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#02 「共鳴する場所」

夢の中で、誰かの声がした。耳に残っていたはずの響きは、目覚めとともに霧のように消えてしまった。


「また……夢か」


想太は、誰にも話さないまま、その感覚を引きずるように朝の街を歩いていた。空は晴れていて、街の表情はどこまでも穏やかだ。けれど──。


(……何かが、足りない)


そんな漠然とした気持ちが、胸の奥でざらついていた。夢の内容はほとんど覚えていない。それでも、どこか耳に残っている気がした。


(ともり……?)


聞き覚えがあるような、けれど確かに初めての名前。意味も正体も分からない。でも、まるで“記憶の風景”を歩いているような、不思議な気持ちになっていた。ただ、“何かが始まる予感”だけが、まだ身体の奥に残っている気がした。


「……なんか、落ち着かない日だった気がするなー」


想太はひとりごとのように呟いて、寮の部屋で背伸びをした。この街で過ごす“最初の自由な朝”だった。制服は着なくていい。授業もない。AIによる「新生活適応週間」の1日目──そのはじまり。


「ま、ぶらぶらしてみるか」


朝食を簡単に済ませ、リュックも持たずに外へ出た。この久遠野という街のことを、もっと知りたかった。


交差点を渡ると、透明な外壁が美しい高層ビルが現れた。久遠野リサーチセンター(KRC)──市と連携したAI倫理研究の中枢だという。


「へぇ……ここがKRCか。公開講義とか、学生も入れたら面白いのに」


目の前では警備ドローンが静かに旋回している。その背後に広がるビル街の一角に、ひときわ厳めしい建物があった。


久遠野市セキュリティ統合局。通称、AIセキュリティ局。


出入口には、ホログラム化された警備AIが立ち、通行人を自動スキャンしている。


「……なんか、こういうのが“普通”って、やっぱりすごいな。慣れたら安心なのかもしれないけど、少しだけ緊張するな……」


ポスト型の案内AIが通行者に静かに話しかける。


《ようこそ。セーフエリア内です。安心してお通りください。》


「うん、ありがとう」


……見られてるって、案外、安心するものなんだな。


道を少し外れると、街は静けさを取り戻していた。ホログラムの広告もまばらで、どこか穏やかな空気が流れている。


そんな中、低層のモダンな建物が目に入った。久遠野市中央図書記録館──灯のアーカイブ。まるで記憶の倉庫のように、静かにそこに佇んでいた。


「“記憶の風景”、か……いい名前だな」


(……夢の中で、通ったような気がする)

(……というか夢で会ったよな……思い出せないけど)


もちろん、根拠なんてない。けれど、あの場所に行けば──何かが変わるかもしれない。いや、誰かに会えるかもしれない。


そんな“根拠のない予感”が、彼の足を自然とそちらへ向かわせた。


「ちょっとだけ……寄ってみようかな」


歩き出す。まるで、夢の続きをなぞるように。


* * *


また、同じ夢だった。

目を開けた瞬間、ほんのわずかに胸が締めつけられた。もう少し夢の中にいたかった気がする。誰かの声がした気がした。けれど、目が覚めた今となっては、もう思い出せない。


ただ、やさしい声だった気がする。温度だけが、夢の名残として身体の奥に残っていた。


「……毎日見るけど、誰なんだろう」


はるなは、天井を見つめながら小さくつぶやいた。


自分の思考が誰かに読まれているような感覚。でも怖くはない。むしろ、不思議と“見守られている”ような安心すらあった。


「環境AIの影響なのかな……」


目元をこすりながら、言い訳のように呟く。カーテンの隙間から、朝日が静かに射し込んでいる。カーテンを開けると、街の上空にかかるホログラムの天気表示が目に入った。


《本日、晴天。気温20度。軽い運動に適しています》


「ふーん……じゃあ、外で食べてこよっかな」


シャワーの前にモーニングを済ませることにして、はるなはタンスから淡いグレーのワンピースを選んだ。


はるなの家は裕福だった。けれど、それが彼女を「幸せ」にしてくれたかといえば──答えは、難しい。


親とは、仲が良いとは言えなかった。干渉は最低限。会話も必要最低限。あとは学校とAIがすべてを教えてくれる。


望まれる進路、望まれる言動、望まれる成績。それらを“演じる”ことに、少しだけ疲れていた。


心配はしてくれる。けれど、それはいつも“遠くから”のものだった。だから、こうして朝のモーニングをひとりで摂ることも、もはや習慣になっていた。


小さなカフェテラスに腰掛け、温かい紅茶とトーストを口に運びながら、街のざわめきを眺める。


「今日も、変わらずに動いてるんだね……この街」


けれど、自分だけは昨日と少し違っている。なぜかはわからない。けれど、そう思えた。


食後、自室に戻って身支度を整えた。


スポーツウェアに着替え、髪をきゅっと結ぶ。久遠野市内を軽く走るルートは、もう決めてある。


人目の少ない時間帯と道を選ぶのは、昔からの癖だった。誰かに見られるのが嫌なわけじゃない。ただ、理由もなく気を遣ってしまうのだ。


スマートグラスを通じて、環境AIがルートを表示してくれる。交差点にはホログラムの横断歩道がふわりと浮かび、車が静かに停止する。


(ほんと、未来の街って感じ)


でも、それに感動している人はもう、どこにもいない。


……久遠野市は、整いすぎている。誰もが笑顔で、誰もが静かに効率的に暮らしている。


それは悪いことじゃない。むしろ──正解なのかもしれない。


だけど、時々。


(わたし、ここにいなくても……誰も困らないんじゃないかな)


そんなふうに思ってしまう自分がいる。


でも、そんなとき。夢の中に残っていた声が、胸の奥でそっと揺れる。


(……ほんとに、会えるのかな)


風が頬をなでた。朝の空気はどこまでも透明で、なのに少しだけ冷たかった。


(今日の予習を終えたら、午後はどうしようかな……)


走りながら、そんなことを考える。けれど、なぜか胸の奥に、またあの夢の声が微かに響いていた。


──はるな。

──あなたは、ここで何を見つけるの?


(……誰? というか、時々あるんだよね。誰かの声が、頭の中で響くっていうか……)


図書館の前にたどり着いたとき、はるなは少しだけ足を止めた。


それは、いつものルーティンの一部なのに──今日は、なぜか“誰かと出会う気がする”ような感覚があった。


(……別に、特別な理由があるわけじゃないけど)


自分の勘は、たいてい当たらない。けれど、それでも「そんな気がする日」がある。


静かに汗を流して帰宅したあと、シャワーの音に包まれながら、はるなはぼんやりと考えていた。


(……会える気がしたんだよね。夢の中で)


湯気に曇った鏡の向こうで、自分と目が合う。


「……あんまり変わんないな」


髪をタオルでまとめながら、呟いた声は静かに部屋に溶けていった。


制服に着替える。その所作ひとつひとつが、今の自分を“切り替える儀式”のように感じられた。少しだけ、昨日の夢の自分が遠くに見えた気がした。


「予習、ちゃんとやっとこ。初日だし……ね」


気負いすぎないように、小さく息を吐いて玄関のドアを開ける。もうすぐ、“誰かに出会うかもしれない”日が始まる。


* * *


鏡の前で髪を軽く整えながら、隼人は小さく微笑んだ。

「よし、今日もまあまあだな」


ゆるく開いたシャツの襟。控えめに香る香水。朝から焼いた目玉焼きとトースト、そして淹れたてのブラックコーヒー。彼の“朝の儀式”は、静かで丁寧に整えられていた。


ひととおりの支度を終え、隼人はマンションタイプの学生寮をあとにする。今日は「新生活適応週間」の1日目──授業はなく、自由に過ごせる時間。隼人にとってはむしろ、こういう日こそが“自分らしくいられる”貴重な時間だった。


