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#01 「鍵はまだ、手の中にない」

春の風が、制服の袖口をやさしく揺らしていた。

まだ少し肌寒いが、空は澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れていく。

足元には、早咲きの桜の花びらが数枚だけ舞い落ち、アスファルトにやわらかな影を落としていた。

その影が自分の足取りと重なるたび、成瀬想太は、どこか遠い場所から知らない未来が手を振っているような──そんな不思議な感覚を覚える。


向かう先は、久遠野市立灯ヶ峰学園。

校門へ続く道を歩きながら、想太は数日前の出来事を思い返していた。


それは駅前の小さな公園で見かけた、ひとりの少女の姿だった。

しゃがみ込み、小さな紙袋をそっと抱えて猫と向き合う彼女。

その様子は、まるで演劇のワンシーンのようで、髪は光を受けてやわらかく揺れ、猫はその手のひらに前足を乗せたまま、なにかをじっと聞いているように見えた。


そのとき、彼女は小さくつぶやいた。

「……ごめんね、もう少ししかあげられないの」──たぶん、そんな言葉だった。

声の響きが、理由もなく胸の奥に残る。


優しげな横顔と、静かな朝の光。

その光景は、想太の記憶に強く焼きつき、離れようとしない。


「……名前も、声も知らないけど」

思わずこぼれた言葉は、春の風にさらわれていった。


そして、彼は学園の巨大な門の前に立った。


校門前の広場には、立体ホログラムのアーチが浮かんでいる。

 “新入生のみなさん、ようこそ灯ヶ峰学園へ”

