうで。
白々しい。
演技に決まっている。
私は痴漢が大嫌いだ。我慢ならない。絶対に許さない。
ところがだ。
「その人はずっと本を読んでいましたよ」
私が更に糾弾を加える前に、彼の目の前の席に座っている女性がそう証言をしたのだった。知り合いには思えない。庇う理由はなさそうだった。
心情的には納得ができなかったが、見ていた女性がいるのなら仕方ない。私はその男の人に軽く頭を下げて謝罪をした。
彼は何か言いたげにしていたが、私はそっぽを向いた。何か文句があるに違いないと思ったからだ。“冤罪を負わせようしやがって”。そんな文句を聞くのは癪だった。つまりは、本当は私はまだ彼を疑っていたのだ。
最寄り駅に着いたので電車を降りた。すると、偶然にも先の男性もそこで降りた。多少、嫌な気分になる。しかも、なんと帰る方向まで同じらしい。私は速足で歩いた。
が、
「あの……、すいません」
信じられないことに、彼は私に話しかけて来たのだ。やはり先の件で文句でも言うつもりだろうか? ところがそれから彼はこう続けて来た。
「差し出がましいかとも思ったのですが、どうにも放っておけなくて。あなた、何か変なものに憑かれているかもしれません」
それを聞いて、私は思わず疑問符の伴った声を上げてしまった。苛立ちは隠せていなかった。
「はあ?」
その責めるような視線を受けて、“無理もない”と僕は思っていた。仮に逆の立場だったなら、僕だって絶対に変に思っているだろう。
でも、言わない訳にはいかなかった。彼女から痴漢と勘違いされた時、僕は信じられないものを見てしまったのだから。
手が……、見えたのだ。
――何もない空間に手だけが浮かんでいて、そして、彼女のお尻辺りで消えた。
“きっと、あの手が彼女を触ったんだ”
そう考えるのが自然だろう。
偶然、彼女と僕の降りる駅は同じだった。なんとなく気になって目を向けると、ぼんやりとした影が見えた。しかも、いくつも。彼女の近くを彷徨っている。現実感がない。この世ならざる者に思えた。
だから僕は、勇気を出して、さっきあのように彼女に話しかけたのだ。
まぁ、普通は変に思われる。
「……僕はそういう関係に詳しくはないですが、何かお祓いに行くとか」
そう言ってみると、彼女は大きく溜息を漏らした。呆れている事をアピールする為にやっているようだった。
「信じられないのは分かりますが、本当に危険かもしれないのです」
なんとか説得しようとそう言うと、彼女は「ああ、はい。分かりました」と返して来た。ただ、納得したようには見えない。そして、
「私の家は近くなのです。そこで話しましょう」
などと続けて来たのだった。
僕はそれに驚いてしまった。一体、どういうつもりなのだろう? 普通は女性は見知らぬ男性を家に招いたりはしない。
彼女の家に入ると僕はリビングに通された。ぼんやりとした影は、相変わらずに彼女の周りを彷徨っていた。
茶も出さずに彼女は言う。
「初めから、私はあなたが痴漢の犯人だと思っていたのです」
「は?」と、僕は返す。
「言い訳は良いのです。痴漢をするだけでなく、私を襲おうと追って来たのでしょう?」
僕は誤解を解こうと
「いえいえ、そんな訳はないでしょう? もしそうなら、あんな人気の多い場所で話しかけたりしません」
そう訴えた。
が、そう言った瞬間、彼女は何を振り上げたのだった。そして、
ダンッ
僕の手に向けて、その何かは振り下ろされた。鋭利な痛みが、僕を襲った。「ギャアアア!」と悲鳴を上げる。
「だから、言い訳は良いのです」
そう彼女は言った。
見ると、彼女の手には包丁が握りしめられてあり、僕の手を突き刺していた。
「私、痴漢が大嫌いなのです。絶対に許せない。だから、私を痴漢した男は、こうして殺してやることに決めているのです」
その時、彼女の周りの影が大きくざわついたのが分かった。それで察した。彼女の周りの影達は、きっと彼女が殺した男達の亡霊なんだ……
“早く逃げなければ、殺されてしまう……”
僕は逃げようとしたが、包丁が手を貫いているので逃げられない。彼女はもう一方の手にナイフを持っていた。そして、それで僕の首を目がけて……
なんて事だ。
これで僕も亡霊達の仲間入りだ。
薄れていく意識の中、亡霊になったら、せめてもの復讐に、彼女の身体を触ってやろうと考えた。