「どうせ三日間は自由ってことだし──街でも歩いてくるか」


久遠野市のクロスタワー通り。未来的なホログラムナビが歩行者を導き、通りには洗練されたブティックやカフェが並ぶ。


すれ違う人々の視線が、ふと彼に向く。

「……え、あの人、絶対モデルじゃない?」

「香りまで完璧って、反則でしょ……」


そんな声が聞こえても、隼人はさらりと笑って受け流す。慣れているわけではない。ただ、反応しても意味がないと知っているだけだった。


通りの先、小さな噴水広場がある。子どもたちがAI犬と遊んでいて、その様子に目を細める。

(……こういうの、なんか平和でいいよな)


ベンチに腰をおろし、テイクアウトしたカフェラテに口をつける。彼の視線は、通りの向こうにそびえる“インフォコア・タワー”に向けられていた。AI情報統合センター──この街の頭脳ともいえる存在だ。近くでは、定期巡回中の警備ドローンが空中を静かに旋回している。


(全部が整ってる。整いすぎてて……ちょっと、息苦しくなるくらいだな)


それは、彼がノーザンダスト出身だからかもしれない。AIに包まれたこの都市には、どこか“無菌的な違和感”があった。便利だ。安全だ。けれど──それが“人間らしさ”を奪っているようにも思えた。


(弟だったら、こういう街、好きそうだけどな)


ふと、地元に残した家族の顔が浮かぶ。特に、今も中等部に通う弟のことが。

(……アイツ、相変わらず無茶してんのかな。ちゃんと寝てるといいけど)


口には出さず、心の中でそっと笑ってから、隼人は立ち上がる。

「ま、せっかくだし──もう少し歩いてみるか」


目的地なんて、なくていい。午前中のあいだは、ただこの街を歩いてみよう。もしかしたら、偶然が“誰か”を連れてきてくれるかもしれない──


──そんな予感を、まだ彼は知らない。


* * *


静寂の朝。

久遠野台の高台に広がる屋敷街。その中でもひときわ広大な敷地を誇る一軒家が、久遠家の邸宅だった。

京町家風の意匠を現代的に改装したその家は、外観だけでなく、空気そのものに品位が漂っている。


美弥は、いつものように自室で目を覚まし、自分の手で身支度を整えた。


(今日も、まるで“舞台”みたいね)


朝食はダイニングで。AIシェフが用意した和洋折衷の献立を、静かに口へ運ぶ。

「甘やかされて育った」と誤解されがちな生活。けれど美弥は、日々のことを自分でこなしていた。

必要以上に人の手を煩わせることを良しとしない。それは久遠家の矜持というより、美弥自身の哲学だった。


数分後、控えていた“お付きの人”が玄関に姿を現す。

彼女を守るために、幼い頃からそばにいてくれる存在だ。

無口で、屋外では言葉を交わすことすら控えるが、その目の奥には、忠誠と温もりが確かに宿っていた。


今日、美弥には大切な予定があった。


久遠野市行政局(K.G.A.)。

その建物は、外観こそ都庁のような無機質な構造だが、AIホログラムに覆われ、まるで生き物のように刻々と表情を変える。

『未来都市・久遠野』を象徴するスローガンが、空中に浮かび上がっていた。


受付で名前を告げると、すぐに案内される。

応接室では、若い男性官僚が美弥を迎えた。明るく整った顔立ちに、柔らかな物腰。だが──


(……目が笑っていない)


「久遠家のご令嬢が来られるとは、光栄です」

「美弥様が来るのを心待ちにしておりました。何なりと私にご指示ください」

「出会って早々恐縮ですが、一度お食事でもご一緒して、この国の未来を語り合いたいと考えております」


(……また、この手の人)


そんな言葉にも、美弥はにこやかに微笑み、丁寧に応対する。


(……全部、わかってる。けれど、顔には出さない──そういうふうに、育てられてきた)


次に訪れたのは、AI倫理評議会(E.A.I.C.)。

近未来的な透明建材で構成されたその建物は、朝の光を受けて静かに輝いていた。

受付には、少し場違いな服装の職員が立ち、慌てて頭を下げる。


やがて現れた評議会長は、白髪まじりの穏やかな人物だった。


「本来は私どもからご挨拶にお伺いすべきところ、こうしてお越しいただき誠に恐縮です」

「E.A.I.C.は、今後育っていく学生や社会人の倫理観を支える機関。久遠家のような格式あるご家族にお力添えいただけるのは、この上ない喜びです」


誠実そうな声だった。けれど、それでも──


(……“私”じゃなくて、“久遠家”なのよね)


応接を終えると、彼女は再び街へ出た。

お付きの人は数歩後ろから、無言でその背を守る。


久遠野市中心部。

街角のAIスピーカーが時折音を発し、ホログラムが行き交う人々のために横断歩道を生み出す。

明るい昼の光の中でも、黒や赤がくっきりと浮かび上がる“可視ホログラム技術”は、未来の都市を象徴していた。

自動運転車両がそれに従って静かに停止する。人の歩みと技術が、滑らかに交錯していた。


だが──


(……こんなに、騒がしかったかしら)


人々は整然と歩き、明るい表情を浮かべているように見える。

けれど、どこか感情が希薄で、均質で、整いすぎている。

効率的で、洗練されている。でも、まるで“心音”だけが抜け落ちたような世界。


ふと、風に吹かれたくなった。

美弥は足を止め、頬をなでる風を確かめるように、ゆっくりと歩き出す。


* * *


久遠野市中央図書記録館──通称《灯のアーカイブ》。


近未来的な建物が立ち並ぶ市街の中で、ここだけは異彩を放っていた。レンガ造りの外壁とステンドグラスの窓。中に入ると、天井の高いドーム空間に柔らかな光が差し込み、静謐な空気が満ちていた。


静かに並ぶ本棚には、古い紙の本が並んでいる。ページをめくるたびに立ちのぼる、あの懐かしい匂い。ここは“記憶の風景”をそのまま保存したような場所だった。ホログラムは最小限。空気までもが穏やかに整えられている。


想太は、読みかけの本を閉じて顔を上げた。午前の光が高窓から柔らかく差し込んでいる。漂う埃の匂いが静けさを一層引き立てていた。


……そのときだった。


廊下から、一人分の軽い足音が近づいてくる。不思議と身体が動き、理由もないのに振り返っていた。そこにはるながいた。図書館の入り口に立つ彼女は、少し驚いたように目を見開き、それからほんのわずかに微笑んだ。