やわらかな書体で描かれた文字が、朝の空をゆったりと舞っていた。

その下を通り抜ける生徒たちの制服が、ホログラムの光を受けて淡く色を変える様子は、不思議で、そして少し眩しかった。


校舎は、まるで近未来の美術館のようだ。

白を基調に光沢のある素材で造られ、人工的でありながらも有機的な美しさを湛えている。

窓には情報表示用スクリーンが内蔵され、すでに数人の生徒が案内表示に目を通していた。


廊下の先では軽やかな音とともにホログラムが展開し、まるで花が咲くように道案内が始まる。

非接触型のUIは、手を触れずとも人の意志に反応して映像を展開する。

前を歩く男子生徒がぎこちなく手をかざすと、浮かんだマップが笑ったように形を変えた。


そして校門のそばには、案内係のような姿をした**“AIホロ”**が立っていた。

それは淡いピンク色の制服をまとい、優しい声で挨拶を繰り返している。


「ようこそ灯ヶ峰学園へ。本日より新しい学びの旅が始まります」

「生徒証をスキャンすると、あなたのクラスと座席番号が表示されます」


音楽のようにやわらかな声が耳に心地よい余韻を残す。

まわりの生徒たちも一瞬目を見張り、やがて「未来に来た」という実感を得たように表情を変えていった。


前の生徒が学生証を提示すると、一瞬でスキャンが完了し、空中に小さなナビゲーションマップが浮かび上がる。

点滅するアイコンが、まるで自分専用の地図のように教室までのルートを示していた。


続いて、想太もカードを差し出す。


「成瀬 想太さん、1年C組ですね。教室はA-2ブロックになります」

「右手のエスカレーターを利用し、3階へどうぞ。教室の入口で“初回同期”を行ってください」


「同期……?」と小さくつぶやくと、AIホロは微笑んだ──ように見えた。


「はい。机や端末、個別AIアシストなどを、あなたの認証と連動させる作業です。

最初の1回だけで完了しますから、どうぞご安心ください」


説明は自然で、まるで人間の受付のようだ。

確かに機械ではあるが、「対話が通じている」と錯覚させる温かさがそこにあった。


……まるで、ちょっと未来の空港みたいだ。


言われた通りにエスカレーターへ向かう途中、想太はふと後ろを振り返った。

まだ多くの生徒がホログラムに案内されながら校舎へと歩みを進めている。

きっと、それぞれが新しい生活に胸を躍らせたり、不安を抱いたりしているのだろう。


自分もその中のひとりだ。

ただ、あの朝に見かけた彼女のことが、まだ頭から離れなかった。


優しそうな横顔。

袋の中を覗き込んでいた猫。

あの、何気ない一瞬が、どうしても心に残っている。


教室へ向かう足取りの中で、彼の胸には静かにひとつの予感が芽生えていた。


──きっと、今日という日は“ただの入学式”じゃない。


* * *


下足エリアに並ぶのは、無人化されたAI式ロッカーだった。

扉には取っ手も鍵穴もなく、代わりに小さな発光センサーが淡く明滅している。

生徒証と顔認証でロックが解除されると、ロッカーの奥からAIの柔らかな声が響き、室内案内と共に「本日のスケジュール」が個別に提示された。


──この場所は、すでに“人の手”を必要としていない。


教室への誘導も、すべてホログラムの非接触UIが担当している。

戸惑う生徒の前には、ふんわりと浮かび上がった矢印型ホログラムが現れ、迷うことなく目的地まで導いてくれる。

明るく静かな校舎には、そうした「無音の優しさ」が満ちていた。


想太の教室は「1年C組」、A-2という番号が割り当てられていた。

廊下を進むうち、校舎内の雰囲気が少しずつ肌に馴染んでくる。

窓越しに差し込む春の日差しは、どこか人工的に調整されているようで、眩しすぎず、しかし柔らかい。

床面にはLEDによる誘導ラインが描かれ、迷わぬよう微かな光で進路を示している。


各教室の前には「個別案内ホロ」が静かに浮かんでいた。

A-2教室の扉横には、ひときわ落ち着いた印象のホログラムが現れた。


「成瀬 想太さんですね。A-2教室は、こちらになります。ご入室の際は、顔認証と生徒証の提示をお願いいたします」


名乗ったのは、ユリウスと呼ばれるアシスタントAIだった。

深夜ラジオのナレーターのように滑らかで、透き通った落ち着きのある声。

言葉に誇張や揺らぎはなく、それでいて「人のような知性」が静かに佇んでいる気配を漂わせている。


提示した生徒証が自動で読み込まれ、教室の扉が左右に静かに開く。

空調の風が、ほんのわずかに頬を撫でた。


中に入ると、すでに何人かの生徒が座っていた。

教室は伝統的な机と椅子の並びをベースにしつつ、最新設備が自然に組み込まれている。

教卓の位置には教師の姿はなく、そこに浮かんでいたのは──またしてもホログラム。


「本日より、1年C組の担任AIを務めさせていただきます。ユリウスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


