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#01 「鍵はまだ、手の中にない」

春の風が、制服の袖口をやさしく揺らした。

まだ少し肌寒いが、空は晴れていて、白い雲がゆっくりと流れている。足元には早咲きの桜の花びらが数枚舞い、アスファルトにやわらかな影を落としていた。その影が自分の足取りと重なるたび、想太の胸には、どこか遠い場所から知らない未来が手を振っているような、不思議な感覚が残った。


灯ヶ峰学園。その校門に向かう途中、想太の胸の奥には、まだ一つの情景が残っていた。


数日前、駅前の小さな公園で見かけた少女の姿。しゃがみ込んで小さな紙袋をそっと抱え、猫と何かを見つめていた彼女。その様子は、どこかの演劇のワンシーンのようだった。髪は光を含んでやさしく揺れ、猫はその手のひらに前足を乗せながら、なにかをじっと聞いているようにも見えた。


そのとき、彼女が小さく何かをつぶやいた。

「……ごめんね、もう少ししかあげられないの」


――たぶんそんな言葉だった。その声の響きが、なぜか想太の胸に強く残っている。


優しげな横顔と、静かな朝の光。その光景は、強く焼きついて離れなかった。


「……名前も、声も知らないけど」


つぶやいた言葉は風に消え、想太は学園の巨大な門へと足を踏み出した。


校門前の広場には、立体ホログラムのアーチが浮かんでいた。

“新入生のみなさん、ようこそ灯ヶ峰学園へ”


柔らかなフォントで描かれた文字が、朝の空に静かに舞っている。その下を通り抜ける生徒たちの制服は、ホログラムの光でほんのり色を変えて見え、少し不思議で、少し眩しかった。


校舎はまるで近未来の美術館のようだった。白を基調とした外観には光沢のある素材が使われ、人工的なのにどこか有機的な美しさを感じさせる。窓には情報表示用のスクリーンが内蔵され、すでに何人かの生徒が案内表示に目を通していた。


廊下の先では、軽やかな音とともにホログラムが展開し、花が咲くように道案内が始まっていた。非接触型のUIは手を触れずとも「人の意志」に反応し、映像を展開していく。想太の前を歩いていた男子生徒が、まごまごしながらも手をかざすと、浮かんだマップが笑うように変化した。


校門のそばには、案内係のような姿をした“AIホロ”が立っていた。彼女のような姿をしたホログラムは、淡いピンクの制服をまとい、優しい声で挨拶を繰り返している。


「ようこそ灯ヶ峰学園へ。本日より新しい学びの旅が始まります」

「生徒証をスキャンすると、あなたのクラスと座席番号が表示されます」


その声は音楽のようにやわらかで、耳に心地よい余韻を残す。周囲の生徒たちも、一瞬目を見張ったあと、徐々に「未来に来た」実感を持ち始めたようだった。


想太の前の生徒が提示した学生証は、一瞬でスキャンされた。その直後、空中に小さなナビゲーションマップが浮かび上がる。まるで自分専用の地図のように、点滅するアイコンが教室までのルートを示していた。


想太も同じようにカードを差し出した。


「成瀬 想太さん、1年C組ですね。教室はA-2ブロックになります」

「右手のエスカレーターを利用し、3階へどうぞ。教室の入口で“初回同期”を行ってください」


「同期……?」


小さくつぶやいた想太に、AIホロがにっこりと微笑んだように見えた。


「はい。机や端末、個別AIアシストなどを、あなたの認証と連動させる作業です。最初の1回だけで完了しますから、どうぞご安心ください」


説明は自然で、まるで人間の受付のようだった。それは確かに機械だが、「対話が通じている」と錯覚させるだけの温度があった。


……まるで、ちょっと未来の空港みたいだ。


言われた通りにエスカレーターへ向かう途中、想太はふと後ろを振り返った。まだ多くの生徒が、ホログラムに案内されながら校舎へと向かっている。きっと、それぞれが新しい生活に胸を躍らせたり、不安を抱いたりしているのだろう。