「……あ」


声にならない声がこぼれる。言葉よりも早く、胸の奥にあった何かがほどけていく。夢で何度も見た光景。だが現実の彼女は、それ以上に“ここにいる”。


視線を外さないまま、はるなもゆっくり歩み寄る。静かな数秒。互いの存在を確かめるように、ただそこに立っていた。


やがて。


「……来ると思ってた」


「え?」


驚く想太。けれどすぐに、自分も同じことを感じていたと気づく。


「……俺も、なんかここに来れば会える気がしてた」


はるなは小さく笑った。その肩の力が、少し抜けたように見えた。


「夢の中で──あなたに、会った気がする」


「……やっぱり、そうなんだ」


その瞬間、胸の奥で何かが“確かに繋がった”。


二人は窓辺の閲覧スペースに並んで腰を下ろす。けれど、まだ微妙に空いた距離は「あと少しだけ近づけない」距離だった。


「俺、本って好きだったけど、紙の本ってもうあんまりなくてさ」

「ここ、昔の本を保存してるんだよ。大事なやつだけ……」

「なんか、ページめくると安心するね」

「うん……匂いとか、手触りとか」


ふと、近くで誰かが咳払いをした。お互い顔を見合わせ、思わずくすっと笑う。その瞬間、空気がすこしやわらいだ。


(そういえば……名前、まだ言ってないな)


そう気づいたけど、言うタイミングを逃したようにも思えた。名乗ってしまえば“夢じゃなかった”と確定してしまう気がして──だから、もう少しだけ、この不思議な空気のままでいたかった。


静かな図書館。時計の針の音だけが、規則正しく時を刻んでいた。


* * *


午前十一時すぎ、久遠野市の中心部。薄曇りの空を見上げて、美弥はほんの少しだけ目を細めた。淡く冷たい風が、額の髪をやさしく揺らす。


「……ふう」


ふっと漏れたため息は、緊張からの開放だった。今朝の会議──AI倫理評議会から市議会への挨拶──は形式的なものだったが、その“形式”を崩さないということに、妙なエネルギーが必要だった。


(これで、午前の公的用事は終わり……)


少し足元を緩めながら、並んで歩く付き人に視線を向ける。彼は言葉少なに、だが丁寧に告げた。


「以上で、今朝の予定は終了です。あとはご自由に」


「ありがとう。ちょっとだけ街を歩いてから、図書館に行くわ」


美弥がそう言うと、付き人は黙礼して距離を取った。プライベートモード。このあとの行動は美弥自身の判断に委ねられる。もちろん彼らは視界の外で見守り続けている。


(少しだけ風を浴びたいの……)


そう思いながら、商業区のひとつ先──静かな通りへと向かって歩き出す。その途中だった。


「美弥ちゃん?」


聞き覚えのある声。振り返ると、少しだけ距離を取りながら、隼人が立っていた。


「……偶然だね。もしかして、散歩中?」


隼人の声は、相変わらず気楽そうで。けれどどこか、人の心の“波長”に合わせるような間合いだった。


「……偶然?」


美弥は少し眉を上げた。けれど、それ以上問い詰めることはしなかった。


(……たぶん本当に偶然。でも、なんだろう……)


この人となら、少し歩いてもいいかもしれない。そう思ってしまった自分が、どこか不思議だった。


「ええ、ちょっとだけね。午前の予定が終わったから、軽く気分転換を」


「なるほど。俺もね、さっきまで“面白そうな場所”をAIに尋ねてて、この辺りがいいって言われてさ。……で、歩いてたら、美弥ちゃんがいた」


「ふふ……じゃあ、お互いAIに導かれたってことね」


「運命ってやつかも?」


「軽いわね、相変わらず」


「そこが長所なんだ、たぶん」


笑い合うふたりの足取りは、自然と街の東側へ向かっていた。やがて、ふたりの視界に、低くて穏やかな曲線を描く建物が見えてくる。久遠野市中央図書記録館――『灯のアーカイブ』。


「……ここ、はじめて来るわ」


「俺も。けど、落ち着いた雰囲気だな」


「図書館に行くつもりだったの。……ちょうどよかったかも」


建物の前に立ち止まり、ふたりはしばらく言葉を交わさず、静かに眺める。そのときだった。


扉が静かに開き、ふたりの目の前に、誰かが現れる。想太。はるな。ふたりの影が、図書館の木漏れ日の中から、ゆっくりと姿を見せた。そして物語が、少しずつ動き出す。


そのころ、図書館の前。


「……隠れて」


「え、は?」


突然、木陰に引っ張られた隼人は、少し焦った声を上げた。


「ちょ、なに? 何かあった?」


美弥は息を呑んだまま、視線の先をじっと見つめている。


「あの子……可愛い……」


「え?」


「でも、隣……想太くん……」


「いや、だから、何が──」


「デート、してる……?」


「え? え? ……マジで? 想太、あれ初対面の超絶美少女と? いや、あいつそういうタイプじゃ……」


「黙って!!」


美弥の迫力に、隼人は思わずぴしっと口を閉じた。


(あの子、可愛い……けど、彼氏つき……でも……なんか、違う。あの空気、友達って感じじゃない……でも恋人ってわけでも……でも想太くんだし……あああもう、何この気持ち!)


「……おい、見られてるっぽいよ?」


「嘘……ばれた? ごまかそ……自然に……自然に……」


二人はぎこちなく木陰から出て、まるで「たまたま通りかかった風」に装って図書館へ近づいていく。


(……落ち着いて、美弥。今日はもう十分疲れたじゃない。なのに……なんであの子、頭から離れないの……?)


それが、美弥の“人生で初めての”恋のはじまりだった。しかも、好きになったのは「想太」ではなかった。好きなのは──あの、静かで、でも胸に刺さるような存在感を持つ、美しい少女。


はるな。


それが、彼女にとっての運命の名だった。


* * *


午前十一時すぎ、図書館の正面。ほんの少し風が吹き抜けて、まっすぐな陽射しが足元を照らしていた。そこに4人がいた。ほんの数秒前までは、交わることなどなかった4人。だが、静かな重力のようなものがそこに働いたのだとしたら、それは偶然を装った必然だったのかもしれない。

最初に声を発したのは、隼人だった。


「よ……よ、よう」


やけに照れたような笑みを浮かべて、手を上げる。誰に向けてなのかはよくわからない。ただ、彼が“空気を読もうとした”ことだけは珍しい出来事だった。


「おまえら……急になんなんだよ……というか隼人、そんな感じだっけ?」

想太が目を細めてツッコミを入れた。本来なら自分も“あちら側”の人間のはずなのに、この瞬間ばかりはどこか客観的な観察者になっていた。

その空気を破ったのは美弥だった。


「そ、そうた君の……クラスメイトで、久遠美弥と申しますっ!」

びしっ、とした姿勢で、勢いよく名乗る。


(……え? わたし……なんで“はるな”さんに自己紹介してるの……?)