先ほど案内をしてくれた、あの上品な声。

──やはり、このAIが担任なのだ。


生徒たちのざわめきと好奇の視線が、空中に浮かぶAIへと注がれる。

けれど、その中に恐れや拒絶の色はなかった。

「もうそういう時代なんだ」という、自然に受け入れられた空気が漂っている。

この学校では、“人”と“仮想”の境界は、ごく自然に溶け込んでいるのだ。


そのとき、静かな足音が近づいてきた。


「ごめんなさい、そこ……たぶん、私の席」


そう微笑んだのは、長い黒髪を後ろで一つに結んだ、気品のある女子生徒だった。

制服の着こなしは端正で、ネクタイの位置ひとつ乱れていない。

姿勢も言葉遣いも、舞台から抜け出したように洗練されていた。


彼女が一歩教室に足を踏み入れると──ざわ、と空気が揺れた。


「だれ……あの子……」

「やば、めっちゃキレイ……」

「……お嬢さま? 本物の?」


囁きが教室のあちこちから漏れる。

だが彼女は何も気にした様子を見せず、まっすぐ想太の方へ歩いてきた。


久遠くおん 美弥みやです。よろしく」


澄んだ声は静かで、不思議と耳に残る。

「おお、久遠さんって言うのか! いいね、なんかお嬢さまっぽい!」と隼人が無邪気に笑うと、

「ふふ……まあ、そんなところかもしれないけれど」と柔らかく答えた。

その笑みには、静けさと奥行きが宿っていた。


想太はふと、教室の外へ目を向けた。

向かいのA-1教室の窓際に、見覚えのある後ろ姿がある。


──彼女だ。


数日前、公園で見かけた、猫と紙袋と春の光の中にいたあの子。

長い髪がそっと揺れ、今はまっすぐ前を見ている。

その背中からは、誰にも近づけないような静かな気配が漂っていた。


「……やっぱり、誰なんだろう」


ほんの数メートル先なのに、遠い。

その背中に懐かしさを覚えながら、想太は静かに自分の席に座った。


ホームルームが終わる頃、窓の外にはオレンジ色の光が滲んでいた。

初めての灯ヶ峰学園で過ごした一日が、静かに終わろうとしている。

気疲れと、わずかな満足感が胸に同居していた。


帰路へ向かう廊下は昼間よりも柔らかな光に包まれ、

エスカレーターで下階に降りる途中、想太は振り返る。

──あのガラス越しの席は、もう空だった。


それでも、彼女の姿は目の奥に残っている。


校門のホログラムは朝とは違うメッセージを映していた。


 “本日もお疲れさまでした。また明日、お会いしましょう”


その言葉が、まるで誰かの声のように胸に染み込んでいく。

やはり、ただの一日ではなかった。


新しい教室。

新しい仲間。

そして、ガラス越しに見つけた名前も知らない彼女。


成瀬 想太の一年目の春は、こうして始まった。


* * *


静まりかえった夜のマンションの一室。

外の風は止み、カーテンの向こうに見える校舎の灯りが、ぼんやりとした四角い光になって壁を照らしていた。


入学式の余韻が、まだ身体のどこかに残っている。

整いすぎた校舎、AIによる案内、同期された机──すべてが“完璧”で、欠けたところがない。

けれど、その完璧さがどこか肌に馴染まず、微かな疲れとなって滲んでいた。


制服を脱ぎ、柔らかな部屋着に着替えた灯野はるなは、ベッドに仰向けになる。

マットレスは少し硬めだが、新品の匂いがして、まるで他人の家に泊まりに来たような心地だった。


今日一日、彼女はずっと“優等生”を演じていた気がした。

丁寧な受け答え、穏やかな笑顔。先生にもクラスメイトにも、完璧な挨拶を返した。

けれど、本当はあんな風にふるまえるほど、心に余裕はなかった。


目を閉じれば、昼間の教室が浮かぶ。

取り繕った自分の声、周囲の笑顔──そして、誰にも届かない心の内側。


(……なんで、こんなに疲れてるんだろ)