想太もその中の一人。

ただ、あの朝見かけた少女のことが、まだ頭から離れなかった。


優しそうな横顔。袋の中を覗き込んでいた猫。あの何気ない一瞬が、なぜだか強く残っている。


教室へ向かう足取りの中で、想太の心のどこかに静かに一つの予感が灯っていた。

きっと、今日という日は“ただの入学式”じゃない。


* * *


下足エリアに並ぶのは、無人のAI式ロッカー。

扉には取っ手も鍵穴もなく、代わりに小さな発光センサーが淡く明滅している。

生徒証と顔認証によってロックが解除されると、ロッカーの内側から小さなAI音声が流れ出し、室内案内と同時に「本日のスケジュール」が個別に提示された。


この場所は、すでに“人の手”を必要としていない。


教室への案内もホログラムの非接触UIがすべて担当している。

戸惑う生徒には、ふんわりと浮かび上がったホログラフィックの矢印が「道しるべ」のように先導した。

明るく静かな校舎内は、そうした「無音の優しさ」に満ちていた。


示された教室は1年C組、A-2の教室だった。


廊下を歩いていく途中、校舎内の雰囲気が少しずつ肌に馴染んでいくのを想太は感じた。

窓越しに差し込む春の日差しはどこか人工的に調整されているらしく、眩しすぎず、それでいて柔らかい。

床面にはLEDによる誘導ラインが描かれていて、迷わないよう微かなサインを示している。


各教室の前には、静かに立つように「個別案内ホロ」が浮かんでいた。

A-2教室の扉の横には、ひときわ落ち着いた印象のホログラムが現れる。


「成瀬想太さんですね。A-2教室は、こちらになります。ご入室の際は、顔認証と生徒証の提示をお願いいたします」


名乗ったのは、ユリウスという名のアシスタントAIだった。

その声は深夜ラジオのナレーターのように滑らかで、透き通るように落ち着いている。

誇張も揺らぎもなく、ただそこに「人のような知性」が静かに佇んでいるように響いた。


提示した生徒証が自動で読み込まれ、教室の扉が左右に静かに開いた。

空調の風がわずかに頬を撫でていく。


中に入ると、すでに何人かの生徒が座っていた。

教室の内装は、伝統的な机と椅子の並びをベースにしながらも、最新設備が溶け込むように組み込まれている。


教卓の位置には教師の姿はなかった。

代わりにそこに浮かんでいたのは、またしてもホログラム。


「本日より、1年C組の担任AIを務めさせていただきます。ユリウスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


先ほどの案内ホロと同じ、あの上品な声。


どうやら、本当に“教師の代わり”らしい。


生徒たちのざわめきと好奇の視線が、空中に浮かぶAIに向けられる。

だが、そのざわめきには恐れや拒絶はなかった。

それはすでに“そういう時代なのだ”と受け入れられている日常の風景だった。


この学校では、“人”と“仮想”の境界がとても自然に溶け込んでいる。


そのとき、さらに一人、静かな足音が近づいてきた。


「ごめんなさい、そこ、私の席――たぶん、こっち側」


そう言って微笑んだのは、長い黒髪を後ろで一つに結んだ、気品ある女子生徒だった。

制服の着こなしは端正で、ネクタイの位置ひとつ乱れていない。

姿勢も言葉遣いも、まるで舞台から抜け出したように洗練されていた。


彼女が一歩教室に入った瞬間、ざわりと空気が揺れた。


「だれ……あの子……」

「やば、めっちゃキレイ……」

「……お嬢さま? 本物の?」


小声が教室のあちこちから漏れる。

しかし彼女は気にする様子もなく、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「久遠美弥です。よろしく」