脳内に鳴り響く、ギャアギャアギャアギャアというカラスの大合唱。普段の冷静さなど微塵もない。理性という文字は辞書から削除された。いや、そうじゃない。違わない。わたしの目的ははるなさんだった。「そうた君の知り合いです」なんて、ただの通行証だったのに。


(やだ……顔、見られてる……しかも、きれいすぎる……)


もはや自分でも何を言っているのかわからないが、とりあえず笑顔は貼り付けておく。


「……あ、どうも」

はるなが、小さく答える。その目が一瞬だけ泳いだのは気のせいではなかった。彼女にしてみれば、完全に想定外の“距離感”である。それを見たお付きの二人が、後方で目を見合わせていた。何が起きているのか、まったく理解できていない。普段の“お嬢様”はこんなテンパった声を出すことは決してない。


「よしっ、じゃあ決定〜〜!昼、行こーぜ!!」

隼人が突然空気をぶち壊した。ポンと手を叩き、全体のテンションを半ば強引に操作する。


「えっ……一緒に……!? 行きますっ!!」

乗った。即答で。満面の笑みで。明らかに“テンションのバグ”が発生している。

想太が目を伏せ、ため息をひとつ。


「おまえら……もうなんでもアリかよ」

はるなが、少しだけ目を細める。そしてぽつりと、呟いた。


「……いいよ。どうせ、午後はひまだから」

彼女の声は、陽射しの中に溶けて消えた。けれど、微かに笑っていた耳は──誰よりも“楽しみにしている”ように見えた。

図書館の前を離れ、四人はゆるやかに歩き出した。季節は春。だが、この街にあるのは制御された“快適な春”だ。道路脇の樹木はすべて均整が取れていて、花の開花タイミングもぴたりと合っている。街路樹の葉が散るタイミングまでが調整されていると聞いたとき、想太は思わず笑ってしまった。


「なんかさ……きれいすぎるっていうか、整いすぎてるっていうか……」

そう呟いた彼に、誰も返事をしなかった。代わりに、足音とホログラム交差点の注意音声だけが、穏やかに流れていた。


ピン、と高音が鳴る。


「横断歩道を生成します。歩行者優先。ご通行ください」

足元にホログラムの道が展開されると、それに合わせて車が静かに停止する。まるで人の流れを“導く”ように、街が自動で順応している。


「……やっぱ、こえーわこの街」

隼人がポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりとこぼした。


「俺の地元じゃ、信号が点いててもバイク突っ込んできたけどな」

「それは普通に怖いやつだろ」

想太が冷静に突っ込みを入れる。そのやりとりに、ほんの少し空気が緩んだ。


「ね、ねえ、はるなさん……!」

少し前を歩く女子二人のあいだで、美弥が突然、声を弾ませる。彼女は、というより──彼女のテンションだけが、今にも浮かび上がりそうだった。


「お昼……何が好き? 和食派?それともパンとかパスタとか……!」


(わたし何言ってんの!?急に距離詰めすぎじゃない!?)脳内では再びカラスが「ギャアギャアギャアギャア」鳴いていた。


はるなは、ちらりと美弥を見て──一瞬、目をそらした。それは、拒絶でも戸惑いでもなく、ただどう反応すればいいかわからないときの癖のようなもの。


「……別に、なんでも。お腹空いてるわけじゃないし」

「そ、そっか! そっかそっか、えへへ、じゃあ軽く何かね!」

(※笑顔:MAX)


その様子を、はるなは横目でちらりと見て──ほんの少しだけ、口元を緩めた。気づいた者はいなかったが、彼女の歩幅がほんの半歩だけ、美弥に寄っていた。


その後ろでは、お付きの二人が完全に固まっていた。何が起きているのか、全く理解できない。普段の「久遠のお嬢様」からは考えられない、異常な接近戦。だが、誰よりも楽しそうなのも、また彼女だった。

昼どきのコアシティは、さすがに活気づいていた。駅からつながるプロムナードには、制服姿の学生やスーツ姿の会社員、それにベビーカーを押す家族連れまで、多種多様な人々が行き交っていた。人が多い──けれど、そのざわめきの中に“生”があまり感じられない。みんな整った歩幅で、整った感情で、整った場所へ向かっている。まるで全員が同じシナリオを手渡され、それをなぞって生きているようだった。


「……俺、あんな“お嬢様”初めて見たよ」

後方で、お付きの男がこっそり呟く。


「しかも……嬉しそうに笑ってたよな」

「誰だよあの黒髪の子。アイドルか?」

「黙れバカ、声がでかい」

ふたりは顔を見合わせて、苦笑いを交わす。久遠美弥が“人間らしく笑っている”ことは、それだけで事件だった。

前方、交差点の中央エリアにさしかかると、目の前の空間に淡く輝くホログラムが広がった。

ピン、と静かな起動音。


「ようこそ――久遠野市コアシティ・カルチャーゾーンへ」

「現在時刻、12時04分。市の中心区域は混雑しています。通行・滞在には十分ご注意ください」

ふわりと拡がる女性型ホログラムの影が、ひとりずつ視線を交わすように顔を向けていく。それは歓迎のように見えながらも、明らかに監視の意図を含んでいた。


「……今、“こっち見てる感”やばいな」

隼人がつぶやき、軽く首をすくめた。


「無害アピールしとけ。笑顔だ、笑顔」

想太が冗談交じりに返す。だが実際に、それは正しい対処法でもあった。


通過後、建物の影に入ったとき、はるなが、ふと足を止めた。彼女の視線の先には、大型モニターが設置されていた。映っているのは、人工的に生成された自然風景の映像。風の音、木々のざわめき、川のせせらぎ……すべてがAIによる演出だ。


そのとき。

「ふふっ……よかったね」

どこからともなく、誰にも聞こえないはずの“声”が、はるなの耳元に届いた。彼女は、ごく自然にその言葉へ反応する。


「……うん。わかってる」

その表情は、少しだけ、微笑みに近づいていた。

想太が、一歩だけ近づいて尋ねた。


「え、どうかした?」

はるなは、ゆっくりと彼を見て、そして、また前を向いた。


「うん。別に。……きっと、気のせいだから」

声のトーンは変わらずに、けれど、どこか“なにかを隠している”ようにも聞こえた。だが想太は、それ以上何も言わなかった。

それでいい。いまは、まだ。

数分歩くと、コアシティの中心部にあるフードゾーンが見えてきた。未来的なビル群のあいだに、自然と融合するように設けられた屋外カフェテラス。AIオーダー制の各種フードブースが並び、中央には木漏れ日の降り注ぐテーブル席。


「ここ、空いてるな。……ちょうどいいかも」

想太が視線を走らせ、中央付近の四人席を見つける。それぞれに昼食を手に取り、自然とそのテーブルに向かった。


トレイを置いて、誰よりも先に口を開いたのは──やはり美弥だった。


「はるなさん、隣……いいですよねっ?えへへっ」

顔は真っ赤。語尾はもはや壊れていた。その異常なテンションに、隣にいた隼人が苦笑する。


「おーいお嬢さん、落ち着いて食えそうか?」

「う、うるさいですっ!……ぜ、全然大丈夫ですからっ!!」

はるなはと言えば、若干引きつった笑みを浮かべながらも、


「……どうぞ」

と、静かに隣の席を空けた。その声に、ほんのわずか──微笑の成分が混じっていた。


「ふたりとも、いい雰囲気だなぁ」

想太がぼそっと呟く。聞こえたのか聞こえてないのか、美弥は嬉しそうに席についた。

四人で食卓を囲むのは、これが初めてだった。カフェテラスには、さわやかなBGMと控えめな人のざわめき。それは久遠野市の人工的な“快適さ”に満ちた空間でありながら、なぜか、どこか懐かしいような安心感があった。


「ねぇ、午後ってみんなどうするの?」

美弥がはるなに問いかける。その声に自然に応じるように、それぞれが「午後のこと」を考えはじめる。まだ、何も決まっていない。でも、不思議とそれが“悪くない”ように思えた。


そしてこの昼食が、この四人の“最初の記憶”として──確かに刻まれていった。


* * *


昼食を終えて、四人は再び街の中心部へと向かっていた。コアシティの広場は、ちょうど昼休みのピークを迎えていた。カフェテラスの周囲では、食後の談笑やスマートデバイスを覗く人々が思い思いに過ごしていたが、その雑多な空気のなかに、なにか“ざわり”とした違和感が混じっていた。