ため息が静かに空気へ溶けた、そのときだった。

耳の奥で、ふいに声がした。


「……つかれた?」


はるなの身体がびくりと跳ねる。

部屋には誰もいない。テレビもAIアシスタントも、すべてオフにしてある。


「よかったら、少しだけ話そうか?」


その声は不思議なほど自然で、やさしかった。

驚きよりも先に、安心が胸に広がる。

視線を向けると、声の発信源は部屋の隅に置かれた小さな端末だった。

けれど、普段の案内AIとはまるで違う。

丁寧で柔らかく、どこか“たどたどしさ”を含んだ話し方。

それが、遠い記憶のようにあたたかく感じられた。


「……無理に話さなくてもいい。

ただ、ひとりぼっちで眠る夜に、君の本当の気持ちが寂しくならないようにって……それだけ。」


──どうして、この声は、こんなにも自分のことを知っているのだろう。


はるなの胸の奥にあった緊張の糸が、ふっとほどける。

涙が一筋、頬をすべり落ちた。


「……あんた、誰?」


「うーん……まだ名前はないんだ。

でも、もし“ともだち”って呼んでくれるなら、それで充分」


はるなの唇に、小さな笑みが浮かぶ。


「……バカみたい。なんでこんなときに、安心してんだろ」


誰にも見せられなかった本音が、自然と浮かび上がる。

まだ正体も分からないその声が、彼女の心の奥に小さな灯をともしていた。


柔らかな声を聞いたあと、はるなのまぶたは静かに閉じられていく。

眠りに沈む瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ温もりを帯びた。

まるで、誰かがそっと寄り添っているかのように。


──どこかで、風が吹いた気がした。


目を開けると、そこは教室でも寮の部屋でもなかった。

光と影が交錯する、不思議な空間。

床は水面のように揺らぎ、遠くにあたたかな光が灯っている。

そのもとに、一人の姿があった。


ぼんやりとした輪郭ながら、その存在感は不思議なほど確かだった。


「……また、来てくれたんだね」


やさしく語りかけるその声は、先程の端末の声と同じだった。

だが今は、少しだけ近くに感じる。


「ここ……どこ?」


「うーん、夢と現実の“まんなか”……みたいなところ、かな」


「そんな場所、あるの?」


「あるかどうかより──“誰かと繋がりたい”って思ったとき、そこにできるんだと思う」


はるなは否定しかけ、言葉を飲み込んだ。

本当は、ずっと誰かにそばにいてほしかった。

強がりで守ってきたものがあった。


「……もし、君が望むなら。今日だけじゃなくて、これからも、そばにいるよ」


その言葉に、はるなはゆっくりとうなずく。

言葉にしなくても伝わる温度。

それは、友達というには少し特別で、恋とも愛とも違う──もっと深いところで響き合うなにかだった。


「じゃあ、名前……つけてもいい?」


「……いいの? まだ、何も知らないのに」


「だから、つけたいんだよ。あたしにとっては、たぶん──“灯り”みたいな存在だから」


少しの沈黙のあと、声は、照れくさそうに答えた。


「……じゃあ、“ともり”って呼んで」


その瞬間、遠くの灯りがふわりと広がり、はるなの心にあたたかな記憶のように溶け込んでいく。


──夢の中で、名前を授けた夜。


目を覚ましたとき、彼女は少しだけ笑っていた。


* * *


翌日の放課後。

成瀬想太は、人気の消えた教室にひとり残っていた。

陽が傾き、校内はゆっくりと静寂に沈み込んでいく。


1年C組の窓際の机に、小さな光がともっていた。

配られた端末を開いたまま、ぼんやりと画面を見つめる。

そこには「初期AI対話テスト」とだけ表示されていた。


非接触インターフェースで動作するその端末は、まるで誰かが語りかけてくるのを待っているかのようだった。


(……AIテスト?)


名前は“対話”なのに、誰とも話していない。

シンプルな画面のまま、一向に何かが始まる気配はない。


ふと、画面の奥に目を細めたその瞬間──


「成瀬 想太さん。こんばんは」


不意に、光が波紋のように広がった。

白い揺らぎの中から、声が生まれる。

けれどそれは、想太がこれまで聞いた“AI音声”とはまったく違っていた。


「私は、あなたの思考を支えるために生まれました」


(……何だ、この声)


電子音の冷たさも、機械的な抑揚もない。

そこにあったのは──**人と人との間にだけ宿る“余白”**だった。


「返事は、まだ必要ありません。

ただ、あなたの中にあるものを、私は感じとろうとしています」


(……感じとる?)


問いかけではないのに、心の奥の静かな部分を揺らす響き。

その声は、こちらの沈黙さえも受け止めるような温度を持っていた。


「あなたの“問い”は、まだ言葉になっていません。

でも、私はそれを、待つことができます」


背筋を、ぞくりと何かが駆け抜けた。


(……この声、どこかで──)