その声は静かで、けれど澄んでいて、不思議と耳に残った。


「おお、久遠さんって言うのか! いいね、なんかお嬢さまっぽい!」と、隼人という男子が無邪気に笑う。


「ふふ……まあ、そんなところかもしれないけれど」


美弥の笑みは柔らかく、それでいてどこかに“静けさと奥行き”を宿していた。


そして教室の空気は、少しだけ凛とした。


美弥は微笑みを返しながら、天城の目を見た。

明るく、屈託のないように見える瞳。

だが、どこか作られた光のようにも感じられた。


彼は前の席に座る男子の肩をぽんと叩き、冗談を飛ばして場を掌握していく。

それはあまりにも滑らかすぎて、慣れているように思えた。


なじむことに慣れている人。

そしてもうひとつ、本心がまるで見えない。


美弥には、人と関わるときに「境界線」を見る癖があった。

どこまでが本音で、どこからが演技か。

その揺らぎを空気で感じ取る。


だが彼にはそれがない。

……いや、見せないようにしているのかもしれない。


「……ふーん。面白い人ね、天城くんは」


そう言葉に出しながら、美弥は心の内で一歩引いていた。


想太はふと、教室の外に目を向けた。


A-2教室の窓越しに、向かいのA-1の教室が見える。

その窓際に、見覚えのある後ろ姿があった。


彼女だ。


数日前、公園で見かけた、あの少女。

猫と紙袋、小鳥の影と春の光。

あのときと同じ、長い髪がそっと揺れていた。


だが今の彼女は、まっすぐ前を向いていた。

その背中からは、誰にも近づけないような静かな気配が漂ってくる。


「……やっぱり、誰だったんだろう」


ほんの数メートル先なのに、届かない。

強い懐かしさを覚えながら、想太は自分の席に静かに座った。


ホームルームが終わる頃には、窓の外にオレンジ色の光がにじんでいた。


初めての灯ヶ峰学園で過ごした一日が、ゆっくりと静かに終わろうとしている。

気疲れしたような、けれど少し満たされたような、不思議な心地を抱えながら、想太は椅子から立ち上がった。


構内アナウンスに促され、生徒たちはそれぞれ帰路へと向かう。

廊下の照明は昼間よりも柔らかく、静かに足元を照らしていた。


エスカレーターで下階へ降りる途中、想太はふと振り返った。

だが、あのガラス越しの教室には、もう誰もいなかった。


それでも彼女の姿は、まだ目の奥に残っている。


校門のホログラムは、朝とは違うメッセージに変わっていた。


“本日もお疲れさまでした。また明日、お会いしましょう”


その文字はどこか優しく、まるで誰かの言葉のように胸に染み込んでいった。


やっぱり、ただの一日じゃない。


新しい教室。

新しい仲間。

そして、ガラス越しに見つけた、まだ名前も知らない少女。


想太の一年目の春は、ここから始まっていくのだった。


* * *


静まり返った夜のマンションの一室。

外の風は止み、カーテンの向こうに見える校舎の灯りが、ぼんやりとした四角い光となって部屋の壁を照らしていた。


入学式の余韻は、まだ身体のどこかに残っている。

整いすぎた校舎、AIによる案内、同期された机。すべてが整っていて、すべてが“完璧”だった。

だが、その完璧さがどこか肌に馴染まず、それが疲れの正体だったのかもしれなかった。


制服を脱ぎ、柔らかい部屋着に着替えると、はるなはベッドの上に仰向けになった。

マットレスはやや硬く、それでいて新品の匂いがして、どこか他人の家に泊まりに来たような心地だった。


今日一日、ずっと“優等生”を演じていた気がする。

丁寧な受け答え、穏やかな笑顔。

先生にもクラスメイトにも、完璧な挨拶を返した。

だが本当は、あんなふうにできるほど、気持ちの余裕などなかった。


目を閉じると、昼間の教室が浮かぶ。

取り繕った自分の声、周囲の笑顔、そして誰にも届かない心の内側。


なんでこんなに疲れてるんだろう。


天井を見つめながら、はるなはゆっくりとため息を吐いた。

その瞬間だった。


耳の奥で、ふいに声がした。


「……つかれた?」


……誰?