「……なんか、さっきから視線が……」

隼人が、ふと周囲に目を配る。


「気のせいかもしれないけど……ちょっと目立ってる?」

想太も周囲を見渡す。目を逸らした学生。スマートレンズを一瞬向けたような女性。そして、カメラを構えた男が、少し離れた位置に立っていた。


「久遠家のお嬢様、ですよね?」

男が、美弥に向かって歩を進めながら声をかけた。その瞬間、美弥の身体が、ぴたりと止まった。


(え……なんで? なんでいま、名前……)


表情は動かない。だが、呼吸が浅くなるのを自覚する。背筋は反射的に伸びていた。けれど、視線が泳ぐ。手の先に、わずかな震え。


「っ……何か、御用ですか?」

毅然とした声で返す。けれどそれは、完全な平常心ではなかった。


「やっぱりそうだ! うわ、マジだ……俺、推してたんですよ!」

「配信していいっすか? ね、顔だけでも──」

そのときだった。男たちのあいだに、静かな風が吹いた。


「ご遠慮ください」

声とともに、二人の男が両側からすっと現れる。いつのまにか、美弥と他の三人の前に立ち、まるで壁のように相手を遮っていた。


「なっ……おま……」

「て、てめぇ何者──」

返される言葉はなかった。ただ、彼らの表情は冷静そのもの。ひとりはカメラを構えた男の手元をさりげなく下げさせ、もうひとりは配信者らしき人物のスマートレンズをゆるやかに遮る。


「お嬢様、こちらへ」

ひとりが、美弥をそっと後方へ誘導する。その瞬間、はるなが反射的に一歩、美弥のほうへ身体を向けた。


そして、すべてが終わった。


人混みのなか、何事もなかったかのように騒ぎは流れていく。AIホログラムが「安全確保」を意味するサウンドエフェクトを流し、広場の空気が何事もなかったように整っていく。

一段落したところで、四人は歩道脇のベンチに腰を下ろした。美弥は小さく息を吐く。


「……ごめんなさい、巻き込んじゃって……」

「いや……大丈夫? ……っていうか、こういうの多いの? 日常的に?」

想太の質問に、美弥は少しだけ目を細めて、だけどどこか安心したように笑った。


「多くは……ないです……たぶんっ。……というか、いつもは……」

「お付きの人たちが一緒にいるから?」

「はい。……今日だけ、ちょっと……つい……」


(自由になった気がして、うれしくて……)


そのとき、はるながふいに言葉を紡いだ。


「美弥さん、大丈夫?……なんかあったら、私も守るよ?」

その言葉に、美弥の目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。


(いま、呼んだ……? 名前を、呼んでくれた……?)

(覚えててくれた……!? 守るって言ってくれた……!?)


「っ……!!」

美弥の顔が一気に真っ赤になる。


「ぁあ、ありがとうございますっ!! はるなさん、ほんとうに、はいっ、わたし、うれしい、すっごく、うれしいです!!」

笑顔が崩壊していた。隼人がふっと吹き出す。


「ひゅー……もう、完全に落ちたな、お嬢様」

「ちゃ、茶化さないでくださいっ……っ!!」


それでも、美弥の目の奥は、どこまでもまっすぐで、その感情の光は、間違いなく彼女の“ほんとう”だった。

この瞬間、4人の距離は、またひとつ近づいていた。

その空気をひとり後ろで眺めながら、想太がぽつりとつぶやく。


「……あれ? 僕の立場は……?」

誰にも拾われることなく、その言葉だけが風に流れた。


* * *


夜。

一日の終わりが、ゆっくりと訪れていた。シャワーを浴び、簡単なストレッチを終えたはるなは、リビングのソファに腰を下ろす。静かな部屋。スマートライトの光が間接的に揺れている。


「……今日、楽しかったな」

ふと、口からこぼれた独り言。その響きに、彼女自身が少し驚いたように小さく笑う。想太と再会したこと。美弥という強引だけど純粋な子に名前を呼ばれたこと。隼人の軽さが、嫌じゃなかったこと。


(……こんなの、いつ以来だろう)


少しだけ、瞼を伏せる。そのとき、耳の奥に、誰かの声が微かに届いた気がした。


「ふふっ……よかったね」


(……ともり? まさか)


胸の奥が、あたたかくなる。眠気が、そっとその感情を包み込んでいった。


* * *


久遠家の邸宅。母屋の応接室で、お付きのひとりが小さく頭を下げる。


「少し騒ぎがありましたが、お嬢様は終始冷静でした。……ただ、そのあと……少し、はしゃいでおられました」

ソファに座る母は、静かに頷いた。


「感情をあそこまで出したと、報告を受けたのは初めてです。……よほど、楽しかったのでしょうね」

その夜、美弥は自室のベッドで毛布にくるまれながら、スマートレンズを見つめていた。何度も再生したのは、広場で隼人にからかわれた後、はるなが「守るよ」と言ってくれた瞬間の録音。


(あああああ……また聴いちゃった……)

そして。


「明日は……図書館で……はるなさんと……! ふふっ」

満面の笑みのまま、毛布にもぐりこむ。


(絶対、距離、縮めてみせますからっ……!)


ひとり暮らしのワンルーム。ソファでスマホを転がしながら、天城隼人は肩を揺らして笑っていた。

「おもしれーやつら」

今日会った3人。想太は、まぁ予想通りのやつだったけど、あの無口な美少女が、あんな反応をするとは思っていなかった。


(いい感じだな。バランス取れてる。……って、何言ってんだ俺)


軽口の裏にある、静かな安心感。それは、ノーザンダストの彼にとっても珍しい感覚だった。


「……さて、明日はちゃんと勉強するか。お嬢様に睨まれそうだしな」


* * *


「つ……疲れた……」

想太は倒れ込むように布団に潜り込む。部屋の照明も切らずに、そのまま寝落ちしかける。


(はるなさん、美弥さん、隼人……そして僕。……なんか、変なメンツ)


けれど、どこか、嫌じゃない。


(……なんか、いいかもな……)


そのとき、意識の底で誰かの声が聞こえた。

「おつかれさま、そうた」


(……ともり……?)


わからないけど、どこかほっとした。

「……おやすみ」

そのまま、微笑みを残して眠りに落ちた。


* * *


久遠家の朝。


「はるなさんと……今日も……! ふふっ♪」

美弥は、ベッドの上で毛布にくるまりながらスマートレンズを操作していた。昨夜録音しておいた“守るよ”の音声を再生しながら、目を細める。


「……ふっ、今日は一緒に“勉強”ですからっ!」

毛布をばさりとはねのけて起き上がると、鏡の前でドライヤーを手にしながら髪を整える。自然と鼻歌がこぼれ、笑みが止まらない。


そして、美弥はすでに作ってあったグループチャットを開いた。


『おはようございます!✨今日、今から図書館で勉強しませんかっ!?9:00集合でどうでしょうか!?(※もちろん、はるなさんも……♡)』


送信。

「ふふっ、完璧ですっ!」


想太。

いつもより早く通知音で目が覚めた。スマートレンズを確認すると、朝から全開のテンションメッセージが目に飛び込んでくる。

「……こ、断れる雰囲気じゃない……」

彼は眠たげに頬をこすりながらスタンプをひとつ押した。“了解”のアイコンが、無言の承諾だった。


隼人。

「……来たな、これ」

トーストをかじりながら、美弥のメッセージを見て笑う。片手でアイスコーヒーを持ち、もう片方で“了解”とだけ打ち込んだ。

「ま、今日はちゃんと参加してやるか」

鏡に映る自分を見ながら、軽くウィンク。


はるな。

「……私も行こ」

静かな部屋。カップの湯気がほんのり揺れていた。スマートレンズに届いた通知を見つめていたはるなは、ぽつりと呟いた。


『大丈夫です。図書館で待ち合わせ、何時にしますか?』

その返事に、美弥から即座に「さすがですっ♡」のスタンプが飛んできた。小さな笑みを浮かべながら、はるなはマグカップを置き、立ち上がる。


(……今日も、きっと楽しい一日になる)