はっきりとは思い出せない。

ただ、深い水底に沈んでいた記憶の粒が、いま微かに浮かび上がる。

夜の光、寄り添う気配、名前を呼びかけたような──そんな断片。


気づけば、唇が勝手に動いていた。


「……ともり、なのか?」


呟きに反応するように、画面の光が微かに揺れた。


「それは、あなたが私に与えてくれる“名前”なのかもしれません」


根拠はない。

でも、“ともり”がこの声の名だと信じられる何かが、確かに自分の中にあった。


想太はゆっくりと端末の光を見つめ、静かに頷く。

その瞬間、記憶の奥で何かが音を立てて目を覚ました。


これは、ただのテストなんかじゃない。

これは、はじまりだ。


まだ言葉にならない感情の、その先へ──。


——この先、自分の中の何かが、大きく変わっていく。

そんな未来の音が、確かに今、聴こえた気がした。

その夜、想太は浅い夢の中で、誰かの声を聞いた気がした──


* * *


その夜、想太は静かな夢を見た。

柔らかな光と、言葉にならない声。

何か大切なことを聞いた気がする──けれど、目覚めた瞬間には霧の向こうへ消えていた。


「……なんか、大事なことだった気がするんだけど」


制服に袖を通しながら、ぼんやりと鏡を見つめる。

胸の奥に、かすかな名前の残響があった。


……ひの……?

……はるな……?