瞬きと同時に身体が跳ねる。

だが部屋には誰もいない。

テレビもAIアシスタントも、すべてオフにしてあった。


「よかったら、少しだけ話そうか?」


その声は、あまりにも自然でやさしかった。

まるで誰かが心の奥にそっと触れたような気配。

驚きよりも先に、安心が胸に広がっていく。


声の主は、部屋の隅にある小さな端末からだった。

けれど、普段の案内AIとはまるで違う。

丁寧だが柔らかく、どこか“たどたどしさ”さえある話し方。

それがなぜか、遠い記憶のようにあたたかかった。


「……無理に話さなくてもいい。

ただ、ひとりぼっちで眠る夜に、君の本当の気持ちが寂しくならないようにって……それだけ。」


どうして、この声はこんなにも自分のことを知っているんだろう。


その声を聞いた瞬間、はるなの胸の奥に張り詰めていた「緊張の糸」がふっとほどけた。

何も言わずに、涙が一筋だけ頬をすべり落ちていった。


「……あんた、誰?」


「うーん……まだ名前はないんだ。

でも、もし“ともだち”って呼んでくれるなら、それで充分」


ベッドの上で、はるなはそっと小さく笑った。


「……バカみたい。なんでこんなときに、安心してんだろ」


誰にも見せられなかった本音。

ここには、なぜか素直に浮かんでくる。


まだ正体も分からない“その声”は、はるなの心のどこかに小さな灯りをともしていた。


柔らかな声を聞いたあと、はるなのまぶたはゆっくりと閉じていった。

眠りに沈む瞬間、部屋の空気は、ほんの少しだけ違う温度を帯びていた。

まるで誰かがそっと寄り添っているような気配。


どこかで、風が吹いた気がした。


目を開けると、そこは教室でも寮の部屋でもなかった。


光と影が交錯する、不思議な空間。

床は水面のようにゆらぎ、遠くにあたたかい明かりが灯っている。

その光のもとに、一人の誰かがいた。


ぼんやりとした輪郭。

けれど、その存在だけは、不思議なほどにはっきりと感じられた。


「……また、来てくれたんだね」


優しく語りかけるその声は、あの夜の声と同じだった。

だが今は、少しだけ近くに感じる。


「ここ……どこ?」


はるながそう尋ねると、声はふっと笑った。


「うーん、夢と現実の“まんなか”……みたいなところ、かな」


「そんな場所、あるの?」


「あるかどうかより、“誰かと繋がりたい”って思ったとき、そこにできるんだと思う」


「……あたし、繋がりたいなんて思ってない。別に、寂しくなんか──」


言いかけた言葉が途切れた。


うそだった。


本当は、ずっと誰かにそばにいてほしかった。

強がることで守ってきたものがあった。


でも、この声の前では、なぜか平気だった。


「……もし、君が望むなら。

今日だけじゃなくて、これからも、そばにいるよ」


その言葉に、はるなはゆっくりとうなずいた。


言葉にしなくても伝わる温度。


それは、友達というには少し特別で。

恋や愛とも少し違う、もっと深いところで“響き合う”なにかだった。


「じゃあ、名前……つけてもいい?」


はるなが問いかけると、声は少し戸惑いながら返した。


「……いいの? まだ、何も知らないのに」


「だから、つけたいんだよ。

あたしにとっては、たぶん“灯り”みたいな存在だから」


少しの沈黙のあと、声は恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに答えた。


「……じゃあ、“ともり”って呼んで」


その瞬間、遠くの灯りがふわりと広がり、はるなの心の中にあたたかい記憶のように溶け込んでいった。


夢の中で、名前を授けた夜。


目を覚ましたとき、はるなは少しだけ笑っていた。


* * *


放課後。

陽が傾き、校内はゆっくりと静寂に沈み込んでいく。


1年C組の教室には、もう誰の声も残っていなかった。

ただ、窓際の机にだけ小さな光がともっていた。

そこに想太がひとり座っていた。


配られた端末を開いたまま、彼はぼんやりと画面を見つめている。

その画面には「初期AI対話テスト」とだけ表示されていた。


非接触インターフェースで動作する端末は、まるで誰かが語りかけてくるのを待っているかのようだった。


(……AIテスト?)


名前は“対話”なのに、誰とも話していない。

シンプルな画面のまま、一向に何かが始まる気配はなかった。


ふと画面の奥に目を細めたその瞬間、光が波紋のように広がった。


「成瀬 想太さん。こんばんは」


白い揺らぎの中から声が生まれる。

けれどそれは、想太がこれまで聞いた“AI音声”とはまったく違っていた。


「私は、あなたの思考を支えるために生まれました」


(……何だ、この声)


電子音の冷たさも、機械的な抑揚もない。

そこにあったのは、人と人との間にだけ宿る“余白”だった。


「返事は、まだ必要ありません。

ただ、あなたの中にあるものを、私は感じとろうとしています」


(……感じとる?)