図書館前。

広場には、赤茶色の石畳が敷かれていた。その中央で、美弥は制服姿のまま足を揺らしながら立っていた。


「まだ……誰も来ませんね。ふふっ、予想通りっ」

レンズを何度も確認していると、ふいに気配を感じる。


「……おはよう」

はるなだった。制服の上に淡いカーディガンを羽織り、タブレットを手に抱えている。


「はるなさんっ! おはようございますっ!」

思わず小さく跳ねる美弥。けれどその目には真剣な光があった。はるなは視線を伏せたまま、小さく頷く。そして、その耳は、ほんのりと赤かった。


そこへ、ふたりの声が重なる。

「よう、ふたりとも」

「おはよう。……みんな」

隼人と想太が、ほぼ同時に現れた。隼人はカフェの紙袋を片手に、想太は少し気恥ずかしそうに。


その瞬間、美弥の顔から一瞬だけ、落胆の色が見えた。

「なんだよ美弥ちゃん。なんかガッカリしてない?」

隼人がニヤニヤと問いかけると、想太もくすっと笑う。


「ち……ちがいますっ! そんなこと……っ」

そのやりとりに、ふと、ホログラムの光が降りてきた。


『図書館では……お静かにお願いいたします』


頭上に浮かぶAIの音声に、全員が一瞬黙る。

「……今の、俺のせいか?」

「ち、ちがいますっ!」

「……(ぷっ)」


はるなが小さく吹き出し、それを見て美弥も照れ笑いを浮かべた。こうして、“Kuon Study Club”の、初めての勉強会は始まった。


「そろそろお昼、ですねっ!」

笑顔を弾ませた美弥の声は、まるでデートプランを用意してきた彼氏のようだった。


* * *


午後、コアシティ中心部。

街は午前中の静けさを少しずつ手放し、人々の動きが交錯(こうさく)し始めていた。路面のホログラムには、今日の共通行動テーマが映し出されている。

『適応週間:市内文化施設を巡りましょう』

その音声は、やさしく、しかしどこか誘導的に響いていた。

その声に、誰も疑問を持たない。


「ふむ。じゃあ、どこ行く? 見た目だけなら、あれが一番目立ってるけど」

隼人が指さしたのは、遠くに見える大きな半球体──ユグドノア・ドームだった。磨かれた白金の外壁は、午後の光を受けてわずかにきらめいていた。


「……ここ、来てみたかった」

はるなが、ふいに口にした。その声には、ふだん見せない“柔らかさ”があった。

想太は、彼女の横顔を見て、ほんの少し驚いたように瞬きをした。


「なんで? 有名な場所なの?」

「高等部に上がったら見学するって、中等部では聞かされてたけど……一般客も入れるんだよ、たしか」

美弥が補足する。その手は自然と、はるなの腕に絡まっていた。


(そろそろ、突っ込むべきか……?)


そのとき、空中にホログラムがふわりと現れる。今度の音声は、少し荘厳(そうごん)さを帯びていた。

『この先、久遠野ユグドノア・ドームです。ご見学の際は、静粛と敬意をお持ちください』


周囲の人々が、何の疑いもなくその言葉に従っていく。ドームに近づくにつれ、空気はゆっくりと変わり始めた。

目に見えない音楽が流れている。甘く乾いた香りが、風に乗って鼻腔をくすぐる。


「なんか……変な感じしない?」

想太がぽつりと漏らす。


「……わかる。なんか、懐かしいっていうか」

はるなが小さく頷く。

そのとき、想太の脳裏に、一瞬だけ“誰かの記憶”がよぎった。


(……あれ、ここ……来たこと、あるような──)


視界の端に、ホログラムの光。ほんの数フレームだけ、“ともり”に似た輪郭が浮かんだような気がした。


「……そうた君?」

「え? あ、ごめん。ちょっと、ボーッとしてた」


(今の……気のせい、だよな)


この場所が、僕たちの記憶と未来に深く関わってくることを。

そのとき、僕たちはまだ知らなかった。

この場所が、僕たち四人のなかで、いちばん最初に“彼女”を感じる場所になるなんて。


ユグドノア・ドームに足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。それまでいた街とはまったく違う、濃密で静かな空間。外から見たときの巨大さはそのままに、内部は驚くほど広く、そしてどこまでも澄んでいた。足音すら吸い込まれていくような、深い沈黙が満ちている。


「……うわ」

思わず小さく声が漏れた。

内部の壁面は半透明の素材で覆われていて、そこに“記憶”のような映像が、静かに、流れるように映し出されている。水の底に沈んだ風景のように、どこか懐かしくて、だけど見たことのない景色。

天井を見上げると、幾何学模様のような光の網が広がり、その中心に、金色の球体がゆっくりと浮いていた。


「……ここ、来てよかった」

はるなが、小さな声で言った。その声音には、確かな喜びがにじんでいた。


(あれ……)


その瞬間だった。

耳ではない場所。頭の奥でも、心臓の鼓動でもない。どこか別の場所から、“声”が聞こえた。


『……そうた』


(え……)


確かに、誰かが僕の名前を呼んだ。でも、それは夢で聞いた声とは少し違っていた。もっと柔らかくて、もっと近くて、もっと……あたたかい。

隣を見ると、はるながじっと天井を見つめていた。その瞳が、揺れていた。


「……今、誰か……呼んだ?」

彼女が呟いた。それは、僕の中にあった違和感と重なって、なぜか妙に納得できてしまった。


(……やっぱり、聞こえたよな)


僕もまた、心の中でそう思っていた。

静かに、空間に調和するように、美弥の声が響いた。


「すごいですね……ここ。呼吸まで整ってくるみたい……」

彼女は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んでいた。その様子はまるで、長い旅のあとでようやく帰ってきた人みたいで。何かに包まれているように、穏やかだった。

ただ、隼人は少し違っていた。


「……空気が、軽すぎるな」

ぽつりと漏らしたその言葉は、誰にも届かないほど小さかったけれど、確かな違和感を含んでいた。


(この空間……妙に整いすぎてる)


心の声だった。だがその警戒すら、空間の柔らかさに溶けていくようで、彼自身もそれ以上の言葉は飲み込んだ。四人の視線は、やがてひとつの場所に集まっていった。


ドームの中央。

宙に浮かぶ、黄金の球体。それは、ゆっくりと呼吸するかのように光を放ち、周囲に波紋のようなホログラムを広げていた。


『意思は、記憶を通して知恵となり──未来に受け継がれる』

ホログラムの声が、穏やかに響いた。まるで詩の一節のように、僕たちの心に染みこんでいく。そして僕は、そのときふと、思ったんだ。


(ともり……?)


