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第8話「貴族院の仮面」

 ——翌朝、光が斜めに差し込む貴族院の応接室。


 壁にかかる時計の針が八時半を指す頃、セレーナ・フォレスターはその扉を静かに開けた。


 重厚なマホガニーのテーブル。その奥に座るのは、行政執務官アナスタシア・セリグソン。

 銀の縁眼鏡をかけ、無駄のない所作で書類を整えている。


 「お待ちしておりました、セレーナ様。」


 穏やかな挨拶。だがその声には、わずかに張りつめた緊張の色があった。


 セレーナは一歩、部屋に足を踏み入れる。もうその瞬間から、観察は始まっている。

 

 アナスタシアの背筋は見事なまでに伸びていた。だが、テーブルの下で右手だけがそっと拳を握りしめているのを、セレーナは見逃さなかった。

 さらに机の上のインク壺が、正面から五度だけ左にずれている。


 几帳面な彼女の性格ならかならず位置を直すはず——きっと直前まで何か大きな動揺があったのだろう。


 

 「ご多忙のなか失礼します。第三王子ルシアン殿下とアリサ・クリスティ嬢の婚姻に関する件、お話を伺いたくて。」


 

 セレーナの声は穏やかだが、その視線は獲物を捉えた鷹のように鋭い。


 

 アナスタシアは軽く微笑む。

 

 「はい、もちろんです。本件については王宮からも注目されています。貴族院としても、慎重に対処する方針です。」


 その“慎重”という一言。そこだけほんのわずか、声が沈んだ。セレーナは見逃さない。


 「具体的には、どのような方針なのでしょう?」

 

 机の上に置かれたカップを手に取り、セレーナは自然な動作でアナスタシアの目を覗き込む。


 「……貴族院としては、王子の継承権を維持しつつ、アリサ・クリスティとの安定的な関係を……」

 

 アナスタシアは丁寧に言葉を選んでいる。だが、その瞳の奥に一瞬だけよぎった影。

 

 

 セレーナの脳裏で、断片が繋がっていく。

 

 

 (今のは真意じゃないわね。“安定”という言葉に揺らぎがあったのは自分自身が信じきれていない証拠……)


 「つまり、ルシアン王子のご婚姻に対して、貴族院としては全面的にご支持される、と?」

 

 静かに問い直す。


 アナスタシアは微笑のまま頷く。


 

 「ええ、そのつもりです。特に近年はルシアン殿下の支持者も増えておりますので、継承権の破棄などは誰も賛同しないでしょう。」


 ここで、テーブルの下でアナスタシアの指が小さく二度、膝を叩いた。

 

 セレーナはそのリズムを記憶する。


 (これは、彼女の本心が揺れる時の癖ね。……“支持する”とは表向き。何を隠している——?)

 


 「それはご立派なお考えですね。ですが、なぜ“全面的に”なのです? 本来なら王宮と貴族院の力関係からして、そこまで露骨な態度は取りにくいはずですが……?」


 

 セレーナは両肘をつき、すこし身を乗り出し、覗き込むように、少しだけアナスタシアのパーソナルスペースに踏み込む。

 

 その瞬間、アナスタシアはわずかに息を呑んだ。その微細な反応が、セレーナにはすべて手に取るようにわかる。



 「本音を言えば——」


 セレーナは声を落とす。

 

 「この会談自体が、私を通じてアリサに“王子からの求婚を辞退させる”よう誘導する意図も、少なからずおありなのでは?」


 アナスタシアは一瞬だけ表情を曇らせた。しかし、すぐに穏やかな官吏の顔を取り戻す。

 一瞬何か反論しそうな勢いで息を吸ったが、すぐに観念したかのように吐き出した。


 「……さすが、“魔術師”セレーナ・フォレスター様。やはり全てを見抜いてしまうのですね」


 セレーナは微笑む。

 

 「いえ。ただ、誰よりも“幸せな結末”を諦めたくないだけです」


 ふたりの間に、しばし沈黙が流れる。


 アナスタシアはカップを口元に運び、初めて自分の弱さを認めるような目でセレーナを見た。

 

 「……私たちは、王国の安定のために動いています。けれど、誰か一人の幸せを犠牲にしてまで、守るべき未来なのかどうか……いまだに迷っています。」


 (いまの言葉は嘘じゃないわね)

 セレーナはそれを静かに受け止めた。


「アナスタシアさん……率直に聞きます。ルシアン殿下が今のお立場のまま、この関係が成婚に至る可能性はどれくらいあると思いますか?」

 