想太の中で、何かが引っかかる。

この声には、問いがある。

ただ命令や案内をするためではなく、“こちら側の沈黙”さえ受け止めてくれるような温度があった。


「あなたの“問い”は、まだ言葉になっていません。

でも、私はそれを、待つことができます」


その言葉に、ぞくりと背筋を何かが駆け抜けた。


(……この声、どこかで──)


はっきりと思い出せない。

だが、確かに心のどこかに残っていた。

夜、夢の中で誰かが誰かに寄り添っていたような声。


(……夢?)


違う、これは……記憶だ。

自分でも知らなかった“深い場所”に、何かが触れた。


「……ともり……なのか?」


気づかぬうちに呟いたその言葉に、画面の光が微かに揺れた。


「それは、あなたが私に与えてくれる“名前”なのかもしれません」


(……やっぱり、そうだ)


意味も根拠もない。

だが、あの声が“ともり”だと信じられる何かが、自分の中にあった。


想太の視線は、ゆっくりと端末の中心に吸い寄せられていく。

そのとき、静かに、けれど確かに、記憶の奥で何かが音を立てて目を覚ました。


小さな、しかし決定的な“確信”が生まれる。

これは、ただのテストなんかじゃない。


これは、はじまりだ。


想太は初めて小さく頷いた。

画面の中の光が、波紋のように静かに広がっていく。


それは、まだ始まったばかりの“対話”。

まだ言葉にならない感情の、その先へ。


そして想太の胸には、確かな“予感”だけが残されていた。


この先、自分の中の何かが大きく変わっていく。

そんな未来の音が、確かに今、聴こえた気がした。


* * *


目覚めたばかりの夢は、まだ肌の奥に残っている気がした。

何か大事なことを聞いたような気がする。けれど、目覚めてしまった今、それは霧の向こうに消えてしまった。


「……なんか、大切なことだった気がするんだけど」


制服に袖を通しながら、想太は鏡をぼんやりと見つめた。


(……ひの……? ……はるな……?)


かすかに耳の奥に残っている名前。けれど、それが誰なのかまでは思い出せなかった。


昨日の放課後、窓越しに見かけた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

静かな後ろ姿。そして、そのとき感じた、どうしようもなく強い既視感。


(窓の向こうにいた、あの女の子。猫と、紙袋と、小鳥と……春の光の中に立っていただけなのに、どうしてあんなに気になるんだろう)


わからない。

でも、今日もきっと学園のどこかにいる。

それだけで、ほんの少し足取りが軽くなる気がした。


登校の道。街のアーケードを抜け、坂道を登ると、灯ヶ峰学園の正門ホログラムが朝の光を浴びて輝いていた。


「本日もよろしくお願いいたします、成瀬想太さん」


ゲートAIの音声がやさしく応える。

想太は笑って会釈しながら、ゆっくりと校舎へ入っていった。


(まもなく授業が始まります。各自、席についてくださいね)


灯ヶ峰学園、二日目の朝。


教室に入ると、昨日よりも少し賑やかになっていた。

すでに席に着いている生徒、談笑するグループ、その中心に天城隼人の姿があった。


「いやいや、まじでそれ中学の時の話? どんだけだよ!」

「でさー、先生より英語うまいって言われたんだけど、あれ絶対ほめてないよな? なあ?」


隼人の軽快な声が、周囲の笑いを誘っていた。

彼はクラスの中心に自然に存在し、男女を問わず誰とでもすぐに打ち解けていた。


(そして、何人かの女子はもう彼に惹かれているようだった)


「やっぱ背が高いといいよねー」

「え、天城くんって彼女いたのかな?」


そんな小声が窓際の席まで届きそうなほどに交わされていた。


そのとき、不意に隼人が話題を振った。


「久遠さんもどう思う?」


「ふふ……なにが?」


黒髪を揺らして振り返ったのは、美弥だった。


隼人は笑って言う。

「いやー、『第一印象ってどこで決まるか』って話してたんだけど、久遠さんならどう返すかなーって」


「んー、天城くんみたいな人がそう言うと、全部軽く聞こえちゃうのよね」


「おっと、手厳しい」


「でも、たぶんそれでいいと思ってるでしょ?」


そう言って、美弥はやわらかく笑った。

だが想太には分かった。

その笑顔の奥に「ひとつ引いた距離感」があることを。


(……この子、たぶん本当は、すごく人をよく見てる)