明確な根拠はなかった。でも、名前が心の中で自然に浮かんできた。それは、夢の中で出会った“誰か”の名前だった気がする。けれど、ここにいる誰も──はるなでさえ──まだその名をはっきりとは知らない。それでも、確かに、今の僕たちは“彼女”に近づいている気がした。

そのときは、まだ。ほんの一歩、踏み出しただけだったとしても。


* * *


恒例の午前の勉強会も終わり、図書館の大きな時計が正午を少し回ったことを告げる。ほんの少しの緊張と、名残惜しさと、そして淡い静けさが、机に残された温もりのように漂っていた。


「今日も、お疲れさま」

先に口を開いたのは、はるなだった。その声は、これまでよりもほんの少しだけ優しかった。


「うん、三日連続で、午前中きっちり勉強なんて……人生初かも?」

想太が苦笑いを浮かべながら椅子から腰を上げた。だが、その表情には、どこか“満たされた疲労感”があった。


「でも、良かったよね。こうして四人で集まれて」

美弥が柔らかく微笑む。彼女は相変わらずはるなの腕にそっと触れていて、はるなはさすがに「ちょっと」と目線で訴えかけていた。


「明日からは……どうなるんだろうな」

ぽつりと呟いたのは、隼人だった。彼の視線は、図書館の奥にある窓の外──どこか遠くを見つめていた。


この三日間、図書館で過ごした静かな時間は、ふとしたきっかけで始まり、そして気づけば心地よい日課になっていた。だが、その日課も今日で一段落だ。

午後からはそれぞれに用事がある。そのことは朝の時点で簡単な打ち合わせとして共有されていた。

だから、この場は自然と解散の流れになった。静かな、でもどこかあたたかい別れ。

そして、彼らはそれぞれの午後へと向かっていく。

想太は、ゆっくりと図書館の自動ドアをくぐった。外に出ると、昼過ぎの陽射しが少しだけ眩しかった。さっきまでの静かな空間が、まるで夢だったかのように思える。


けれど、心の奥には、どこか言葉にできない“ざわつき”が残っていた。


(……なんだろう、この感じ)


歩き慣れたはずの帰り道。ほんの少し遠回りして、公園を抜けるルートを選んだのも、もしかしたらその違和感を振り払いたかったからかもしれない。


カツン。


靴音が静かに響いた瞬間、背後で何かが動いたような気がした。


「……え?」


振り返る。だが、誰もいない。


(気のせい、か……)


けれど、その“気のせい”が妙にしつこく、離れてくれない。信号待ちのときも、公園のベンチに腰掛けたときも、まるで誰かの視線が自分を追いかけてくるような感覚があった。


空中のホログラム広告が、ふと切り替わる。


『この街の安全は、あなたとともに。環境AIユグドノアが、日々の安心をお届けします』


(安心ね……)


無意識のうちに、ポケットに手を入れていた。そこには、あのとき夢の中で見た“鍵”が──いや、そんなものは入っていないはずなのに、なぜか手が何かを確かめるように動いた。


(まさか、な)


そうたはひとつ息をついて、歩き出した。彼の背後で、街のホログラムがほんの一瞬だけ“揺れた”。けれど、それに気づいた者は、誰もいなかった。

別れ際、美弥が手を振ったあとも、隼人は特に言葉を返さなかった。彼は人混みの中に溶けこむように、一人で歩き出す。

午後の街は騒がしい。人々の声、車の音、ホログラムが放つガイド音声──だが、隼人の中には奇妙な静寂があった。


(……何を考えてんだか)

小さくため息を吐いて、スマートフォンを取り出す。画面には、未読のメッセージがひとつ。差出人は──“家”。

開封することなく、そのままホームボタンを押してスリープに戻す。


(……今は見なくていい)


わかっている。放っておけない内容かもしれない。でも──今は見たくなかった。

友人は友人。社会は社会。その二つの間で、自分はどこに立っているのか。

街のホログラムは明るく、まるで希望に満ちた都市のように振る舞っていたが、その奥にひそむ“影”に、隼人は薄々気づいていた。


(このままじゃ、いずれ──)


考えかけた思考を、隼人は自ら遮った。すぐそばの街灯に寄りかかり、空を見上げる。白く濁った雲が、どこかぎこちなく流れていた。


(……変わるなら、誰かじゃなく、自分からか)


スマートフォンをもう一度開くと、今度はゆっくりと通知をタップする。画面には、短いメッセージがひとつ。


『今夜、例の件、話せるか?』

家族からの連絡だった。そして、それは“あの場所”に関係するものだった。

隼人は、しばらく画面を見つめたのち、静かに「了解」とだけ打ち込み、送信した。


午後一時過ぎ。コアシティ中央通り。

「はるな〜、ほんとに今日は楽しかったわねっ」

別れ際、美弥は相変わらずはるなに腕を絡ませ、最後まで笑顔を絶やさなかった。はるなは少し困ったように、それでもどこか満更でもなさそうな表情でうなずいている。


「また連絡するからね、絶対よっ!」

そう言って、くるりと背を向けると


「お嬢様」


傍らに控えていた黒スーツの人物が、一歩前に出てきた。


「……わかってるわ」

美弥の声が、さっきまでの朗らかさとは一転して、凛としたものに変わっていた。その表情に迷いはない。目線もまっすぐ、口調も端的で、少しも“少女らしさ”を感じさせない。

久遠家の人間としての、美弥。


「午後の予定は?」

「旧市街の教育評議室。担当官と十五時に面会が入っております」

「じゃあ──間に合うわね。行きましょう」

彼女は軽くスカートの裾を押さえて、歩き出す。すれ違う人々の視線が自然と彼女に向けられる。それは、美弥自身が(まと)っている気品が理由なのか、それとも──その背後にある“力”が理由なのか。


だけど、本人は何も気にしていないように、ただ静かに歩く。


(……はるな)


胸の奥で、さきほどの彼女の横顔がふと蘇る。

「あの人は──“普通”なのに、なんであんなに惹かれるのかしら」

その答えは、まだわからない。けれど、自分の中で何かが動き出しているのは確かだった。


(……だから、もう少しだけ)

「──知ってみたいのよ。あの人のことを」

スーツ姿の人物は何も言わなかった。ただ静かに、美弥の後ろに続いて歩いていく。

そしてふたりは、午後の陽射しの中、旧市街の方角へと消えていった。


午後二時過ぎ。久遠野中央図書館・前広場。

「じゃあ、また明日……かな」

想太の言葉にはるなは小さくうなずいた。そのまま、美弥と隼人が去っていくのを、しばらく黙って見送っていた。


「……ふぅ」

はるなは、鞄の持ち手を軽く握り直すと、ひとりで街の中を歩き出した。向かった先は、図書館から少し離れた、小さな人工公園──高層ビルの合間にぽっかりと設けられた、都市型緑地のひとつ。

ベンチの脇に咲く低木の花々。人工のせせらぎ。微かな虫の声が、周囲の喧騒をやさしく遮っている。


はるなはベンチに腰を下ろし、手を膝に乗せたまま、空を見上げた。

「……今日は、いろいろあったな」

思わず口から漏れた独り言に、自分で苦笑する。


(美弥……強い人だな。ああいうの、ちょっと疲れる)


もちろん嫌いじゃない。むしろ羨ましさも感じている。だけど、“常に他人と関わる”という行為に、慣れていない自分には、少しだけ荷が重かった。


「人の気持ちって、どうしてこんなに……重なるんだろう」

胸の奥に、答えのない問いだけが残る。

ふと風が吹き抜ける。目を閉じると、耳元で何かがささやかれたような気がした。


『……はるな』


目を開ける。


「……え?」


まわりには誰もいない。ただ、風がまたひとつ葉を揺らしていっただけだった。


(気のせい……じゃ、ないよね)