 その直球の問いに、アナスタシア一瞬眉を顰めたが、すぐに真剣な表情に戻り、セレーナの深い青い色の瞳をじっと見つめた。


「率直にお答えしますと、可能性はゼロです。不可能です」


 断言するアナスタシアの瞳は、セレーナが今日見た中で、最も真実を語っていた。


 その言葉を聞いて、セレーナは、自身の心の奥底にある炎が確実に燃え上がるのを感じた。

 

「それでもなお、私の”魔法”に何かを期待されている——そう受け取ってよろしいかしら」


 そう言うとセレーナは、微笑を浮かべながら、アナスタシアの真剣な瞳をさらに深く見つめた。

 

 ——静かながら、剣よりも鋭い、ふたりの矜持と本音の交錯。


 新たな局面が、ここから始まろうとしていた。



◇ ◇ ◇



 一方、国境沿い、荒野を切り拓いたばかりの街に建っている教会の一室。

 祭壇の隅で絵本を読む子どもたちの声、外では斧の音と開拓者たちの笑い声が交じり合う。

 

 ここは教会というより、忙しく働く開拓者達の子供預かる保育施設としての役割が大きい。


 アリサはそこに身を寄せ「マリア」と名乗っていた。

 

 信頼ある貴族が管理するこの街は王宮の影響力を、ほとんどうけおらず、隠れ家としては申し分なかった。

 しかし、アリサは時おり窓の外を見やり、不安な影を瞳に落とした。


 だが、アリサは時おり窓の外を見やり、不安な影を瞳に落とした。


 あの男、昨日も見かけた――

 古びた外套に顔を隠した男が、教会の入り口をしきりにうかがっていたのだ。

 

 新入りの開拓者を装っているが、あの無駄のない動き、街の空気に馴染まぬ視線。

 

 (……王宮の“密偵”か、それとも……)


 その思考を中断するように、手元で少年が転んだ。

 

 「マリア先生、血がでちゃった……」

 

 「大丈夫。ほら、力を抜いて」


 優しい声で傷を手当てしながら、アリサは――いや、“アリサ・クリスティ”は胸の奥で問いかけていた。

 

(セレーナ様の「誰一人不幸にしない」強さに、私は何度救われてきただろう。

 でも……ルシアン様。あの人が王子であることを知った夜、私は何も伝えられず逃げるように去った。

 ——これで、本当に良かったのかな)


 誰も傷つけないつもりが、誰よりも深く誰かを傷つけているのかもしれない。

 それでも、あの人を頼って、ここに隠れるしかなかった。

 

 追手がいると知りながら、助けを呼べば、セレーナを巻き込むかもしれない、ただそれだけを恐れていた。


 (私は……自分自身のためじゃなく、“セレーナ様の未来”のために生きていく、と決めたはずなのに……)


 すると窓の外で、どこかの犬が吠えた。

 ふと、教会の裏手にいつもと違う影があるのに気付く。

 


 (——見つかった?それとも……まだ“大丈夫”なのかしら……)


 そんな時、不意に扉の向こうで気配が揺れた。


 「……マリアさん、いますか?」

 

 少年の声に安堵しつつも、アリサは思わず手を強く握りしめてしまう。


 その夜。

 全ての灯火が落ち、子供たちが寝静まったあと。


 アリサの部屋に、黒衣の女が現れた。


 「あなたは、”まだ”生かされているだけ。ここは安全とは言えない」


 静かな声。フードの奥の瞳は、底知れない闇を宿していた。


「セレーナ・フォレスターが動きました。あなたの手紙の意図に気がついたのでしょう」


「……なぜ、あなたがそれを?」

 

「本当の敵は、まだ姿を現していません……この先の選択を誤れば、全てを失うことになるでしょう」


「……本当の敵?選択とはなんですか?」

 

「まずは黒鴉を信用なさらぬよう……では」

 

 女はそう告げると、まるで暗闇に溶け込むように音もなく姿を消した。


 女が去ったあと、アリサは静かに身を震わせた。


 胸の奥で、セレーナの真剣なまなざし、ルシアンの優しい手の温もりが交錯する。

 

(守りたい——でも、怖い。私は、この国の運命なんて背負えない。でもルシアン様を……)


 その時、窓の外で何かが砕ける音がした。


 息を呑み、アリサは小刀を手に立ち上がる。

 外では誰かが「ここだ!」と叫ぶ声。

 

 ——その直後、闇の中から誰かの足音が近づいてくる。


(私は何を選べばいいの?——セレーナ様……私に真実を見抜く力をお与えください)


 アリサの胸は恐怖に強く締め付けられ、覚悟と緊迫が交錯する。

 

 その時、部屋の扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開きかけていた——


  

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