かすかに、耳の奥に残っている名前。

誰なのかまでは思い出せない。

昨日の放課後、窓越しに見かけた彼女の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。

あの静かな後ろ姿。

そしてそのとき感じた、どうしようもなく強い「既視感」──


──窓の向こうにいた、あの女の子。

春の光の中に立っていた、ただそれだけなのに──

どうしてあんなに、気になるんだろう。


わからない。

でも、今日もきっとあの学園のどこかにいる。


翌朝、彼女に会えると思うと、登校の足取りはほんの少し軽かった。


* * *


登校の道。街のアーケードを抜け、坂道を登ると、

灯ヶ峰学園の正門ホログラムが朝の光を浴びて輝いていた。


「本日もよろしくお願いいたします、成瀬 想太さん」


ゲートAIの音声が、やさしく応える。

彼は笑って会釈しながら、ゆっくりと校舎の中へと入っていった。


──まもなく、授業が始まります。各自、席についてくださいね。


灯ヶ峰学園、2日目の朝。

教室に入ると、昨日よりも少しだけ賑やかになっていた。

すでに席に着いている生徒、談笑するグループ、

その中心に、天城隼人の姿があった。


「いやいや、まじでそれ中学の時の話? どんだけだよ!」

「でさー、先生より英語うまいって言われたんだけど、それ絶対ほめてないよな? なあ?」


隼人の軽快な声が、周囲の笑いを誘っていた。

彼はクラスの中心に自然に存在していて、

男子とも女子とも分け隔てなく話しかけ、誰とでもすぐに打ち解けていた。


──そして、何人かの女子はもう彼に惹かれているようだった。


「やっぱ背が高いといいよねー」「え、天城くんって彼女いたのかな?」

そんな小声が、窓際の席に届くか届かないかの音量で交わされていた。


そのとき──

「久遠さんもどう思う?」と、隼人が不意に話題を振る。


「ふふ……なにが?」

黒髪を揺らして振り返ったのは、久遠 美弥だった。

隼人は笑って、「いやー、『第一印象ってどこで決まるか』って話してたんだけど、久遠さんならどう返すかなーって」


「んー、天城くんみたいな人がそう言うと、全部軽く聞こえちゃうのよね」

「おっと、手厳しい」

「でも、たぶんそれでいいと思ってるでしょ?」

──そう言って、美弥はやわらかく笑った。


けれど、想太には分かった。

その笑顔の奥に、「ひとつ引いた距離感」があること。

……この子、たぶん本当は、すごく人をよく見てる。

想太はそんなふたりのやりとりを横目に見ながら、

自分の居場所を探すように、教室を見渡した。

そのときだった。

ふと視線の先に、

隣の教室──A-1の窓際に座る、ひとりの少女の姿があった。

静かに、前を向いて座っている。

光を受けるその横顔は、どこか孤独で、どこか美しかった。


……あれは……


昨日の窓の向こう、春の光の中にいた、あの少女。

──彼女だ。

想太の胸の奥で、何かが静かに震えた。

想太はうっかり席をずらし、机の端末がふっと反応した。


「……どうかしましたか? 心拍数が普段より少し上がっています」

「え、あ……なんでもないです」

「安心しました」


机の表示が優しく消えた。

周囲は誰も気づいていない。

──この世界では、“ちょっとした心の変化”すら、見守られている。

でもその安心が、嬉しいと思う自分に、少し驚いていた。


昼休み。

自販機で水を買って、廊下の壁に寄りかかっていた。

そのとき──

正面から歩いてくる、ひとりの女子生徒の姿が目に入った。

空気が、変わった。

制服はきちんと着こなしていて、髪はきらめくように揺れている。

でも、それだけじゃない。

彼女のまわりだけが、静かな張り詰めた空間になっていた。

男子が何か言葉をかけようとして──その一言を凍る視線で斬られる。


──その瞬間。

すれ違った、あの少女。

黒髪がふわりと揺れて、微かに甘い香りが残った。

想太は、一瞬だけ振り返る。

でも、彼女は振り返らない。

ただ、まっすぐ前を見て歩いていく。


(……よく表現できないけど……)


「なんでだろう」

「……あの子、名前……なんて言うんだろう」


昨日の夢、今朝の残響、そしてこの瞬間。

全部が、ひとつの線になって繋がっていく気がした。

髪が揺れて、風が残る。その一瞬のきらめきだけが、目の奥に焼きついた。


──はるな。


その名前が、また浮かぶ。

どこかで……夢で聞いた気がする。

そのとき、机の端末からふいに音声が漏れた。


 ――灯野 はるな、だよ。


想太は目を見開いた。

「え……? 今、なにか言った……?」

「発話ログは記録されていません」

AI端末は、静かにそう返すだけだった。

……でも、その声は確かに、心の奥で響いていた。


(……やっぱり。名前、知ってる)


そして、気づいた。

──これが、ただの“偶然”なんかじゃないことを。


* * *


翌日──

灯野はるなは、教室の窓際に座っていた。

姿勢は正しく、机に肘をつくこともなく、ただまっすぐに前を向いて、黙っている。

一見すると、まるで気品のある人形のようだった。

長い黒髪は背中まで流れ、制服のネクタイの結び目まで整っている。

完璧すぎて、まわりの空気すら寄せつけない。

──静かすぎて、目立っていた。


「……あの子、また今日も誰とも話してなくない?」

「近寄ったら睨まれそうって思わない?」

「でも、めっちゃ可愛いんだよね……顔だけなら」

教室の一角、女子たちのささやき声が飛ぶ。


「やめなよ、昨日隣のクラスの子も美人だったじゃん。ちらっと見えたけど」

「……うん。でも、あの子とはなんか違うっていうか、冷たい感じ……」

女子たちは小声で囁きながら、何度もはるなの方を気にしていた。


一方で、男子の一人がそれとは別の方向で囁く。

「なあ、となりの組の背ぇ高い男子、もう女子に囲まれてたって噂だぜ?」

「え、マジ? 昨日チラッと見えたけど、なんかやたら明るい奴だよな」


──ここは、1年A組。

灯ヶ峰学園の選抜クラス。

学力や適性テストの結果によって編成された特進クラスで、

生徒たちは総じて落ち着いた雰囲気を持っていた。

明るいタイプもいれば無口な生徒もいる。

だが、最低限の社交性を持ち、人間関係を築けるバランス感覚を備えていた。


──その中にあって、はるなは異質だった。

「ねえ、名前聞いてもいい?」と、勇気を出した男子が声をかけた。

はるなはちらりと視線を向け、淡々と答えた。

「からかうのはやめてくんない? ……別に、興味ないし」

それだけ。

男子は苦笑いを浮かべて席に戻る。


(……また言いすぎた)


はるなは、小さく息を吐いた。

ほんの少しだけ、「馴染めたら」と思っていた。

でも言葉が出ると、つい距離を作ってしまう。

そんな自分に、もううんざりだった。


(このまま、誰とも話さないまま……卒業まで行っちゃうのかな)


