自責と解離。
今回は、自責と解離の関係性について俺なりの考えを綴ろうと思う。
事の発端は、先日和がとある朗読劇を母と観劇に行った事だ。和の好きな脚本家さんの朗読劇に和が尊敬する声優さんが出演する事になり、和はチケットを無事入手する事が出来たので母と観劇に行ったのだ。俺たち人格も中から見ていた。
ここまでだと、今回のテーマと何の関係があるのかわからないと思う。これは俺たちも観劇して驚いたのだが、観劇した作品がDIDを題材にしたものだったのだ。『解離性同一性障害』という言葉こそ出てはこないが、登場人物(以降、彼とする。)が二重人格である事は言及されている。
多重人格障害から解離性同一性障害に名称が変更されたのは、1994年で今から31年前の事だ。作品が執筆されたのは約20年前という事なので、解離性同一性障害の診断名が出て来ないのは観客にわかりやすく伝える為。そしてこの作品がフィクションであり、現実の症例とは少し異なる点があるからだろう。
作中でもDIDは、一般的には幼少期に親から暴力などを受けた子供が外的暴力から身を守る為に人格を形成する事や人格は現実世界で表に現れるものだという事が言及されている。その一方で彼の症状は非常に珍しい症例として、『夢の中でのみ現れる二重人格』と表現されている。彼の場合、夢の中に別人格が現れるのだ。またその発症原因は、外的暴力ではなく内的暴力。つまり自虐行為だ。
この事実が劇中で言及された時、俺は衝撃を受けるのと同時に納得した。自虐行為は読んで字のごとく、自らを虐待する事を指す。それが習慣化してしまえば習慣的に虐待を受けるのと同じ状態になり、脳は防衛反応として解離を引き起こす可能性は十分にあるのではないかと考えたのだ。そしてこの自虐行為には過度な自責思考も含まれるだろう。
この時、俺の頭に浮かんだのは和の事だった。和は自責思考がとても強い。母の証言によると、和は幼い頃から自責思考が強かったようだ。「自分はダメな子だ」「自分が全て悪い」「自分は周りに迷惑をかける」そう言った思考が和自身を追い詰めるのだ。そうして俺が立てた仮説はこうだ。『和の解離の原因は、自責にあるのではないだろうか。』
和が最初に人格解離を起こしたのは2歳頃。桜良が生まれた時だ。2歳児が自責をするはずがないと思うかもしれないが、そんなことはない。和は早産で生まれているが、2歳の時点で意思疎通が可能な程度の理解力は十分にあったようだ。無論、そんな幼い子が自責をしてしまうのには、環境的要因があった事は事実だろう。それに加え、和の場合は身体障害がある事から周囲に力を借りなければいけない事が多く、自責思考に陥りやすかったのではないだろうか。母は和に「悪くないよ」と言い続けていたが、和はそれを受け入れる事がなかなか出来なかった。今もそうだ。
そんな中、桜良は「なごみちゃんは悪くないよ」と声をかけ続けていたそうだ。桜良が以前、「2人で和だった」と言っていた事がある。桜良は元々もう1人の和だった。そんな桜良が和に声をかけ続けたのには大きな意味があるのだろう。
幼少期のトラウマの多くを抱えているのは桜良で、和には少ししか記憶はない。それでも和は自分を責め続け、桜良がそれを止めている。和と桜良は2人で1人なのだと思う。元々はひとつだった和という人格は、自我が確立する前に2つに分かれたのだ。それが今の和と桜良なのではないだろうか。
俺は医者ではないので確かな事は言えないが、和と桜良は2人で生きてきたのだろう。その2人の歩みと努力を真摯に受け止め、俺はそんな2人を守っていきたいと思う。