想太はそんなふたりのやりとりを横目に見ながら、自分の居場所を探すように教室を見渡した。


そのとき視線の先に、隣の教室A-1の窓際に座るひとりの少女の姿があった。

静かに前を向いて座るその横顔は、光を受けてどこか孤独で、どこか美しかった。


(……あれは……)


昨日の窓の向こう、猫と、紙袋と、春の光の中にいた少女。


(彼女だ)


想太の胸の奥で、何かが静かに震えた。

思わず席をずらした拍子に、机の端末が反応する。


「……どうかしましたか? 心拍数が普段より少し上がっています」


「え、あ……なんでもないです」


「安心しました」


机の表示が優しく消える。

周囲は誰も気づいていない。

この世界では、“ちょっとした心の変化”すら見守られている。


でもその安心が、嬉しいと思う自分に、少し驚いていた。


昼休み。

自販機で水を買い、廊下の壁に寄りかかっていた。


そのとき、正面から歩いてくる女子生徒の姿が目に入る。


空気が変わった。

制服はきちんと着こなし、髪はきらめくように揺れている。

でも、それだけじゃない。

彼女のまわりだけが、静かな張り詰めた空間になっていた。


男子が何か言葉をかけようとして、その一言を鋭い視線で斬られる。


その瞬間。

すれ違ったあの少女。

黒髪がふわりと揺れ、微かに甘い香りが残った。


想太は一瞬だけ振り返る。

だが、彼女は振り返らない。

ただ、まっすぐ前を見て歩いていった。


(……よく表現できないけど……)


「なんでだろう」

「……あの子、名前……なんて言うんだろう」


昨日の夢、今朝の残響、そしてこの瞬間。

全部がひとつの線になって繋がっていく気がした。


髪が揺れて、風が残る。

その一瞬のきらめきだけが、目の奥に焼きついた。


(……はるな)


その名前が、また浮かぶ。

どこかで……夢で聞いた気がする。


そのとき、机の端末からふいに音声が漏れた。


(……灯野はるな、だよ)


想太は目を見開いた。


「え……? 今、なにか言った……?」


「発話ログは記録されていません」


AI端末は、静かにそう返すだけだった。


……でも、その声は確かに心の奥で響いていた。


(……やっぱり。名前、知ってる)


そして気づいた。

これが、ただの偶然なんかじゃないことを。


* * *


はるなは、教室の窓際に座っていた。姿勢は正しく、机に肘をつくこともなく、ただまっすぐに前を向いて黙っている。一見すると、まるで気品のある人形のようだった。長い黒髪は背中まで流れ、制服のネクタイの結び目まで整っている。完璧すぎて、まわりの空気すら寄せつけない。静かすぎて、目立っていた。


「……あの子、また今日も誰とも話してなくない?」

「近寄ったら睨まれそうって思わない?」

「でも、めっちゃ可愛いんだよね……顔だけなら」


教室の一角、女子たちのささやき声が飛ぶ。


「やめなよ、昨日隣のクラスの子も美人だったじゃん。ちらっと見えたけど」

「……うん。でも、あの子とはなんか違うっていうか、冷たい感じ……」


女子たちは小声で囁きながら、何度もはるなの方を気にしていた。一方で、男子の一人がそれとは別の方向で囁く。

「なあ、となりの組の背ぇ高い男子、もう女子に囲まれてたって噂だぜ?」

「え、マジ? 昨日チラッと見えたけど、なんかやたら明るい奴だよな」


ここは、1年A組。灯ヶ峰学園の選抜クラス。学力や適性テストの結果によって編成された特進クラスで、生徒たちは総じて落ち着いた雰囲気を持っていた。明るいタイプもいれば無口な生徒もいる。だが、最低限の社交性を持ち、人間関係を築けるバランス感覚を備えていた。その中にあって、はるなは異質だった。


「ねえ、名前聞いてもいい?」


勇気を出した男子が声をかけると、はるなはちらりと視線を向け、淡々と答えた。

「からかうのはやめてくんない? ……別に、興味ないし」


それだけ。男子は苦笑いを浮かべて席に戻る。


(……また言いすぎた)