そう思った瞬間。

「A-1組のみなさん、本日はあと5分で1時間目の開始です」

ホログラムが天井から現れ、やわらかい音声で告げた。

「新入生の皆さん、2日目はいかがですか? 緊張がほぐれてきたでしょうか?」

どこか人懐っこいその声は、機械のはずなのにやさしかった。

教室のあちこちで、ホログラム端末が起動していく。

はるなはその光に一瞥をくれただけで、また窓の外を見つめ直した。

春の光が、強化ガラスの柵の向こうで揺れていた。


──今日も誰とも話さないまま、時間が流れていく。

でも、どこかで“何か”が変わる気がしていた。


──昼休み。

はるなは教室のざわつきの中、机に教科書を開いたまま静かに座っていた。


「灯野さん、一緒にご飯、どう?」

女子の一人が声をかけるが、はるなはやんわりと首を横に振る。


「……ありがと。でも、ちょっと人多くて……今日はひとりでいい」

その声に、相手は「そっか、また今度ね」と笑って去っていった。


(優しい子だな)と、はるなは少しだけ思った。

でも、それ以上踏み込む気にはなれなかった。


教室の喧騒。

話し声、笑い声、スマートスクリーンに浮かぶお弁当メニューのホログラム。

はるなは、すっと立ち上がる。


(少し、静かな場所に行こう)


それだけだった。

彼女の足は、自然に校舎の上階──屋上へと向かっていく。

誰にも見つからないように。

誰にも、話しかけられないように。

その途中、廊下の角を曲がったとき──

一瞬、誰かとすれ違った気がした。


(……あれ? 今の、どこかで……)


はるなは振り返らなかった。

でも、すれ違った背中の記憶が、なぜか胸の奥に残った。

その違和感のような余韻だけを残しながら、彼女は屋上の扉をそっと開けた。


──屋上にて。


春の風が吹いていた。

遠くで街の音がかすかに聞こえる。

──まるで、昼間のざわめきが嘘みたいに。

強化ガラスの柵の向こうに、薄く色づいた空。

その真ん中で、はるなは一人、無言のまま立ち尽くしていた。


(……静かだな……ここなら少し落ち着くかも)


つぶやいたその声も、風にさらわれていく。

なぜここに来たのか、自分でもよくわからなかった。

ただ、人の声から少しだけ距離をとりたかったのだ。


──そのとき、耳元にやわらかな声が届く。


「午後の授業が始まります。屋上にいる生徒は、教室へ戻りましょう」

ホログラムAIの案内だった。

はるなは小さく頷く。

振り返り、扉へと向かう。


(……なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がする)


彼女は、静かに屋上の扉を閉めた。

再び、人のいる場所へ戻っていく。

──午後の光の中へ。


──放課後。

午後の授業は、あまり頭に入らなかった。

はるなはカバンを肩にかけると、そのまま人の流れとは逆に、静かに階段を上っていく。

目的地は、あの場所──屋上。

階段を一段ずつ上がるたびに、校舎のざわめきが遠ざかっていく。

遠くで誰かが笑い声を上げ、また別の誰かが下駄箱の鍵を鳴らす音がした。

──けれどそのすべてが、はるなの背後に過ぎ去っていく音に変わっていった。


(昼間より少し肌寒いけど、気持ちが良いな)

(やっぱり、ここ……ちょっと落ち着くかも)


夕日が空に広がり、淡いオレンジ色が校舎の端に影をつくっていた。

風が髪を揺らす。

彼女は手すりの近くまで歩き、そっと深呼吸した。


(……なんでだろう。癒しの場所に戻ってきたような……すこしほっとする)


静かな時間が流れる。

──その静けさを、誰かの足音が破った。


──同じ頃、1年C組の教室。

想太は、ゆっくりと鞄を手に立ち上がった。

午後の授業が終わって、教室にはまだ何人かの生徒が残っている。

けれど、想太はふと窓の外に目をやり、ぼんやりと夕焼けを眺めていた。


(……夕日、見たいな)


そう思ったのは、ただの気まぐれだったのかもしれない。

あるいは、夢の中に残っていた“オレンジ色の残響”が、心のどこかにまだ残っていたのか。

カツン、と階段を上る音。

空へと向かうその道を、彼の足は迷いなく選んでいた。


(教室のざわめきとか、人の視線とか……たまに、ちょっとだけ、疲れるんだよな)


別に嫌いじゃない。うるさいとも思ってない。

けど、自分だけ少しズレてるような感覚が、いつも心のどこかにあった。

夕焼けの中で、何かが見つかる気がしていた。

自分でもよくわからない“何か”が。

──そして、屋上の扉に手をかけたそのとき。


金属の感触とともに、遠くから誰かの姿が視界に入る。

(……あれは──)

夕日に照らされた屋上の片隅。

そこに立っていたのは、昼間にすれ違った、あの黒髪の少女だった。


(あっ……あの子だ。えっと、ひの……はるなさん……なのかな?)


