#00 プロローグ
想太はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
まだ誰もいない寮の部屋。薄いカーテン越しに、朝の光がやわらかく差し込んでいる。
この街に来て、まだ数日。それでも制服の襟を整える手つきだけは、少しずつ“自分のもの”になってきた。
ここから三年間。久遠野での生活が始まる。
新しい環境、新しい街、そして新しい出会い。外部受験でやってきた彼にとっては、すべてが“最初から”だった。
しかし、この朝はそれだけではなかった。何が変わったのか、言葉にはできない。ただ、この街の空気がほんの少しだけ違って感じられた。
なんだろう。
言葉にしようとすると、胸の奥で何かが静かに揺れる。
「いつもと同じような朝だけど……今日は、なんか違うな」
誰に向けるでもなく、そうつぶやいた。その瞬間、耳の奥に“夢の残響”のような気配がよぎった。
懐かしいのに、思い出せない。声だけが、胸の奥に残っている。あの夢を見てから、心の奥には波紋が残っている気がした。
通学路の途中、街路樹の並ぶ舗道を歩いていると、道の向こうに小さな公園が見えた。
朝の光が芝生を照らし、ベンチのそばにひとりの少女がしゃがみ込んでいる。
長い黒髪が風に揺れ、制服のスカートの裾は草の上に落ちていた。彼女は両手で紙袋のようなものをそっと抱え込んでいる。
近くには野良猫が一匹。猫は紙袋に顔をのぞかせては、小さく鳴いた。たぶん中には、小さな小鳥がいたのだろう。
少女は猫を驚かせないように手を差し出しながら、静かに微笑んでいた。
その姿はあまりにも自然で、まるで“誰かのために何かをすること”が、当たり前であるかのように見えた。
想太はその場に立ち止まり、なぜか分からないまま目を離すことができなかった。
名前も、声も知らない。
けれど、その横顔に夢で見た“誰か”の面影が重なって見えた。
そのとき、校舎のチャイムが遠くで鳴った。
少女は小鳥の紙袋を優しく抱き上げ、猫にひと声かけてから立ち上がった。想太には気づかなかったようで、そのまま校門とは別の道を歩いていく。
数歩だけ、その背中を見送って、想太は小さくつぶやいた。
「……誰だったんだろう」
あの少女に、また会うことになるとは思ってもいなかった。しかも“まるで別人のような態度”で。
その朝に見た“優しげな横顔”だけは、その後もずっと心のどこかに残り続けていくのだった。