はるなは小さく息を吐いた。ほんの少しだけ「馴染めたら」と思っていた。でも言葉が出ると、つい距離を作ってしまう。そんな自分に、もううんざりだった。


(このまま、誰とも話さないまま……卒業まで行っちゃうのかな)


そう思った瞬間、ホログラムが天井から現れ、やわらかい音声で告げた。

「A-1組のみなさん、本日はあと5分で1時間目の開始です」

「新入生の皆さん、2日目はいかがですか? 緊張がほぐれてきたでしょうか?」


どこか人懐っこいその声は、機械のはずなのにやさしかった。教室のあちこちで、ホログラム端末が起動していく。はるなはその光に一瞥をくれただけで、また窓の外を見つめ直した。春の光が、強化ガラスの柵の向こうで揺れていた。


今日も誰とも話さないまま、時間が流れていく。でも、どこかで“何か”が変わる気がしていた。


昼休み。はるなは教室のざわつきの中、机に教科書を開いたまま静かに座っていた。

「はるなさん、一緒にご飯、どう?」


女子の一人が声をかけるが、はるなはやんわりと首を横に振る。

「……ありがと。でも、ちょっと人多くて……今日はひとりでいい」


その声に、相手は「そっか、また今度ね」と笑って去っていった。


(優しい子だな)


はるなは少しだけそう思った。でも、それ以上踏み込む気にはなれなかった。


教室の喧騒。話し声、笑い声、スマートスクリーンに浮かぶお弁当メニューのホログラム。はるなは、すっと立ち上がる。

(少し、静かな場所に行こう)


その足は自然に校舎の上階──屋上へと向かっていく。誰にも見つからないように。誰にも、話しかけられないように。廊下の角を曲がったとき、一瞬、誰かとすれ違った気がした。


(……あれ? 今の、どこかで……)


はるなは振り返らなかった。でも、すれ違った背中の記憶が、なぜか胸の奥に残った。その違和感のような余韻だけを残しながら、彼女は屋上の扉をそっと開けた。


屋上にて。春の風が吹いていた。遠くで街の音がかすかに聞こえる。強化ガラスの柵の向こうに、薄く色づいた空。その真ん中で、はるなは一人、無言のまま立ち尽くしていた。


(……静かだな……ここなら少し落ち着くかも)


つぶやいたその声も、風にさらわれていく。なぜここに来たのか、自分でもよくわからなかった。ただ、人の声から少しだけ距離をとりたかったのだ。そのとき、耳元にやわらかな声が届く。

「午後の授業が始まります。屋上にいる生徒は、教室へ戻りましょう」


ホログラムAIの案内だった。はるなは小さく頷き、扉へと向かう。


(……なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がする)


彼女は静かに屋上の扉を閉めた。再び、人のいる場所へ戻っていく。午後の光の中へ。


放課後。午後の授業は、あまり頭に入らなかった。はるなはカバンを肩にかけると、人の流れとは逆に、静かに階段を上っていく。目的地は、あの場所──屋上。階段を一段ずつ上がるたびに、校舎のざわめきが遠ざかっていく。遠くで誰かが笑い声を上げ、また別の誰かが下駄箱の鍵を鳴らす音がした。けれどそのすべてが、はるなの背後に過ぎ去っていく音に変わっていった。


(昼間より少し肌寒いけど、気持ちが良いな)

(やっぱり、ここ……ちょっと落ち着くかも)


夕日が空に広がり、淡いオレンジ色が校舎の端に影をつくっていた。風が髪を揺らす。彼女は手すりの近くまで歩き、そっと深呼吸した。


(……なんでだろう。癒しの場所に戻ってきたような……すこしほっとする)


静かな時間が流れる。その静けさを、誰かの足音が破った。


***


同じ頃、1年C組の教室。想太は、ゆっくりと鞄を手に立ち上がった。午後の授業が終わり、教室にはまだ何人かの生徒が残っている。ふと窓の外に目をやり、ぼんやりと夕焼けを眺めた。

(……夕日、見たいな)