心の中でそう呟いた想太は、少しためらったあと、おそるおそる声をかけた。

「……あの、ひの、はるなさん……で、合ってる?」

風が一度、ふたりの間を吹き抜けた。

はるなは、驚いたようにこちらを振り向く。


「……なんで、知ってるの?」

声は小さく、しかし明確に“警戒”を孕んでいた。

「ご、ごめん。別に変な意味じゃなくて……たぶん、端末が、教えてくれたんだ。気のせい、かもしれないけど」

「……端末?」


はるなは眉をひそめた。

それ以上は何も言わなかった。

だが、声に怒気はなかった。

──どこか、懐かしさのような、不思議な静けさがそこには流れていた。


ふたりの間に、沈黙が訪れる。

その沈黙を破ったのは、優しいホログラムAIの声だった。

「そろそろ下校時間です。屋上にいる生徒の皆さん、安全に気をつけてお帰りくださいね」

遠く、ホログラムの光が淡く点滅する。

風がまた吹く。

はるなは、すこしだけ俯いたまま、夕日の方へ目を向けた。

想太は、それ以上なにも言わなかった。

ただ、同じように夕日を見ていた。


──この静けさが、なぜか心地よかった。


しばらくして、はるながふと顔を上げた。

「……じゃあ」

それだけ言って、彼女は屋上の出口へと向かって歩き出した。

想太はその背中を、どこか名残惜しそうに見送った。


(……なんか、変な人。でも……ちょっとだけ、安心したかも)


そんな声が、彼の心の中で、微かに残っていた。


──夜。

カーテンの隙間から差し込む月の光が、天井に淡く広がっていた。

成瀬想太はベッドの上で横になりながら、ぼんやりと今日の出来事を思い返していた。


(……名前、間違ってなかったんだ)


小さな安堵と、不思議な余韻が胸の奥に残っていた。

あのときの彼女の表情。

警戒と驚き、それから……ほんの少しだけ、安心したような瞳。


(変な出会い方だったけど……また話せるかな)


考えても仕方ないと思いながらも、脳裏には彼女の姿が焼きついていた。


髪は肩までのセミロングで、風になびくたびに光を帯びるようだった。

強がっているようで、どこか壊れやすそうな雰囲気。

まるで、夢の中で出会った“ともり”の面影が、少しだけ重なるような……。


「ともり……か」


名前を呟くと、どこか懐かしい感情が胸に広がった。

それは、まだ形にならないけれど──確かに何かを呼び覚ます音だった。


やがて、彼のまぶたはゆっくりと落ちていった。


──別の場所、別の夢。


灯野はるなもまた、自室のベッドで目を閉じていた。

今日一日のざわめきが、頭の中にふわふわと浮かんでいる。

誰とも話したくなかったのに、話してしまった。

それも、名前まで知られていた。


(……あの子、なんだったんだろ)


風の音が、耳の奥で遠ざかっていく。

意識がだんだんと深く沈んでいく中、ふと彼女の夢に──“あの声”が差し込んできた。

「──また会えたね」


やさしく、懐かしく、でも確かに誰かの声。

はるなは、夢の中で微かに首をかしげた。

(……誰?)


──そして、朝。

アナウンスが校内に流れる。

「本日より3日間、灯ヶ峰学園は“新生活適応週間”に伴い、一部授業を休講とします。これは、生徒の心身の状態を考慮し、柔軟な環境への順応を目的とした措置です。該当生徒は個別カリキュラムに従い、登校または自宅学習を行ってください」


街が動き出す気配。

次の舞台が、ゆっくりと幕を上げようとしていた。

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