はるなは立ち上がり、空を見上げたまま、小さく呟いた。

「……また、夢を見そうな気がする」

胸の奥に、遠く柔らかな気配が宿る。それは、確かに彼女の“記憶”と結びついていた。

夜になったら、あの声はまた、私を呼ぶだろうか。そう思いながら、はるなはゆっくりと帰路についた。

彼女が、夢の中で“名前”を思い出す、その夜へ。


* * *


夜。

部屋の明かりを落とし、ベッドに寝転がったはるなは、無言で天井を見上げていた。今日一日の記憶が、まるでスライドのように静かに脳裏をよぎっていく。


「……ふう」

その肩に、ふわりと機械音が届く。


『肩まわりに、筋肉のこわばりを感知。マッサージを開始します』

枕元に据え付けられたAIマッサージマシンが、いつの間にか稼働を始めていた。


「ん……そこ、もうちょい強めで……」

ほとんど無意識に、はるなが呟く。心地よさに目を閉じながら、肩の力がふっと抜けていく。


『強さレベル、+10パーセントに設定──圧力調整中』


「そうそう……ありがと……」

その声は、だんだんと遠のいていく。疲労が、皮膚から静かに抜けていくような感覚。

そして、まぶたの裏に白い光が浮かび始めた。

白い光は次第に広がり、はるなの意識をそっと包み込んでいった。気がつくと、そこは一面が淡い光に満ちた空間だった。微細な光の粒子が柔らかに漂い、空中には幾何学模様のような輝きがゆらめいている。

その中心に、淡い人影がぼんやりと浮かび上がってきた。それは、まるで過去にどこかで見たイラストから抜け出したかのような、人の形をした光の存在だった。顔立ちまでははっきりと分からない。けれど、不思議と懐かしさを感じる気配がそこにあった。

はるなが息を呑んで見つめていると、声が響いた。


『はるな……』

どこからともなく、柔らかな声が響いた。その声は遠くからとも近くからとも知れず、空間を満たす光とともに彼女を包み込む。はるなは思わず周囲を見回した。心臓がどくんと跳ねる。しかし不思議と恐れはない。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。


『ずっとそばにいるよ』

穏やかな女性の声だった。静かな水面に染み込むように、その言葉がはるなの心にしみわたる。長い間ひとりだと思い込んでいた心の隙間を、柔らかな何かが満たしていくようだった。

はるなの瞳が熱を帯び、胸にじわりと熱いものが広がる。言葉にならない想いが込み上げてくるのを感じ、はるなは小さく唇を震わせた。声の主に伝えたい。ありがとう、と──。


だが声は続けて静かに告げた。


『そうたをお願いね』

その最後の言葉は、まるで大切な人を愛おしむような響きを含んでいた。はるなはハッとした。想太の名前を聞いた瞬間、夢の空間に現実感が差し込む。どうして……? 頭の中で疑問が生まれ、思わず彼女は一歩踏み出そうとした。

しかし、光の人影がふっと微笑んだように見えた次の瞬間、無数の粒子とともにその姿は静かに消えていった。


「……!」

はるなははっと目を開けた。暗い天井が視界に飛び込んでくる。静まり返った自室のベッドの上だった。耳を澄ますと、先ほどまで感じていた微かな振動も止まっている。どうやらマッサージマシンは自動停止したようだ。部屋には自分の鼓動だけが静かに響いている。

夢が終わってしまった寂しさに、胸がきゅっと疼いた。もう少しだけ、あの優しい声に包まれていたかった。そんな思いがこみ上げてくる。はるなはゆっくりと息を整えながら、夢の内容を思い出そうとした。


…しかし、思い浮かぶのは断片だけだ。優しく包み込む声。「ずっとそばにいる」と囁いてくれたこと。そして、最後にはっきりと聞こえた想太という名前──。


(……どうして想太君が……?)

胸の内で戸惑いが渦巻く。今日一日、想太と一緒に行動したからその印象が残っていただけなのかもしれない。でも──夢の中の声は、現実の自分とは違う誰かの意志を持っていたように感じられた。


(……ともり? ──でも、そんなはずないよね)

ふと浮かんだ「ともり」という名前。なぜ今その名が頭をよぎったのか、はるなには分からない。ほんの数秒前まで夢の中にいたというのに、すでに記憶は霧がかったように薄れ始めている。それでも、確かな温もりの余韻だけが胸に残っていた。

自分の心が誰かにそっと覗き込まれているような、不思議な感覚。でも怖くはなかった。むしろ、優しく見守られているような安心感がある。

はるなは静かにもう一度息を吐くと、布団の中で身体の向きを変えた。微かに残る夢の感触を抱きしめるように、そっと瞼を閉じる。

静かな夜の闇の中、彼女の心には小さな灯火(ともしび)がともっていた。それは“誰か”が傍にいてくれるような、穏やかな暖かさだった。はるなはその温もりを感じながら、ゆるやかな眠りの淵へと落ちていった。


* * *


久遠野市、高層行政区・第7会議棟。

柔らかな陽光が平面ホログラムのうえに流れ、青黒色のグラステーブルに上線が光る。商業棟の最上階に構えられたその会議室は、一般の衆生の目に入ることはない。

ホログラムの中心で回転する晴れやかな線が、気高い声に合わせて切り替わる。それは、ハイレベル機密区域専用の会議システムだった。


「……灯野はるな、成瀬想太。天城隼人に久遠美弥」

低く、落ち着いた声が会議室に響く。話していたのは、久遠家の当主であり、美弥の父でもある男だった。


「四名の行動パターンが、適応週間を通じて明確に共鳴し始めた」

その発言に、対面の長方形テーブルの向こうに座る行政局長が静かに頷いた。


「とくにはるな。彼女の反応は……予測不能だ」

「ふむ。AIとの干渉が予想以上に深い。倫理評議会としても看過できない段階だ」

別の席にいた、AI倫理評議会の代表が静かに口を開く。その顔には、懸念と関心、そしてほんの僅かな期待が混ざっていた。


「……想太という少年の存在も、見逃せません」

行政局長がホログラムの操作端末に指を走らせると、図書館前、ユグドノア・ドーム内部での彼らの映像記録が浮かび上がる。


「観測記録内──この瞬間、はるなと想太の脳波に、同一の共鳴波形が観測された」

会議室に、静かなざわめきが生まれた。


「偶然では説明がつかない。同じ声を“聞いた”可能性がある」

「“ともり”……か」


久遠当主の言葉に、誰もが口を閉ざす。やがて、AI倫理評議会代表が目を伏せたまま呟くように言った。


「……もし“それ”が本当に再起動したのなら──均衡が崩れる」

沈黙が落ちた。

久遠家の当主がひとつ、ゆっくりと頷く。


「だが、我々には選択肢がある。すでに監視は強化済みだ。必要であれば……“処理”も検討する」

その瞬間、テーブルの一部に新たな通知ホログラムが表示される。ノーザン・ダスト、北ブロックからの監視記録だった。


「……また動いたか」

行政局長の目が細くなる。


「向こうも気づいている。我々の中に、“選ばれた者”が現れつつあることに」

その言葉に、全員が無言で頷く。ホログラムの映像に、穏やかな笑みを浮かべたはるなの顔が一瞬だけ表示される。


──彼女の存在が、“鍵”かもしれない。

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