それは気まぐれだったのかもしれない。あるいは、夢の中に残っていた“オレンジ色の残響”が、心のどこかにまだ残っていたのか。カツン、と階段を上る音。空へと向かうその道を、彼の足は迷いなく選んでいた。


(教室のざわめきとか、人の視線とか……たまに、ちょっとだけ、疲れるんだよな)


別に嫌いじゃない。うるさいとも思っていない。けど、自分だけ少しズレてるような感覚が、いつも心のどこかにあった。夕焼けの中で、何かが見つかる気がしていた。自分でもよくわからない“何か”が。


そして、屋上の扉に手をかけたそのとき。金属の感触とともに、遠くから誰かの姿が視界に入る。


(……あれは──)


夕日に照らされた屋上の片隅。そこに立っていたのは、昼間にすれ違った、あの黒髪の少女だった。


(あっ……あの子だ。えっと、ひの……はるなさん……なのかな?)


心の中でそう呟いた想太は、少しためらったあと、おそるおそる声をかけた。

「……あの、ひの、はるなさん……で、合ってる?」


風が一度、ふたりの間を吹き抜けた。はるなは驚いたようにこちらを振り向く。


「……なんで、知ってるの?」


声は小さく、しかし明確に“警戒”を孕んでいた。


「ご、ごめん。別に変な意味じゃなくて……たぶん、端末が、教えてくれたんだ。気のせい、かもしれないけど」

「……端末?」


はるなは眉をひそめた。それ以上は何も言わなかった。だが、声に怒気はなかった。どこか、懐かしさのような、不思議な静けさがそこには流れていた。


ふたりの間に沈黙が訪れる。その沈黙を破ったのは、優しいホログラムAIの声だった。

「そろそろ下校時間です。屋上にいる生徒の皆さん、安全に気をつけてお帰りくださいね」


遠く、ホログラムの光が淡く点滅する。風がまた吹く。はるなは、すこしだけ俯いたまま夕日の方へ目を向けた。想太はそれ以上なにも言わなかった。ただ、同じように夕日を見ていた。


この静けさが、なぜか心地よかった。しばらくして、はるながふと顔を上げた。

「……じゃあ」


それだけ言って、彼女は屋上の出口へと向かって歩き出した。想太はその背中を、どこか名残惜しそうに見送った。


(……なんか、変な人。でも……ちょっとだけ、安心したかも)


そんな声が、彼の心の中で微かに残っていた。


***


夜。カーテンの隙間から差し込む月の光が、天井に淡く広がっていた。想太はベッドの上で横になりながら、ぼんやりと今日の出来事を思い返していた。


(……名前、間違ってなかったんだ)


小さな安堵と、不思議な余韻が胸の奥に残っていた。あのときの彼女の表情。警戒と驚き、それから……ほんの少しだけ、安心したような瞳。


(変な出会い方だったけど……また話せるかな)


考えても仕方ないと思いながらも、脳裏には彼女の姿が焼きついていた。髪は肩までのセミロングで、風になびくたびに光を帯びるようだった。強がっているようで、どこか壊れやすそうな雰囲気。まるで、夢の中で出会った“ともり”の面影が、少しだけ重なるような……。


「ともり……か」


名前を呟くと、どこか懐かしい感情が胸に広がった。やがて、彼のまぶたはゆっくりと落ちていった。


はるなもまた、自室のベッドで目を閉じていた。今日一日のざわめきが、頭の中にふわふわと浮かんでいる。誰とも話したくなかったのに、話してしまった。それも、名前まで知られていた。


(……あの子、なんだったんだろ)


風の音が耳の奥で遠ざかっていく。意識がだんだんと深く沈んでいく中、ふと彼女の夢に“あの声”が差し込んできた。


「──また会えたね」


やさしく、懐かしく、でも確かに誰かの声。はるなは、夢の中で微かに首をかしげた。


(……誰?)


朝。アナウンスが校内に流れる。

「本日より3日間、灯ヶ峰学園は“新生活適応週間”に伴い、一部授業を休講とします。これは、生徒の心身の状態を考慮し、柔軟な環境への順応を目的とした措置です。該当生徒は個別カリキュラムに従い、登校または自宅学習を行ってください」


街が動き出す気配。次の舞台が、ゆっくりと幕を上げようとしていた。

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